第31話

 トイは部屋の電気のスイッチを入れ、まだ電気が来ている事に安堵しながらも疲れた溜息を吐いた。

 ベッドとソファ、飲みもしない酒とグラスが入った棚など。数少ない家具から埃よけのビニールを取り去り、窓を開けた。湿気った空気が冬の夜風と入れ替わる。

「結局ここに戻るのか……」

 一人呟いて、古びた椅子に腰を下ろした。テーブルの上に銃を投げる。全身から疲れが溢れ出た。

 どうにかなると思ったが、宛も伝手もなく、誰にも頼らないでいるのは思いの外辛い事だった。散々彷徨い、行き着いたところは一時期住んでいた小屋のような家だった。

 主が居ない間、この家で仕事をし、生活していた。思い出など無い。身体を売った記憶だけだ。

 ある組織に拾われても暫くはここを使っていたが、やがてその組織に見合わない規模の本拠地の建物に呼ばれそこで暮らすようになった。実際使ったのは数ヶ月にも満たない。色々な意味で持ち手に気に入られていた結果だ。

 思い出してトイは身震いをした。自分の過去である事は確かだが、今思い出すと気分が悪くなる。それも、ルイレンが植え付けた何かによる作用に違いない。それまでは、今は思い出すのが躊躇われる過去と同じ事が当たり前だったのに。異常が続くと日常になるのと同じだ。過去の出来事は今や、異常だ。

 戻る事のないと思っていた地に戻るハメになった事に、先ず始めに項垂れた。今回は、次の持ち手を探すという目的もない。一人で生きようとして誰かの手を放れて歩く事など全く初めての経験だ。時折駆られる不安に身を潰されるような思いをした。今でもその錘はなくなっていない。

 通常と異常が入れ替わるが如く、独りに慣れる事はあるのだろうか。もし、慣れることがなかったとしたら。反射的に誰かの手に追い縋ろうとしてしまったら。

 今になって薄ら寒い恐怖が背筋を撫でていった。

 次がある。次を探せばいい。そう思っていたときは楽だった。恐れの一つも感じずに、その日暮らしをしていれば良かった。

 それが今は怖い。気が付けば身体が震えている。

 寒い所為だ。そう思い、窓に飛びついて勢いよく閉めた。ベッドから毛布を取り出し羽織るが、寒気が止まらない。仕舞い込んである暖房器具を取り出すのはもどかしい。一秒でも早く暖まれるものは何か無いか。ぐるりと見渡して目に止まったのが、近くの棚で埃を被っていた、いつの物かも分からない酒。それ掴むと、ソファに沈んで瓶ごと呷った。〝客〟の為の酒で、自分は酒そのものを一度も口にしたことがない。初めて知るアルコールという毒に驚き、内臓が悲鳴を上げた。

 すぐに心臓の鼓動が耳のすぐ傍で聞こえてきた。一気に身体中が熱くなり、地面が持ち上げられたかのような目眩を感じた。あまりに激しく動く心臓に、呼吸が乱れた。

 ――よくこんなの、水みたいに飲めるなぁ……。

 ルイレンもアキも、酒には強かった。グラスの氷を揺らしながら飲んでいる横によく付いていたが、旨そうだと思ったことはない。誘われても、飲むことはしなかった。

「ルイレン……」

 そして、アキ。他にも、大勢。みんな死んだ。誰かに殺され、または自死し、或いはトイが殺した。

「うう……」

 いよいよ意識も呼吸も飛びそうになり、トイは毛布にくるまってソファに横になった。

 ぐるぐると何もかもが回っている。身体が熱で溶け、バラバラに壊れていきそうだ。

 それでもいいか。

 逃げるのも、楽になるのも、選択肢としては有りだろう。

 未来の展望など一度たりとも抱いたことのない人生だ。これからのことなど壮大すぎて想像も付かない。

 生きていられれば、何でもよかった。その前提までも、真っ暗闇の明日の前では崩れようとしている。

 生を望まなくなれば、この身に宿る奇妙な力も消えるだろうか。そうすれば、誰かが撃ち殺してくれるだろうか。

 解らない。

 決められない。

 ――結局俺は、死ぬまで人形なのかな……。


   *


 頭が痛い。目が開かない。

 これが所謂二日酔いというものなのだろうか。

 取り敢えず、酷く気分が悪い。

 いつもの癖で、指の関節を唇に当てて寝ていた。その接点が乾いて貼りついている。

 起き上がろうかどうか、非常に悩ましい。

 やっとの事で開ける事が出来た目は、暫くの間焦点を合わせる事が出来ずにいろんな場所を泳いでいた。一体何日間寝ていたのかも分からない。身体も意識も恐ろしく長い間止まったままでいたかのようだ。

 窓の外から人工的なものではない灯りが目に届いた。大した明るさではないが、とにかく夜でない事だけは分かる。

 鉛製になったように重い頭を持ち上げ、痛む身体を起こした。二口くらいしか嚥下していない酒の破壊力を思い知る。もう二度と口にすることはないかも知れない。この惨状はトラウマレベルだ。吐かなかっただけ、良かったと思うことにした。

「指噛む癖、昔のまんまだな」

 突然の声に息が止まるかと思った。知らない声ならいざ知らず、聞き間違えることなど張るはずもない声であったから尚のこと。頭が怠いのも忘れトイは顔を上げた。

 淡い笑みを浮かべたシュウが居た。柔らかく笑うとどうしても哀しげに見えるその笑顔は、紛れもなくシュウのものだ。夢でも幻でもない。実体のシュウが椅子に座っている。

 テーブルの銃はそのまま、寝入る前の位置から少しもずれていない。

 指を噛んでいるわけではない。その反論は置いておくことにして。

「何でここに……」

「勘だよ。勘。行く宛が見つからなくて彷徨ってるなら、もしかしたらここに寄るかな、と思って。そしたら」

「ふ……。やっぱり俺は人形のままか……」

 自嘲の笑みを漏らすとトイは俯いた。

 誰かの手を頼って生きてきた時間が長すぎた。頼らずに生きる方法を教えてくれる人は居ない。やはり、かつての生き方に戻るほか無いのだろうか。

「もう、放って置いてくれよ。どうしてもダメだったら、また俺を飼ってくれる人、探すから」

 飼うという言葉に、知らずと抵抗を覚えている。

 何て中途半端になってしまったのだろう。人形として生きるにはその生き方への嫌悪が強くなりすぎた。人間として生きるにはその術を知らなすぎる。

 不自由だ。

 目の前にいる男に縋ることが出来たら、どれだけ楽だろう。

 しかし、それは出来ない。

 なによりもこの男が、それに耐えられない。

 シュウの持つ悪いムシ。理解できるほどよく知っている訳ではないが、良くない物であることは解る。そのムシを抱えて、シュウはトイと居られない。互いに相殺し合う能力がないのだ。

 それをシュウも知っているはずなのに。

「トイ。どっか遠くに行こうぜ? シキの事だからきっと諦めずに追ってくる。それにこの街はあいつもよく知ってる。もし戻ってくるような事があったら、見つかるのは時間の問題になる」

 こんな事を言う。

 シュウの言う通り、この街はシキの庭も同じ街だ。アキが調べていた物を盗み見て知っている。ここからそう離れていない場所に、かつてシキが住んでいた古いアパートがある。また、この街が昔、トイとシュウとが出会った街であり、そして、シキとシュウが出会った街でもある。

 まるで関係のない糸が、こんな所で絡まるなんて。

 皮肉なものだ。

「……俺は、おまえにもうあんな生き方して貰いたくないんだよ。あんなおまえを、もう二度と見たくも、そんな状況に置かれてるとも思いたくないんだよ……!」

 トイは無表情になって俯いたままで居た。訴えかけるシュウの声は届いていた。だが、それに答える用意はない。


   *


 五年ほど前のことだ。

 雇い主の指示で向かった家に、トイが居た。

 それが出逢いだった。

 ノックに応答がないのでドアを開けると、ソファの上で中指の第二関節を僅かに口に含み、彼は寝ていた。乱れたベッドは使わずに、ソファで毛布にくるまって寝ている違和感。うたた寝をしていただけだろうと思っていたことの間違いに気付くのは、大分経ってからだ。

「なぁ、起きろよ。マルクが呼んでる」

「うん……?」

 眠そうに開いた瞼から覗く青緑の瞳が瞬時に脳裏に焼きついた。

「おまえ、トイだろ? 呼んで来いって言われて来たけど、返事無かったから……」

「あんた……誰……?」

「シュウ」

「……知らない」

「そっか。もう数年居るんだけどな。まあ、名前売るの嫌いでさ」

「そう……」

 素っ気ない返事にどうしたものかと首を捻る。トイは起き上がる様子もない。

「え……っと」

「一旦出てくれる?」

「え?」

「服、着てないんだ。それとも、見る?」

「あ。そういうことなら早く言えって。悪かったな」

 ベッドに寝ているならまだしも、ソファの上で裸で寝ていたとは。意外だったが、特に珍しいとも思わずにシュウは外へ出た。

 風が冷たい。季節は真冬。

 数分後、着替えたトイが家から出て来た。

 向かうのは、横に広い大きな建物。豪邸を思わせるその中身は、やくざ者の集まりだ。

 好色で昼行灯のリーダー。ナンバーツーは変態で事実上のトップ。

 レーヴェという組織。

 そこがこの時、シュウが拠り所とした場所だった。


   *


 正直、組織などどうでも良かった。

 しかし、欲しい物を手に入れるために流れ着き、結果的に所属することになった。居座った方が有利だったからだ。

 必要だったのは、麻薬。

 狂気を抑えるための薬だ。その為だけに組織に属し、汚れ仕事をも請け負った。

 全ては抑えるため。ただその為だけ。

 感情を表すことに意義を見いだせず、特に他人とも関わらず、その日その日を潰すように生きた。どうしたら、忘れた頃に湧いてくる胸を掻き毟るような焦燥と、意識を掻き乱すような狂乱を鎮めることが出来るのか。考えるのはそのことばかり。

 その日常が、トイと会ったことで変わった。

 無表情か眉を顰めるかしない彼は、目立つ癖に、生き物として非常に希薄であるように思えた。機械のよう、という表現はまた違う。そこまで無機質ではない。しかし、冷たい。躊躇いがちに前を向く青緑の瞳が、宝石のようで、ひんやりとしている。

 それでも、話しかければ返ってくる。誘えば乗ってくる。

 妙に波長の合うトイの存在が、いつの間にか頬の筋肉をほぐしてくれた。

 彼と連むのは楽しい。楽しいと思い、余計に狂気を抑え込もうと努めた。醜態は曝したくない。自然と薬の服用回数が増えていった。

 それでも良かった。死にかけ、向こう側の世界に囚われた時から数年。こんな生も満更ではないと思ったのは、初めてだった。

 だから、錯覚していたのだろう。

 彼もまた、自分と同じように幸せのような物を感じている筈だ、と。

 彼がどんな風に生き、考え、そしてこの間にどんな目に遭っているかなど、知りもしなかったのだ。


   *


 マルクの館。それはもう、屋敷と言っていい。中堅マフィアのナンバーツーが何故そんな掃除が大変なだけである家に住んでいるのか理解に苦しむ。そして、組織のトップ、エルヴィンの住まいはそこに隣接して建っている。やはり豪邸だ。自分たちをどこぞの上流階級の紳士と間違えているのではないか。確かに、顔立ちはお高くとまったインテリのようだが、そこに品など、欠片も無い。

 その議論は置いておこう。

 シュウは日中、マルクの館にたむろすることが多かった。仕事は主にマルクの部下から聞かされる。その為の待機だ。

 しかし、トイは自宅にいることが多かった。こちらから出向かなければ会うこともままならない。

 その引きこもりのトイが、ある夜、屋敷の廊下を歩いていた。表へ向かって歩く足元は頼りない。

 どうしたのだろう。

 一つの疑問だけで足を進め、

「よっ」

 挨拶代わりに軽く背を叩いた。

「っ……!」

 何気ないシュウの行動に対して、トイは身を震わせ、眉を顰めた顔で振り向いた。腫れ物に触れられたかのような反応だ。

「あ……ごめん。何か元気なさそうだったから……。どうか、した?」

 シュウを見てくる目は明らかにいつものものと違っていた。額にうっすらと汗が滲んでいたのは見間違いではないだろう。

「何でもない。疲れてただけだよ」

 トイはそう言うが、はいそうですかと見逃せる様子ではない。

「背中、怪我でもしてるのか?」

「なんだよ、シュウ。脱がせる口実?」

「あのなあ。俺はおまえを心配して……」

 く、とトイが嗤った。

「綺麗な奴だなぁ、おまえ」

「は?」

「それか、とんでもなく鈍いか……。ま、どっちでもいいけど」

 問いかけには一つも答えずに、彼は立ち去った。歩いている姿は見かけたときよりもまともだが、まだ身体を重そうにしている。

 それにしても、何故彼は嗤い、あんな事を言ったのか。鈍い自覚はある。自分は一体、何を感じ取れなかったのだろう。

 暫くその場で首を捻っていたものの、答えは得られなかった。

 トイの後を追うこともせず、その日は自宅へと戻った。

 そういえば、トイがどんな仕事をしているのかよく知らない。共に遊びに出掛けることはあっても、仕事を共にしたことはない。

 情報を得ようと、溜まり場に寄った。皆、椅子やソファに自堕落にふんぞり返り、煙草の煙で煙っている。

 入り口近くの椅子で酒を舐めていた仲間に、それとなく訊いてみると、

「おまえ、知らないのか?」

 卑猥な笑みが返ってきた。

 向けられた嗤笑の意味が解らない。聞き返すのも躊躇われる空気の中、仲間達は密かに笑い声を噛んでいる。

 何が可笑しい。

 解らない、と眉を顰めるほどに、周りがざわついてきた。

「あいつはな、マルクのイロなんだよ」

「イロ……?」

「ちっさい頃からウリやってたらしくてさ。金さえやればヤらせてくれるし。なかなか具合良かったぜ? 興味あるならおまえも試し……がっ!」

 気が付けば、右手に作った拳を思い切り振り下ろしていた。頬にめり込んだ手には、嫌な感触が伝わってきた。相手の頬骨には、恐らく罅が入ったことだろう。鼻血を撒き散らして、その男は椅子ごと床に倒れた。気絶している。拳にはじんとした痛みがあるだけで、負傷した様子はない。

 胃の辺りが熱い。暴れさせろと狂気が騒いでいる。任せてしまえば、この場にいる物全てを床に這わせてしまうことなど容易いことだ。だが、そうならなかったのは、聞いた話が余りにもショックだったこと。

 口調はふざけていたが、冗談めかしていったようには聞こえなかった。

 イロだって?

 確かに、マルクは変態と聞いている。だが、その詳細は知らなかった。まさか、男色趣味だったとは思いもしない。

 トップは好色。サブは男色。

 何て組織だ。色恋は本人の自由だが、そこにトイが巻き込まれて居るとなると、心がざわついて落ち着かない。

 しんとした室内。誰もシュウに向かって動く者は居なかった。

 もしかしたら、抑えた物の片鱗が、顔の何処かに現れていたのかも知れない。しかし、それを認識することは出来ず、信じがたいという思いだけを連れてその場を後にした。


   *


 信じないで居るのは自由だ。しかし、現実は有無を言わさずそこに横たわっている。目を背けたいと思っていながらも、目の当たりにすればまた違った現実かもしれない。それは、人が言うものとは違っていて、自分が信じるものにより近いかも知れない。

 甘い考えは、やがて音を立てて崩れ去る。

 真偽を確かめられないまま数週間。季節が一つ変わってしまった。

 少し前まで滲む汗が鬱陶しくてならなかったのに、今は足元から冷気がやってくる。

 冬だ。

「夜、マルクの部屋の前まで行ってみろ」

 暖を取っていたシュウに、悪友が囁いた。意図を問うても、いいから行ってみろ、としか返ってこなかった。

「運が良ければいいもの見られるぜ?」

 無視すれば良かったものを。マルクの名が出たことが、どうしても引っかかった。

 何かの罠、というのも充分に考えた。だが、夜、という指定だけで他に条件はない。部屋の前に行くだけだ。罠の張りようもないだろう。

 そう思って、身体が空いた夜、こっそりと屋敷の奥へ向かった。

 実は、レーヴェのナンバーツー、マルクの部屋には一度も行ったことが無い。トップであるエルヴィンの所へは、呼ばれて何度か行ったことがある。行くたびに、必ず一人以上の女が傍に居た。娼婦のような女が多かったが、中に一人、はっとするほど肌が白い美人が居たのは覚えている。好き好んでエルヴィンの傍に居るようには見えなかった。柳眉を顰めそっぽを向いている様が、綺麗だと思った。言葉を交わすことはなかったが、連れ出してやれればと思ったことがある。

 ここに居るしかない自分が、誰かを連れ出そうと思った。おかしな事だ。何も知らず、何も出来ない癖に。

 ぼんやりと関係ないことを考えている間に、屋敷の奥へと迷い込んでいた。

 そして、突如として一本の長い廊下が現れた。廊下の先に、大きな扉がある。途中には何も無い。ただその部屋へ向かうためだけの道。

 袋小路。有事の時はどうするのだろう。逃げ道の一つくらいはあるのだろうが。

 忍び足で部屋へと近づく。

 距離が縮まるにつれ、肌がざわつく空気を感じた。扉に耳を付けると、何かを打ち付けるような乾いた音が聞こえる。音の正体が分からないまま暫く聞いていると、幽かに聞き覚えのある声の呻きがした。

 いつの間にか汗ばんだ手で、シュウはドアノブを掴むと、音を立てないようにそっと回した。僅かな隙間から覗き見た中は、薄暗く、書斎を思わせる家具が並んでいるだけだ。見える範囲に限界を感じ、思い切って中に入った。

 書斎と思しき部屋は、それなりの体裁を取り繕っているのに、形ばかりのように見える。書棚には本がぎっしりと詰め込まれているが、読んでいるようには思えない。整然とした両袖の机の上は高価そうな文具が並べられて居るも、これもただの飾りのようだ。書斎として完璧すぎて、逆に違和感を感じる。

 と、再び声が聞こえた。この部屋から続く場所があるらしい。

 ドアを探し当て、やはりゆっくりと隙間を作った。

 片目で覗き込み、シュウは思わず声を上げそうになった。

 毛足の長い絨毯が敷かれた部屋の中にいたのはトイとマルクの二人。目を疑ったのはその光景だ。

 蝋燭の明かりだけで照らされた部屋。

 その中で、二人ともシュウが居るドアに対して背を向けて立ち、トイは上半身裸の状態で壁に手を付いていた。その背には遠目にも解る無数の赤い筋がある。その傷を付けたのは、マルクが持つ短い鞭。

 これが〝いいもの〟だって?

 評価はともかく、彼らが言っていたことは本当だった。知らなかったのは自分だけ。

 トイがこんな風に扱われていたなんて。それも、現在進行形で。

 頭に血が上り、ドアを蹴破って乗り込もうとした。しかし、壁を向いていたトイが、おもむろにマルクの方へ向き、こう言った。

「ねぇ。楽しい?」

「ああ。おまえの声も、白い肌に入る赤い線も、とてもいい」

「俺の糸、放しちゃ嫌だよ」

「勿論だ。放すものか。こんなに綺麗な人形を……」

 マルクの手が、トイの頬に触れ、誘う。顎を上げたトイは、躊躇うことなく口付けを受けた。トイの背に回ったマルクの手がそこにある傷をなぞる。トイが長い口付けの上に背からやってくる激しい痛みに喘ぐ様を愉しんでいるようであった。

 やがてトイは近くのベッドに押し倒され、痛みの喘ぎは快楽の喘ぎに変わった。そこまできて、シュウは目を背けた。驚きのあまりに釘付けにされてしまっていたが、これ以上は堪えられない。これでトイが抵抗しているのなら殴り込めた。だが、マルクに犯されながら愉悦の声さえ上げているところに入っては行けなかった。

 現実から逃げ出すように、シュウは部屋を後にした。侵入を気付かれないようにドアを閉めることで、残りの神経を全て使い果たしてしまった。

 溜まり場へは寄らず、自宅に帰り、気が済むまでシャワーを頭から浴びた。熱いシャワーに頭がふやける。目を閉じれば、目の当たりにした光景が蘇る。

 彼は、本当に望んで身体を売っているのだろうか。傷付けられ、人形と呼ばれ、犯されて。それを悦として生きているのならば、止めるのは余計なことだ。無粋な真似でしかない。

 しかし、そうではなかったら? 生きるために致し方なくしているだけだとしたら?

 可能性としてどちらかしかない。

 それならば、確かめるまで。

 シュウは、カランをひねり、シャワーを止めた。


   *


「勝手に入ったの? 趣味悪い」

 そう非難されるのも当然だ。

 シュウはあれから、トイの家に向かい、勝手に上がり込んで家主の帰りを待っていた。ベッドの上に腰掛け、一晩中、眠らずに居た。今は朝。彼はマルクの所で一夜を明かしたのだろう。

 何も知らず、トイは不法侵入者をあしらって中に入った。あくびをしている姿を見ながら、昨夜目撃した物を思い出した。

 トイは、マルクに、嬲られて、そして……。

「トイ。背中、見せろ」

「何、いきなり」

 ベッドから立ち上がったシュウは、咄嗟に後ずさろうとするトイの手首を掴んだ。細い手首に驚きながら、軽い彼の身体をベッドに投げた。仰向けに倒れた身体に馬乗りになると、開襟シャツのボタンを毟るように外した。

 強姦さながらの勢いで暴いたトイの肌を見、シュウは手を止めた。

 鬱血痕が散っている。所々に軽い火傷の痕もあった。これは痕は残らず治りそうだが、背中はそうではないだろう。見るのが急に、怖くなった。

「トイ……。これもマルクにやられたのか?」

「ああ……。見ちゃったんだ?」

 恥じる様子も見せず、トイは真顔で聞き返してきた。

「何処まで見た?」

「おまえがマルクと……」

 言い辛そうにしているシュウを見て、

「そこまで見たなら何も言う事なんて無いよ」

 口の端を少し上げた。目は笑っていない。どことなく、挑発しているかのようだ。

「でも、何で!」

 トイがそれで良いのなら、仕方がない。そう思った筈なのに、いざ相対してみると冷静ではいられなかった。

 あんな男に人間性を全て奪われているのに、何故平気な顔をしていられる?

「何で、って」

 答えが来る。

「俺の生き方だから」

 絶句していると、彼は一度、ゆっくり瞬きをして言葉を続けた。

「娼婦の息子は他に生き方を知らないんだ。でも、客を待ってるだけじゃ暮らしにくくてさ。だから、飼って貰うことにしたんだ」

 唖然としているシュウの前で、トイは更に続ける。

「俺を生かしてくれるなら、俺はなんだってする。誰でも殺すし、身体もくれてやる。どんな風にだって演じてやる。俺が死ぬこと以外は、望まれることは全部やる」

 奥の見えない青緑の瞳を見つめながらも、トイの言葉は右から左へと抜けてしまい、シュウには何も残らなかった。今まで通じていた言語が、突然通じなくなったようだ。何を言っていいのか解らずにそのままで居ると、トイの手がシュウの頬に伸びてきた。柔らかく、誘っているようにも取れる手つきで触れてくる。

「シュウ。このまま俺とする? 別に俺はいいんだよ? シュウの望むように感じて、犯られてやるから。それともして欲しい?」

 日頃は無表情か口をへの字に曲げている顔が、今は挑発的に笑っている。

 見たことのない顔は、作り物のようだ。

「俺は人形なんだよ。誰かに持って貰わないと、自分の足で立つことも出来ない人形なんだ」

 頬に触れていたトイの手が、唇に触れ、するすると降りてくる。

 いつも、こんな風に相手を誘うのだろう。慣れた手つきで服を脱がそうとしてくる。

「何やってんだよ」

「ベッドは俺の仕事場だよ? セックス以外に何するのさ」

「トイ……」

「しないんだったら退いてよ。重い」

 そう言われて、退くより他無かった。トイから離れ、ベッドから降り、少しずつ彼から距離を取る。

 トイもベッドから降りると、ソファへと向かった。そこにある毛布にくるまると、そのまま横になってしまった。寝返りを打つのも苦労しそうなその場所が、彼の寝床らしい。

「いつまで居るの。もしかして視姦するのが好き? それなら好きなだけどうぞ。なんなら、裸になろうか?」

「莫迦言うな。何で俺が……」

 そんな卑劣な真似を、どうして出来る。

 何を言っても、トイには通じないだろう。それが自分の生き方だ、とはね除けられて終わりだ。

「でも、おまえ」

「うん?」

 確かめたいのだろうか。

「おまえは、このままでいいのか?」

 否。違うと言って欲しいのだ。

 答えを待つ眼前、トイは訝しげな顔をして首を捻った。

「なあに? マルクじゃなくて、あんたが俺のこと飼ってくれるの?」

「そうじゃない。普通に生きようぜ? 人間なんだから。人間らしく生きよう?」

「人間? 俺が?」

「そうだ。おまえは人間だ」

 シュウの断言に、トイは眉を顰める。

「誰が俺を人間として扱った? 母さん? 客の男達? 男好きの娼婦? 誰? 教えてよ」

「それは……」

 食いついてくる勢いに負けて、続ける言葉を失った。

 トイが今までどんな風に生きてきたか、シュウはまるで知らない。今の言葉から察するに、相当幼い頃から身体を売ってきたのだろう。実の親にもまともな扱いはされなかったようだ。

 刷り込まれた人生観を、どうしたら覆せる。

「今まで、誰もおまえを人間扱いしなかったかも知れない。でも、変えられるだろ? な? 俺と楽しく生きようぜ?」

 確証など無いのに言葉を絞った。頷かせられたとして、約束を果たせる自身はない。無責任なことを言っている。そうと解っていながら、言葉を吐く。

「確かに、シュウと居ると悪くない。つまらなくないよ? でも、シュウが居るのは、俺とは違う、俺の知らない世界だよ。そんなとこで、俺は生きられない」

「試す前から諦めるな! 好きでやってるんじゃないんだろ? だったら、……だったら!」

「好き嫌いなんて無い。俺は、何にも感じてないもの」

 うんと言わせる材料が、手元にない。シュウは言葉を失った。

 現状維持を良しとする者を、別世界に引きずり出すのは困難だ。少しでも心を揺さぶれる魅力を提示できればいいのだが、それも難しい。こちらはこちらで生きやすいとは言えない世界。

 トイはこのままでいいと言う。しかし、彼の目は、演じる以外に笑うことがない。笑えもしない生き方が最善だと、シュウには思えなかった。

「俺、信用されてない?」

「誰も信用しない。俺に近づいてくる奴は、俺のこと欲しい奴だけだし」

「どうしたら信用して貰えるんだよ」

「無理。それに俺、ヤク中の面倒は見られないよ」

「それ……」

 知られていた。薬に頼って生きている人間は、信用に値しない、か。尤もだ。

 反論の言葉はない。正しすぎる。

 二度目の絶句。

 説得は失敗に終わった。

 すごすごとトイの家を後にする。しかし、独善的な思考は深く根を張っている。どうにかして彼を陰の陰から引きずり出したい。

 自宅への帰り道、良案を求めて頭を抱え続けた。


   *


 悪い頭が導き出したのは、短絡的な解決法だった。その時は、単純であるが故、効果があると思っていた。

 しかし、それをすぐに実行に移した訳ではない。幾度となくトイの元へ行き、可能性を促した。返ってくる態度は相変わらず。軟化も硬化もしない。そして、相変わらず笑わない。宝石のような青緑の瞳を憂わせて、時々何処か遠くを見ている。

 粘ること数週間。

 応、とも、諾、とも言わない。

 幸せの価値観はそれほど違わないだろう。そんな思い込みを持って、ある夜、シュウは屋敷の廊下を歩いていた。

出がけにトイの家に明かりが点いていることは確認してきた。彼は家の中。マルクの所には居ない。

 向かうのはナンバーツーの部屋。歩幅は大きく、歩みに迷いはない。銃を忍ばせ、殺気を纏って真っ直ぐにそこへ向かった。

 部屋のヌシが居なければ意味がない。気配を探りつつ、ドアノブを回した。

 鍵は掛かっていない。出迎えてきたのはやはり見せかけのような書斎。今日は明かりが点いていて、両袖机の前に、その人が居た。

「おや? 君は……シュウか。呼んだ覚えはないが?」

 読んでいた本を閉じ、マルクが椅子から立ち上がった。

 いつ見ても気に入らない、インテリ顔。今はそこにあの不愉快な光景が付いてきて、吐き気を覚える。

 明かりは蝋燭が主で、マルクが動く度に明かりが揺らめいた。光と陰が動く度に、あの夜の光景がちらつく。この明かりが電気なら、相手の顔がはっきりと見えてしまう代わりに、蘇ってくるものによる吐き気はまだマシだったかも知れない。

「あんたの悪趣味に反吐が出そうでさ」

「飼われたいなら素直に言うといい。ただ、君は少し身体が大きいな」

「冗談じゃない。俺は首輪付けられるのは嫌いなんだ」

「では、付ける方が好きか。トイとは仲がいいそうじゃないか。あの感触はたまらないだろう」

 何かを思い出しているのか、マルクは少し恍惚として眼を細めた。

「気持ち悪ィからやめろよ」

 この目がトイを見、この手がトイに触れ、その思考がトイを捕らえる。

「あんたみたいなのが居るから、トイみたいに生きなきゃいけない奴が生まれるんじゃないか」

 許し難い。人が誰かの性の奴隷として生きるなど。

「本人が望んでいることだ。独り善がりも大概にするんだな」

「違う」

「では、何なら許せる。人を殺し、麻薬に溺れ、独善的に生きるのは許されて、身体の繋がりは許せないとは。自分の言っていることの不可解さと矛盾が解っていないようだ」

 違う。

「違う」

「何が違う」

 違う。

 許せないのは、トイがそう生きざるを得ないこと。選択肢を知らないこと。

「君は、トイを好いている。ただそれだけの理由だろう」

 マルクは口を弓にして笑った。

「感情の種類は別としても、君は彼に固執しているだけだ。そして、自分の幸せの定義を押し付けているに過ぎない」

「違う!」

 叫びながらマルクに銃を向けた。

 違う違う違う違う違う違う違う違う。

 ぶつけられる正論を、薄っぺらい否定の言葉で掻き消そうと足掻いた。

 解っている。トイの生き方をとやかく言えるほど、自分は綺麗な道を歩いては居ない。親を殺し、他人を殺し、狂気を潜ませ、麻薬に浸かっている。

 それは人として正しいか?

 正誤の判断は無意味だ。それでいい、と思ってしまえば、それが正になる。他人がどう思うかはまた別の話。一般論の倫理観からの意見も、また別の話。

 揺れる。己の独善か。他人の尊重か。

 しかし、揺れ幅は少ない。どれだけ彼がそれでいいと言っても、看過できない自分が居る。シュウが従ったのは、自分の正義だった。

「俺はトイを人間にする。あんたから断ち切る」

「それが答えか」

 銃を向けられても、マルクは笑みを絶やさない。引き金が引かれない、という自信ではない。自分が勝っている。その自信だ。

 理論も、見解も、人としても自分の方が優れている。エゴで動いているおまえとは違う。そう嗤われているように思い、またそう思うことで己の矛盾を知った。

 それでも、

「俺はあんたとは違う」

「やってみろ。おまえに、何が出来るか楽しみだ」

 笑声。

 耳障りなその声を、シュウは引き金を絞って掻き消した。

 最後まで恐れの一つも見せずに、マルクは嗤っていた。銃を向けられたときから結末は見えていた筈だ。何故か、そのことが悔しかった。眼前の死すら、この男は笑い飛ばした。到底、真似できない。

 倒れていくマルクの手が、燭台の一つを引っかけていった。

 彼と共に炎も床に横たわる。僅かの間を持って、カーペットに引火した。

「マルク!」

 激しい音がして、背後の扉が全開になった。マルクの名を呼び飛び込んできたのは、血相を変えたトイだ。

 シュウ。銃。炎。そして飼い主。

 トイの目線が部屋の奥へと移っていく。その間に、彼の表情は冷めていった。一つも哀しんで等居ない様子で、炎にまかれ始めたマルクの死体を見やっている。

 冷たい目だ。拠り所としていた人間が死んだのに、何一つ感情を表さない。死んだ男を悼むことも、殺した男を詰ることもしない。現実を現実として受け入れる。ただそれだけの作業をしているように見えた。

「トイ、行こう」

 シュウはトイの手首を掴んで引いた。しかし、彼は動かない。広がっていく炎を青緑の瞳に映している。

「トイ。マルクは死んだ。俺と行こう?」

「一人で行けよ。俺は、いい」

 そう言って、あろう事か、トイはその場に座り込んだ。

 火は書棚に燃え移り、飾りだった本を焼始めている。広がり始めた赤い魔の手は、最早留まるところを知らない。この部屋は他の場所からは離れているが、隣接する建物もある。飛び火するのも時間の問題だ。

「俺が嫌ならそれでもいい。でも、このままだとおまえまで焼け死ぬぞ。行こう。せめて、ここを出よう」

 もう一度細い手首を引く。と、力無く掴まれたままだった手が、勢いを持ってシュウの手を払い除けた。

「俺の生き方に入ってこないでよ。余計なことして……」

 この利己的な思考は、トイにとっては〝余計〟でしかなかった。

 強烈な拒絶に、払われた手は硬直した。数分前までの決意や思いが、部屋を焼く炎よりも強い熱を持って融かされていく。

「トイ! 立てよ! 立てって!」

 充満し始めた煙が目に染みる。呼吸も苦しくなってきている。これ以上燻されては、今度は逃げるのが辛くなってしまう。

 いくら腕を引いてもトイは立とうとしない。その意思がないのならば仕方がない。抱え上げてでも連れだそう。そう思って屈んだとき、眉間に冷たい物が当たった。

 銃口だ。

「死んでも俺を連れ出せるか?」

「……」

「余計な押し付けされたって、俺は変わらない。これが俺なりの幸せなんだ。不幸に連れ込まないでよ」

 一から十までマルクが言っていたことが正しかったというのか。

 ――俺は、疫病神か……。

 よかれと思っていたこと全てが裏目に出た。迎えた結果が炎の海。

 騒ぎは広がり始め、喧噪も聞こえ始めている。この場所に人がやってくるのも時間の問題だ。そしてここは火元。真っ先に焼け落ちる。

 シュウは手を放した。トイの意見を尊重するという言い訳をつけて、シュウはそこから走り去った。

 自分の命が惜しかった。それが本音だ。本気だったのなら、撃たれても何でもトイを担いで連れ出すべきだった。もしくは、共に残ってやるのも選択肢のうちだった筈だ。

 逃げたんだ。

 何度も同じ事を胸の中で反芻しながら必死に走り去った。

 結果としてこの組織は瓦解した。シュウが潰したも同じ事だった。

 シュウは、トイがあの炎に巻かれて死んだものと思っていた。


   *


 訴えかけたシュウに対して、トイは黙ったままで居た。

 シュウは沈黙と同時に襲ってくる過去に堪えながら、トイの顔を見やっていた。あの頃よりは表情も豊富になっている。それなりに人間らしさはあるが、根底ではまだ人間性を無理に棄てている部分がある。

「シュウ。まだ、俺を人間にしたいと思ってる?」

 力の無い青緑の瞳がシュウを見てきた。

「ああ。思ってる」

「だったら……」

 言いかけて、確かめるようにシュウを見た。

「だったら俺を、シュウのモノにしてよ」

「え?」

「ルイレンと居たときは、確かに人間だった。けど、一人になった途端、また元に戻りそうになってる。誰かと居れば、誰かのモノになってれば、俺は人間で居られるよ」

「それじゃあ何も変わらないだろ!」

 シュウは声を荒げた。思わず立ち上がり、そして拳を上げそうになったがそれをどうにか抑えた。

「俺を人間にしたいんでしょ? それなら……」

「それとこれとは違うだろ!」

「違わないさ。物心付いたときから、俺は誰かのオモチャだった。長年やってきて俺の本能と同じになってしまったことを、今更ゼロにしようなんてまずから無理な話なんだ。でも、それでも変わる為の方法があるなら、シュウはそれで良しとしないの?」

「そんなの、俺が望んだ形じゃない」

「じゃあ、しょうがないね」

 言いながらトイは立ち上がると、シュウの居る方に歩いた。一歩ずつやってくるトイの思考が読めず、シュウは立ち尽くしたまま彼を見守っていた。

 トイはテーブルの所までやってくると、そこに置いてあった銃を取った。一度マガジンを抜き、残りを確かめる。まだ充分に残っていることを確認すると、マガジンを入れ、弾丸を装填した。

 ――撃つ気か?

 シュウは身構えそうになったが、トイは銃口の方を持つと、グリップをシュウの方に突き出した。

「それでもシュウが本当にそう思ってるなら、俺を殺して」

 思いも寄らなかったトイの言葉にシュウは声を失った。トイの持つ銃の銃口の先にいつ見ても綺麗だと思う瞳がある。それはシュウを見据えて逸れることはない。責めるような目だった。変わる為の選択肢を提示しているのだからそのうちのどれかを取れと、無言のまま激しく責め立てる。

「俺を殺してよ。それとも、シュウの言葉は全部出任せ?」

 意地悪く言う。出来そうもないことを既に解っているようにも見える。

「生きることだけは必死だったおまえが、何で殺してくれなんて言うんだよ」

「必死だったよ。生きたくて仕方なかった。でも、最近の俺、何かおかしいんだ。憎んでも仕方ないことが憎くなる。殺してもしょうがないのに殺してる。手に入らないのに欲しがってる。胃の奥から湧いてくるようなあの、気持ち悪くて、焼けるような感じが凄く嫌でさ……。疲れちゃった」

 トイは、いつかのように泣きそうな顔をしている。フォルトに銃を向けた、あの時と同じだ。

「どうして……」

「ちょっと前からこんな感じなんだ。誰も俺に銃を向けられないし、自分で引き金引くのもなんか嫌でさ。誰でもいいんだけど、シュウなら楽に殺してくれるだろ?」

 トイのものとは思いがたい言葉の連続に、困惑は最早、混乱だ。

「何の話してるんだよ、トイ。おまえが死んだんじゃ、もっとどうしようもないだろ?」

「やっぱダメか」

 トイは銃を降ろした。彼の目が、意気地無しと言っている。

 誰もトイに銃を向けられない……?

 疑問が引っかかると同時に、シキがトイと初めて会ったときに言っていた言葉を思い出した。


「あいつ、シュウの狂気に似てた。酷く冷たい狂気……」


 確かシキはトイのことをそう言っていた。もしそれが誰もトイに銃を向けられない理由になっていたとしたら。自分と似た性質だから気づけないで居たとしたら。

 トイの狂気。解らなくもなかった。狂気と一口に言ってもその種類は様々ある。そのこと自体はシュウもよく解っていた。トイが、シュウとは別のベクトルの狂気を持っていて、その効果が相手に殺す気を失せさせるモノだとしたら。シキがトイに銃を向けたときにとが言った言葉も理解出来る。

「おまえの力は何なんだ?」

 背を向けていたトイにシュウは尋ねる。

 すると、少し驚いたような顔をしてトイは振り返った。

「やっとに気づいた?」

 気付かれた事への驚きではなく、今更かという顔だったようだ。

「俺自身が、じゃない。いろんな事つなぎ合わせてたら、おまえにも俺に似たような何かがあるのかなって」

「正体はわかんない。シュウみたいに自覚してない。けど、酷く冷たいモノだよ。なんとなく、それだけは解る」

 凍り付きそうな笑みを見せて、トイはソファに横になった。倦怠と脱力に塗れた表情を見せた後、シュウに背を向けた。

 丸まった背は、撃たれるのを待っているようだった。

 だが、それに応えることなど出来ない。 

 用意された選択肢のどれかを、待っている背に返すことは出来なかった。

 代わりに声にしない問いを投げる。

 ――なんで、他の道じゃ駄目なんだ……。なんで俺の選択肢じゃ駄目なんだ……。

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