第32話
トイが煙たがるのを無視して、シュウはこの家で二回目の朝を迎えていた。サァと言う音で目が覚め、外を見ると雨が降っていた。霧雨が少し成長した程度の弱い雨だ。雪になってもおかしくない程に冷えているのに、もの哀しい音を立てながら雨は降り続いる。
シュウは二日間とも椅子に座って伏せって寝ていたのでそろそろ身体が痛み出していた。ベッドは使わなかった。トイのことを考えると、とてもそんな気にはならなかった。
シュウが目を覚ます頃にはいつもトイは起きていて、ソファの上で膝を抱えて座り込んでいた。トイはシュウが顔を上げても素知らぬ顔で自分の世界に居た。取り合うと必ず面倒になる。それを知っての態度だ。
まともな食事を取る事もしないまま、シュウはトイを説得し続けた。いろんな言葉を使い、何度もトイに話しかけた。だがトイは耳を貸そうともしないで、以前提示した二つの要求を交互に繰り返すばかりであった。
会話は平行線のまま全く路線を変えようとしない。シュウが躍起になりトイが鬱陶しがることで、空気まで険悪なものになっていた。
「なぁ、トイ」
「しつこいぞ、シュウ! あんたの声で頭が痛いよ。どのみち互いに互いの意見なんて受け容れる気無いんだ。悪い頭でもその位は解るだろ!」
「俺は莫迦だよ。それに解りたくもないね」
「いいから出て行けよ。ヤク切れになったら大変なんだろ? 面倒臭くなる前に早く消えてよ」
「ヤクはやめたんだ。まだ一年経ってないけど」
「ふうん。じゃあ、あの悪いムシは今どうやって抑えてんだ? 俺と居たってどうせ収まんないよ?」
嫌なところを突いてくれるとシュウは苦い顔をした。確かに、トイと居たときはずっと薬の世話になりっぱなしだった。それがシキやコウとなると話が別だった。トイには狂気を抑える事は出来ない。そしてシュウはトイの力に絡め取られてしまう。互いに互いの力を抑え合うことは出来なかった。
煙草も薬もコーヒーもない今、抑える手段は自制心だけだ。酒を飲めば狂気と肩を組んで何をし出すか分からない。
苦々しい顔のシュウを見て、トイは悪魔的な笑みを浮かべた。
「ほーら。俺と居たって何の利点もないだろ? シキの所に戻りなよ。シュウにはその方が幸せだって。俺は死んでもシュウの思うようにはなれないし、これ以上話を聞く気も無い」
「おまえと話したくてここに来たんだ。進展無しに出ていけるかよ」
シュウとの会話に激しい苛立ちを抑えきれなくなったトイは、ドアを指差し、立ち上がった。
「話は済んだだろう? 打開案は無しって事で交渉決裂だ! 挙げ句、狂気にイカレるザマなんて見せつけてくれたらすぐさま撃ち抜くからな」
「トイ?」
眉を釣り上げ怒鳴り散らしたトイを前に、シュウは首を捻った。
一方トイは、息を呑んで落ち着きを欠いている。取り消せない言葉に目を泳がせ、唇を噛んでいる。そのうち、毛布を抱いてソファに腰掛けた。
「知ってるんだよ。シュウが自分の狂気をどれだけ嫌悪してるか。そうやっていろいろ思い悩むの見てるの、目障りなんだよ……!」
「トイ……」
「でも、もしあの時シュウが殺してくれって頼んだら、俺は殺した。俺は悩まない。大切でも何でも、そうなることがそいつの本当の望みなら、その通りにしてやった方が後腐れも何も無くなるし、……幸せだろう?」
「じゃあ、おまえ自身の気持ちはどうなるんだ?」
「相手が望まないようになるなら、不幸になるのなら、その方が辛いよ、俺は」
「……そこから違うんだな、俺達」
考え方がまるで違うことは解っていた。だが、話せばどうにか通じるものだと思っていた。しかしそれは違ったようだ。ぐらついたものでなく、しっかり根を下ろしている大樹を倒すのは容易ではない。絶望に似たものがシュウに襲いかかってきた。気力の栓を抜かれたように肩を落とし、肩肘を付いて手に頭を乗せて俯いた。
それでも簡単に諦められないシュウは、すぐに出ていくことをしなかった。どんな絶望の中でも希望の光を信じたいように、シュウも僅かな可能性を求めていた。何も頭に浮かんでこなかったが、手だてがゼロとは決して信じなかった。
影は声を聞きつける。
狙いは、定まった。
弾丸、装填。
いろいろな考えが堂々巡りし始めたシュウは、落ち着き無く貧乏揺すりを始めた。シュウの苛つく行動をトイはベッドに腰掛けたまま冷たい視線で眺めやった。自分の目が覚めているのが解る。薄暗がりの中で青緑は深海の群青のようになっていることだろう。
あれほど言って、まだ解らないのか。まだ諦められないのか。
シュウが何故、そこまで自分にこだわるのかが解らない。同情ならば願い下げだ。しかし、そんな甘く腐りそうなものは感じない。こだわり始めたものを、放り出すのが嫌なだけにも見える。けれど、やはりそれほど軽いものには見えない。
酷く中途半端なのに、妙に強いこだわりがある。
苛々する。愚としか言い様のない悩みを抱えた旧友は、交わることのない平行線の交点を探っている。
楽にしてくれればそれでいいのに。
シュウの貧乏揺すりを見ながら、遠くに眠気を感じていた。
雨は少しずつ勢いを増しているようで、気が付くたびに僅かずつ激しくなっていっている。柔らかい音は既に消え去り、一粒一粒が聞き分けられる程のものになりつつある。屋根に当たる音、砂利道に落ちる音、窓ガラスに打ち付けられる音。寂寞とした室内は雨の音だけに満たされている。
誰も窓の外を見ることはしなかった。見ても暗く雨ばかりの変わらない景色だ。外のことなど何も気にすることはなかった。古い家だが、幸い雨漏りがしてきそうな様子はない。難は暖房器具がないことだった。仕舞ってあった暖房器具は引っ張り出してみたものの、経年故に故障していた。今、暖を得るためのものは毛布しかない。降りしきる雨は徐々にあらゆる熱を奪っていく。家の中にいながら外と同じ格好をしていても凍えそうだった。
シュウの貧乏揺すりは止まらない。見ている方も巻き込んで苛つく動作だ。だが、考えに集中する余り、シュウは自らの微妙な変化に気付くことはなかった。
下唇が、ほんの僅かだが歪み始めている。
だから言ったのに。
トイは溜息を吐いた。互いに互いの欠点を補えない。シュウのそれは彼自身も嫌悪するほどの害悪であるのに、今の彼はそれすら顧みていない。
いつになったらその動作が止むのか、いつになったら出ていってくれるのか。そして、いつになったら気付くのか。
疲れを滲ませた目で、シュウを睥睨した。
雨音に紛れて、足音が近づく。
まだ、誰も気付かない。
銃だけが知っている。
突然、何の前触れも無しに入り口の扉が開いた。驚いたシュウは思考を切断して扉に注視した。扉を見たのはトイも同じだったが、シュウ程慌てた様子はない。こうなることをあらかじめ知っていたかのようだ。
「あんたらの声、外まで聞こえるよ? 見つけて欲しいみたいじゃないか。なぁ、シュウ」
入り口に立ったのは、全身を雨に濡らしたシキだった。手には既に銃が握られている。もう少しで気が触れそうな笑みを作って、彼はまず、シュウを見た。
「いろいろ考えてたんだ。あんたがこの街を知ってたこと。あの日、黒狼が突然襲ってきたこと。昔、近くにあった何とかって言う組織が突然燃えて瓦解したこと。まさかとは思ったけど、来てみる価値はありそうだったし。いろいろ辿ってみたらここに行き着いたよ。この街に戻るハメになるとは思っても見なかったけど、俺の推理もなかなかだろ?」
出会ったばかりの頃のシキに狂気の要素を一滴垂らしたような口調だ。表情もそれと同じ。どちらもいつもの彼にはないものだ。その様子に、戦慄を覚えた。
シキの足下は早くも雨水が貯まり、その輪は徐々に広がっている。
「俺の庭に入ったのが間違いだったみたいだな。何も知らないフリするのも、得意なんだよ」
シュウはその言葉に戸惑いを感じつつ、シキの視線の先を気にしてゆっくりと立ち上がった。左半身でトイを庇うように立つ。二人とも利き腕は右。こう立てばすぐにトイがシキを撃つことは不可能のはずだ。そしてシキがトイを撃とうとしてもその手を弾くことが出来る。
「じゃあおまえ、あの時から俺があの組織に居たって事……」
「大した確信じゃなかったけど、おおよそ分かってた。あの店の店主が何やってるのかも何処と繋がってるのかも知ってる」
「あれがヤクだってすぐに気付いたのも、その所為か」
「まあね」
シキは冷ややかに笑った。見たこともない程に冷たい表情だ。
これはある種の狂気だろうか。
狂気を宿していると公言しているシュウでさえ、今の彼にはぞっとする。
コウの死が、彼の線を切ってしまったのだろうか。
ドアを開け放したままで居るのでそこから冷たい風が流れ込んでくる。まだ全身から雨を滴らせているシキは、仁王立ちのまま一歩も動かない。シュウを見ながらその後ろのトイの動きを監視していた。トイもシュウ越しにシキの様子を伺っているのが気配で何となく分かる。危うい均衡を、まだどうにか保っていた。
「さあ。無駄話はもういいだろう? そこを退け、シュウ」
「待てよ、シキ。コイツにもいろいろ……」
「黙れ」
言い訳はすぐに塞がれた。
「過去は関係ない。どんな過去でも、自分でしか歩けない道を自分で歩いてきた跡だ。それを引き合いに出すのは、ただの言い訳だろう。そんな戯れ言、聞きたくもない」
「シキ……」
「そいつの過去を俺は知らない。俺の過去をそいつは知らない。それでもう釣り合ってるだろ? そいつがコウを殺した。俺はそのことだけに銃を向けに来たんだよ」
一歩も譲らない姿勢に、どう説得の言葉をかければいいのかシュウは分からなかった。トイにシキに、言葉と時間がいくらあっても足りない。
その時、背後に動きを感じた。ソファ前のテーブルには銃。それが無い。
事態を悟ったシュウの前で、シキが眼を細め、嘲るように顎を僅かに上げた。
銃声と瘴気。
二つは瞬時に距離を詰める。
相手は左手で銃を持ち、撃ってきた。シュウの表情から察するに、それは予想外のことだったのだろう。しかし、シキには関係のないことだ。
発した瘴気は波状に広がり、それに触れた銃弾は塵と化した。目的を達した波は、最後に窓ガラスを割ってなりを潜めた。
部屋の中の物にそれほど変化はない。自分でも驚くほどのコントロールだ。家具の強度は落ちているだろうが、破壊までは至っていない。衝撃に耐えられなかったガラスだけが例外だ。
否。例外はもう一つ。
トイだ。
普通の人間ならば、死なないにしろ相当の影響を及ぼしているはずだ。それなのに、トイは怪訝そうに眉を顰めているだけで、特に害を得ている様子はない。
――この男、効かない……。
シキは口を曲げた。いざとなれば銃よりも有効な攻撃手段が、こうも呆気なくも否定されるとは。
「何、今の。今のが、ルイレンの言ってた力?」
「説明してやる気はないね」
そもそも、ルイレンがトイにどういう説明をしていたかも知らない。
質問をすぐさま跳ね返したシキの前で、シュウが脈絡もなく身体を折った、テーブルに手を付いているその表情を窺うことは出来ない。このことでトイとシキとは何の障害もなく相対することとなった。
二人ともシュウのことを気にする前に対峙した相手の方に集中していた。トイはゆっくりとソファから降りる。鳶色と青緑色の瞳が互いを睨み合う。どちらも手には銃がある。腕を先に挙げたもの勝ちだ。銃弾を帳消しに出来る分シキに分があるが、自分が撃った弾丸まで無かったことにしてしまうので撃ち合いには向かない。
トイは銃を右に持ち替えている。本来の利き手は右らしい。
それにしても読みにくい相手だ。シキは青緑の瞳を凝視することに疲労を覚え始めていた。揺らぎもぶれもしない。無感動にあるその眼は、人形のようだ。感情がない癖に、哀しそうな眼。
見ていたくない。
シキは腕を上げた。銃を持った右腕。全てを穿つ空洞を向けられても、トイは顔色一つ変えない。
肩と水平の高さまで腕を上げたとき、手を掴まれた。引き金を引こうとした直前だ。似たようなことが以前もあった気がする。掴んできた手も同じだった。
「……!」
振り払えない。
シュウの手の力は強く、抗えない。銃ごと手を引かれ、引き寄せられる。
その先にあった顔は、いつかも見た狂怪とした表情だった。首元を食い付かれて以来見ていなかったその表情はもう現れないものとシキはどこかで思っていたのに。それが突如として目の前に現れ、僅かに足が竦んだ。そして、狂々としたそれに引き寄せられることに嫌な感覚が身体を流れた。
首を食い破られた感覚が、じわりと蘇る。あの時、必死に堪えていた恐怖までもが戻ってきそうだ。
自分は強い生き物ではない。恐れもすれば、怯えもする。苦痛は避けたいし、死も恐い。己の持つ最強にして最悪の武器でさえ、身を削るような恐怖と引き替えだ。そんな感情を吹っ切ってしまえるときがある。ただそれだけで、襲ってくる感覚や、蘇ってくる過去に慣れることはない。
だから今、冷静で怒りだけに満ちていたはずの唇が、シュウの狂気を前に青ざめそうになっている。
引き寄せられるまま歩を進めた結果、シキはシュウの身体にぴたりと付く所に居た。左の脇腹に、押しつけられるものがある。正体を知り、身を捩ろうとした。だが、回避するために充分な間は与えられなかった。
「がっ……」
銃声と共にシキは血を吐いた。一歩下がったところで漸く右手は開放され、銃を持ったまま左の脇腹を押さえた。痛みに細めた目でシュウを睨み上げる。
「テメェ、遂に撃ちやがったな」
それ以上の悪態は吐けず、シキは崩れるように倒れた。左半身を下にして腹を抱えるように身を縮める。どす黒い血が溢れた。口に戻ってくる血液に吐き気を催しながら、激しく呼吸をする。
トイは遠巻きに見ていたが、一瞬躊躇った後、ガラスの割れている窓から外へと逃げた。シキはそれを止めることが出来ない。止血をすることで精一杯だった。
シュウは何も言わない。シキを足下に立ったが、銃を構える様子はない。
シキは傷を押さえながら一点を狙っていた。霞みそうになる視界の中、己の精度の高さを信じて一撃。シュウの銃は飛び、彼は右手を庇った。手には激しい衝撃と痺れが訪れていることだろう。
その隙にシキは壁を伝ってどうにか立ち上がる。
自分の力だけではなかなか止血が出来ず、未だ傷からは血が溢れて足を伝っていた。寒さが作用して余計に身体の熱や感覚を奪っていく。
シキが立ち上がったときに見たシュウの顔は、まだ狂気に冒されていた。これだけ近くに居るのに、何故鞘に収まらない。シキは嫌気が差して深い溜息を吐いた。シュウは銃を撃ち飛ばされたことが不快らしい。口をへの字に曲げてこちらへやってくる。
イカレた頭。千切れた精神。こんなものの相手をする余裕など無い。収まりたければ、床に這い蹲って零れた黒い血でも舐めていればいい。
そうやってストッパーを探して彷徨って。お似合いじゃないか。
右へ左へフラフラする男の面倒など見きれない。この際、自分のことは棚に上げよう。優柔不断なのは、大嫌いだ。
シキは銃床で薙ぐようにシュウの頭を殴りつけた。もっと背が高ければ、叩き付けるように殴れたのだが、身体を起こすのも充分に出来ない状態で最も攻撃力の高い打撃が他に思いつかなかった。
「バグってんじゃねぇよ! 俺はあんたの修理屋じゃねぇんだ!」
その一撃で目が覚めたらしい。横顔を押さえながら向き直ったシュウの目は正常の色をしていた。
――あっさり直るしさ……。
シキは頭に来ながらも気が抜けて、壁に背を伝わせて座り込み、また床に倒れた。今度は銃を腰に差し、右手の平を傷の上に被せる。呼吸をする度に血が溢れて血が止まる様子はない。
口径が小さいのだけが幸いした。もう少し爆発力が高ければ、背中を吹き飛ばされて即死ものだ。
常人よりも傷の治りが早い死ににくい体質はありがたいが、今回は手が足りない。自分一人で貫通した腹の傷を塞ぐのは厳しいものがある。
コウが。コウがいれば……。この苦痛はすぐに和らぐのに。
シュウは泣きそうな困惑顔をしてシキの前に屈んだ。彼は強張る手を伸ばす。だが、シキはその手を強く払い除けた。
「あんたの力は、借りない。消えろよ。奴の所に行けよ」
シキはまだ塞がらない傷を抱えて、床に手を付き、身体を起こした。手伝おうとするシュウの手を全て払い除けて、息を激しく切らしながら立ち上がる。言葉一つ掛けることも許さなかった。強い拒絶。流石のシュウにも、そのくらいは伝わったようだ。宙に浮いたシュウの手は、微かに震えている。何も出来ないことを悔やんでいるのだとしたらいい気味だ。
脇腹を押さえ、壁を伝い、いつの間にか豪雨になった外へ出た。血は激しい雨に流されて、薄い赤い色を付けた川になる。
フラフラと前に足を進めたシキは前の家の壁に肩を打ち、身体を折った。そのまま倒れることなく、力を傷と手の平だけに集中させる。
――コウ。手ェ貸せよ。もし今もこの身体のどこかにいるのなら、少しでいい、血を止めてくれ。
口に含んだコウの残骸に呼びかける。呆れたようなコウの顔が脳裏に浮かんだ。怪我をしたシキが甘えるといつもそんな顔をしながらも手を差しのべてくれた。
そうだ。手を貸してくれ。
痛みが引いていくのが解る。ここが温かい毛布の中ならば、ゆったりと眠りに落ちていけそうな安穏だ。生憎、ここは土砂降りの真下。そして、一刻も早く立ち去りたい。
ある程度傷が塞がると、シキは横目でシュウを見やった。シキを追って家から一歩出て立ち尽くしていたため、彼もまたずぶ濡れだ。眉を顰めたその表情は泣いているのか判別が付かなかったが、雨の中では否定しきれない。
「シキ……」
またそうやって、縋ろうとする。狡い奴だ。
シキは顔を背け、息を吐きながら身体を真っ直ぐに起こした。
「来るなよ。もう追いかけて来るなよ。失くすのが嫌で俺の方から棄てたのに、その努力、無駄にしてくれたんだ。もう一度棄ててやるから、今度こそ戻ってくるな」
吐き捨てるようにシキは言うと、壁から肩を離し、頼りない足取りで雨の中に消えた。
胸に刺さった言葉を抜けないまま、シュウは雨の中で立ち尽くした。
冷たく大地を穿つ雨に身を曝し、天を仰いぐ。
シキはトイを殺す。だが、シキと居なくてはこの狂気は抑えられない。
トイは殺させたくない。しかし、トイは何も受け入れようとはしない。そして、狂気も抑えられない。
シキはトイに銃を向けられる。トイはシキの瘴気が効きにくい。だからこそ、本気になって殺し合える。
そして二人とも、シュウにとっては大切な人間。そして、狂気に狂って生きていくことはしたくない。何も失いたくない。
選ばなくてはいけない運命を激しく呪った。
トイもシキも完全にシュウを突き放したわけではない。あれだけ言われてもシュウはそう感じていた。傲りだろうと笑う自分もどこかに居たが、過信とは決して思わない自分も居る。そのことが更にシュウを悩ませた。変な中途半端さがじわじわと首を絞めてくる。
「シュウ」
呼ばれて声の方を向くと、路地の入り口にトイが居た。いつからそこにいたのか分からなかった。
トイはゆっくりとシュウへと歩いた。焦らすように一歩一歩不必要な程にしっかりと踏みしめていく。
腕を伸ばしても飛びつかないと届かない程度の距離でトイは足を止めた。
「悩んでるみたいだから、俺、決めたよ」
「トイ……」
シュウは安堵するように声を漏らした。漸くこの悩ましい状態から開放される。しかも、トイからの譲歩によるものと考えると嬉しいものがある。
だが、シュウの考えとは裏腹にトイは銃を向けてきた。
雨に濡れて雫を垂らす鈍色の銃口が、シュウの眉間を見ている。
「何を……」
「あんたを殺すよ。シキと一緒に。そうすればうるさく俺を追いかけてくるヤツは居なくなるだろ?」
「トイ!」
「殺してくれないなら俺は生きる。俺が生きることを邪魔する奴はみんな殺す。たとえシュウでも、俺は殺せる」
それが、答えというならば、受け入れなければならないのか。
シュウは絶句した。耳を疑うことは虚しいことだ。突拍子もないことでも、ふざけているようなことでも、トイが嘘を言ったことは一度もない。これはシュウを諦めさせる為の狂言ではない。トイの口から出る言葉は、全て彼の本音だ。
「俺は暫くここら辺にいる。気が向いた日にシキと一緒に殺しに来なよ。俺も本気で殺しにかかってやるからさ」
トイは銃を降ろすとすぐさま背を向けた。掴めない背中に向かって、シュウは最後の問いかけをした。
「トイは、……トイは本当にそれで良いのか!」
「愚問だよ」
トイはそれだけを言う為だけに振り返ると、また向き直って歩き始めた。雨に溶けそうな瞳はもう見えない。
シュウはトイが見えなくなるまでその背中を目で追った。どんなに願っても、振り返ることはなかった。
双方からの実質的な拒絶。雨の中、シュウは完全に行き場を無くした。シキがまだ見捨てたわけではないと思う自分はなりを潜めていた。二兎を追おうとした結果だ。その現実が大降りの雨になって頭上に降り注いでいる。
自分の気持ちを押し殺し非情になることが出来るトイ。自分の気持ち優先にしか動けないシュウ。相容れることは、遂に出来なかった。
少しの間、迷いがあった。しかし、冷たい雨で冴えてきた頭の中で、絶望が払拭され始めるのと同時に湧き上がるものがあった。
かつて、足を向ける方角を決める材料は、何が望みを叶えてくれるかだった。いつの間にか消え失せた望みの変わりに現れたのは、どちらが強く自分の心を縛り付けてくるかだった。だが、今のシュウはそのどちらでもなくなっていた。
何が本当に大切なのか。自分がしたいと思うことは何なのか。
それは初めて心に浮かんだ判断材料だった。
行き先は決まった。
壊れていくものを壊れるままにするよりも、いっそこの手で壊そう。
望みを託すつもりでいたことなど忘れて、出会ったときに何かを感じた大切な人の所へ行こう。過去を、望みを忘れる程に、大切にしたいと思った割れ物の所へ。
シュウは歩き始めた。
迷いは、もう無かった。
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