第30話
主を失った不可思議な部屋の真ん中に、トイはぽつりと立っていた。たった一人でこの部屋に居るのは初めてだ。
こうして見回すと、いやに大きな部屋だ。天井は他の部屋よりも際だって高く、奥行きも思っていた以上にある。
いつもルイレンが寝ていた黒いソファ。そこに寝そべり同化して居る彼が、音もなく起き上がるような気がした。そんな幻を、頭を振って追い払う。
もう、ルイレンは居ない。
血溜まりの中にいた彼を看取ってきたばかりだ。実感はまだはっきりと持てていない。
しかし、あの場で得た憎悪は確かな物だ。未だ衰えることなく、胸の裡で燃えている。
主を失くした後、いつもどうしていたんだっけ。
幾度となくしてきたことが、今はなかなか思い出せない。心の構造が、あの時とはまるで違っている。四年間で変わってしまった。
この次を、探せない。かといって、一人では生きられない。
「何で、ルイレンが居ないのに、俺はまだ、生きてるんだろ。何で、世界はまだあるんだろう……」
思考回路の破断は認識する間もなく訪れた。
存在する全てが疎ましい。無くなってしまえばいいのに、こんな世界。
そう思ってすぐに目についてのは、テーブル脇にある金魚入りの大きな水槽だった。数匹の金魚が、淡い炎のように揺らめいている。
金魚の泳ぐ姿を見て、トイは強い怒りに駆られた。頭に血が上った瞬間、銃を抜き、水槽のガラスを撃ち抜いた。激しい音がして、ガラスが割れ中身が床に散らばった。中の水はトイの靴や床を濡らし、金魚たちは水溜まりの中で苦しそうに跳ねている。
その金魚の姿を冷淡な眼差しで見下ろした。跳ねているうちに足下に近づいてきた金魚を、軽く蹴飛ばすと、蹴られた金魚は向かいの壁に当たりやがて動くのをやめた。他ののたうち回っていた金魚も最期の一瞬まで口を動かしていたが、その努力が報われることは終ぞなかった。
全ての金魚が動かなくなるまでトイはその様子を眺め下ろしていた。
こうやって、みんな、消えていく。
揺らめかなくなった炎に、脆い命を見ていた。
「無くなっちゃえばいいんだ……」
銃のグリップを握り直し、ゆったりとした足取りで、トイは部屋を出た。
*
「何もこんな寒い日に逝かなくても良かったのに……」
降りしきる雪を窓の外に見ながら、アキは溜息を一つ。特に何か言い残されたわけではない。一人静かにいなくなったのを知って、全てを理解した。
本当に他人をまるで顧みない主人だった。自分勝手で、世話が焼けて、生きるのが下手で、憎めない。
ルイレンもトイも、どちらも引き留めることが出来なかった。というより、途中から諦めてしまっていた。説得して、干渉して、それで留まる人間ではない。そうと解っていながらする努力は虚しい物だ。
意見は伝えた。それ以上、出来ることは何も無い。
――そうやって、私は逃げていたんでしょうか。
ユキの次はルイレンの遺体を回収しに行かなければならないかと思うと、それだけで気が重い。
銃声。
遠くから聞こえてきたそれは、喧噪を連れて近づいてくる。
急いで部屋の外に出、音の来る方を見た。
「トイ……」
こういう壊れ方をしてしまったのか。
アキは眉を顰め、無言のまま殺戮を続ける彼を眺めていた。その姿は返り血で染まり、無表情だ。否、何かの感情がその顔には浮いている。怒り、哀しみ。低温なそれは、一体何だろう。
アキの存在に気が付いたトイが、銃口ごとこちらを向いた。
これ以上壊させて何になろう。やがて後悔が彼を襲ったとき、その重荷にはなりたくない。
そして、譲れないことがある。
――ルイレン様。申し訳ございません。ご遺体の回収は、無理でした……。
誰も聞かない謝罪を胸に仕舞い、アキは、銃口を自らのこめかみに当てた。
――その代わり、そちらに向かいますので……。
それを見、トイは首を傾げている。彼に銃を向ける気はやはり起きなかった。殺がれているのだろうと思う。しかし、自分へは向けられる。
撃ち合いも出来ずにむざむざと殺されるなど主義に反する。殺されるしかないのならば、この命は自分の手で。
「自分で、死ぬの?」
彼にとっては意外なのだろう。解らない、という顔をして眉根を詰めている。
そんな彼を前に、アキは笑う。嗤う。
「おまえにくれてやる命はない。悪いな」
善意だけで拾われた命。散らせるのは己の矜持の為。それも悪くない。
トイが銃を下ろした。
それを見届け、人差し指に力を込める。
こんな大地も、満更ではなかった。
しかし、もうお別れだ。
引き金を引く。
音を聞く前に視界が暗転した。
*
ドアを開けるように催促するけたたましい音がした。
居間のソファで惰眠を貪っていたシキは、その音に叩き起こされた。初めは放っておいたが、いつまで経ってもその音が止まないので、仕方なく怠い身体を起こした。玄関に辿り着く間も、ドアを叩く音は止まない。
覗き穴を覗くと、ふくれ面のコウの顔が凸レンズで面白いことになっていた。
「ぷっ」
思わず吹き出しながらドアを開けると、そこには紙袋二つを抱えたコウが居た。
「人に買い物行かせてんだから、出迎えるくらいしろよな」
「悪い悪い」
コウは荷物の一つをシキに押しつけて台所に入った。ドアと鍵を閉めてからシキも後に続く。
「ルイレンの野郎が消えた所為で、黒狼、大騒ぎみたいだぜ」
「組織ってのは脆いな。束ねる元がなくなると、一気に瓦解だもんな」
いくつかの組織を転々をしていた人間には、よく解る話だった。ここ数日、黒狼崩壊の話題が街中に流れていた。巨大組織の性急すぎる消滅。話に尾ヒレが付き始めているものの、その事実は確かなようだ。
コウは手早く、シキは気怠く袋の中身を取り出しては所定の場所に入れていく。
カラになった袋を畳みながら、コウは居間の方へ振り返った。
「シュウは何してんの?」
大抵居間に居るはずのシュウが、今日は姿を見せていない。さあ、と首を捻ってシキも袋を畳んで投げ棄てた。
首を捻られた当人は、あてがわれた部屋の中に居た。
時間を掛けて、徐々に気持ちが沈んでいっていた。
あの時聞こえた空耳は、トイの叫び声のようだった。そう思い始めると、幻聴が現実の物のように思えてならず、思考はそのことだけに奪われていく。
ベッドに腰掛け貧乏揺すりをしながら、苛立ちを持て余す。
コウがドアの解錠を催促する音は聞こえていた。シキが渋ってなかなか出ないだろうことも解っていたが、それでも部屋を出る気がしなかった。
ここ数日、よく眠れていない。特に昨晩は殆ど寝ていない。酷い顔をしているだろう事は自分でも判る。それで出て行ってしまったら、またうるさく追求されることは必至。
空も未来も雲行きが怪しい。窓の向こうが騒がしい雰囲気を持っていることは薄々気付いていた。
本音を言えば迷っていた。探し物は確かに見つけた。けれど、今はその探し物に望んでいたことが無くなってしまっている。今、心の中にあるのは、幻聴のように聞こえた声を追いかけるか否か。
自分の貧乏揺すりにますます苛ついて、思わず床を蹴った。山程ある確かめたいことを、今手にしている物を棄ててまで掴みに行くべきか。
シュウは疲れきった目で窓の外を眺めた。一度は積もった雪は既に水となり、湿った大地がそこにはある。いくら外に問い掛けても、誰も答えはくれない。
やがて目を閉じて項垂れた。前頭葉が激しく疼いた。頭を抱え、掻きむしったが、昔のままのトイの姿だけ浮かんで来るだけだった。美化してしまっている自覚はある。別離してから二度、本人を前にした。それなのに、過去が上塗りされることはない。
結局考えが決まることもなくただ時間だけが流れ、やがて腹の虫が騒ぎ出して遂に夕方頃、部屋から出た。空腹に負けるとは情けない限りであったが、放っておけば動けなくなる。自分に苦しい言い訳をした。
居間に顔を出すと、二人に顔を凝視された。同時に一瞬の沈黙が訪れる。何か言うべきかと迷っている間に、二人はまた自分たちの会話に戻っていった。
台所へ行き、インスタントのコーヒーを注ぐ。会話は何から切り出そうか。
まだ熱いコーヒーを啜りながら、シュウはソファに腰掛けた。
*
「だるい……」
そう言い残して、シキは早々に二階へと引き上げてしまった。シキが早寝をするときは、身体よりも心の具合が悪いときだ。おくびにも出さないで居るのは、胸を病む原因が、この家にいるからだろう。
残された二人はウイスキーを空けていた。コウは身の程をわきまえてそれ程口にしていないが、ザルのシュウは結構の量を呷っている。
会話は無く、その間にコウはシュウの腹を探っていた。動作や表情の一つ一つを窺い、合間に酒を舐めるように飲む。
一方のシュウはそれを知ってか知らずかポーカーフェイスを決め込んでいた。そして、心ここにあらずの様子で、時折軽い溜息を混じらせながら酒を口に運ぶ。
静かで長い夜は久しぶりだ。シキが来て以来何かと騒がしかった所為で、夜の静寂を忘れてしまっていた。静けさが気温以上に体温を奪うものだったことを、今改めて感じている。
重たく冷たい静寂。どんなに酒を呷っても、温度は少しも上がらない。
堪えかね、遂にコウは口を開いた。
「あんた、莫迦なこと考えてるんじゃないだろうな」
シュウはコウの方をゆっくりと向いたが、口は開かない。ただジッと目を見据えてくるだけだ。
コウはグラスをテーブルに置いて手を放し、シュウに対して身体ごと真正面を向いた。コウの強い視線から逃げるように、シュウは目を逸らしてグラスの中を覗いた。
「莫迦な事って、何」
「そのまんまの意味だよ」
「何が言いたいのかさっぱり」
目も合わせられない状態で空とぼける様に、思わず拳を振るいたくなる。手が出そうになるのも怒鳴り散らしたいのも理性の手助けを大いに借りてどうにか抑えると、シュウが手を伸ばした先からウイスキーの瓶を奪い取った。瓶を追う流れでシュウの目がまたコウの方を向く。
今日の昼間の空よりも曇った目が、コウの行動を暗に非難していた。同じ瞳であるのに、三つの異なる質がある。今は曇天。いつかは赤。そして、シキが欲しがる青。今の状態が、ある意味一番良くない。
「今のあんたには、シキを捜してた時のあの目の色がないんだよ。青くも澄んでもいない。ドブ水みたいに濁ってる。救いようもないくらい」
「だから?」
「は。今のあんたにはトイの方が大切みたいだもんな。棄てられた時にそのまんまにしておけばいいものを、わざわざ追っかけてきてひっ捕まえて、それなのに今度はあんたからポイか? 勝手抜かすのもいい加減にしろよな」
「シキ、か……」
全く考えになかった。という訳ではなさそうだ。シュウは視線を落とし、グラスを揺らす。
決まったわけではなく迷っていることはそれで判った。だが、泳いでいて定まらない目線にいよいよ苛立ちは最高潮になる。我慢も限界だ。
「あんた、シキで遊んでんのかよ。あいつのこと、何だと思ってんだよ」
低く、それで居て叫ぶように言った。
コウにしては珍しく、主観的な批判だ。怒気を含み、今にも銃を抜きそうな程の殺気さえ込めている。
ところが、それを聞いてシュウは鼻で笑った。
コウは目の前にあるその顔を疑った。気が触れたとしか理由のつかない笑いに思えた。あれだけ飲んでおいて赤みさえ差していないシュウが、狂気によるものでもないのに奇妙な笑みを浮かべている。
「あのさ。シキって、コウの何?」
完全に嘲るような笑みでシュウはコウを覗き込むように見た。
「さっきから聞いてりゃ、嫉妬する女みたいに騒いでさ。あ、それとも、コウはこっちの方が好き?」
そう言いながらシュウは親指を立てる。
コウは怒りを通り越して脱力感に襲われた。こんな男は外に蹴り棄てて、こんなくだらない会話は忘れて寝てしまいたい。
「大切な人間に、男も女も関係あるかよ」
解って貰うことを始めから諦めている。言葉では言い表せない。理屈では表現できない。そんな感情があるのだ。
自制心が切れ、奪い去ってあったウイスキーの蓋を取ると、並々グラスに注ぎ、ストレートで半分以上一気に飲み干した。胃が焼ける痛みに顔を顰めたが、込み上がってくる不愉快さよりはマシだ。
胃の痛みが、やがて過去を引きずり出してきた。まだ鮮明に覚えているシキと出会った時のこと。今でも思い出す度に溜息が出る。
今、シキは二階で一体何をしているのか。そんなことを思いながら、シュウの問いの答えを苦い物を口にするように言葉にし始めた。
「シキは、俺が唯一諦められないモンだよ。蹴飛ばしても悪態ついても、結局棄てられない。今まで何一つ棄てて惜しい物なんて無かったのに、あいつだけ、どうしても諦められなかった」
グラスの残りを全て胃に押し込む。こんな事を語るには、たとえ明日が断ち切られることになったとしても酒の力を借りなければ出来なかった。
「こんな考えがおかしいって言うならそれでもいい。変だと思うなら軽蔑すればいい。なんて言われようと俺は、あの割れ物を、壊したくないんだよ」
言ってていたたまれなくなり、コウはまたウイスキー瓶を傾けた。勢いに任せて飲み干そうとするコウの手を、シュウがそっと抑えた。
コウが見上げた先には、ほんの少し前にあった表情はなくなり、その代わりに哀しそうな笑みがあった。
「冗談。ちょっと訊いてみたかっただけ。俺も、大して変わらないし」
「この野郎。言わせる為に演じたな?」
「怒らせないと、本音、言わないと思ったから」
「ヤな野郎だ」
今こそ強い酒を呷りたい。数秒前に、自分は何を言った。自分の意思だけではとても口に出来ない言葉を、この憎たらしい男の前に曝してしまった。恥ずかしいなどと言うレベルではない。
コウはグラスをテーブルに置いてソファに凭れた。今になって先程呷った酒が身体を燃やし始めている。早鐘になった心臓をどうにか落ち着けようと、ゆっくりと息をした。
「確かに、コウの言ったようにいろいろ考えてる。でも、棄てられない物と、一瞬でもいいから捕まえたい物を、今の俺は天秤にかけられなくて」
シュウはコウの置いたコップに手を伸ばすと、持ち主に何も言わせないまま一気に飲み干した。
「虫がいいってのは解ってる。だから悩んでる。今更トイと話すことが、一時でもこの状況を手放すことよりも大切かどうか。もしそれで何かあったら……」
「物持ち良すぎるって、困るだろ?」
皮肉ってコウが言う。唯一シキを抜かせば、棄てて惜しい物は何もない。手持ちの数だけ悩みが増えることをコウは知っている。だから、ある時から物を持つことをやめた。手持ちをゼロにして、自身をもゼロにした。自分と対照的なシュウが羨ましいことはない。損だとだけ思う。
手持ち無沙汰になった。酒を運ぶのにも飽きた。流れて暫く経つ沈黙を、コウの呟きが一部分だけ切り取った。
「一つだけ……。あいつを壊す選択肢だけは取らないでくれ。もう俺は二度と、あの血にまみれた手首を掴みたくないんだ」
最後の本音だ。今でもぬめりを持った細い手首の感触が蘇る。あの手首を取った瞬間、骨にまで達した切り傷の中に滑るように指が入ってしまった。その、何とも嫌な感触が、怖いほどはっきりと指先に感じる。
酒によって真っ赤になった顔を俯かせ、来ないと分かっている返事を待っていた。やがて睡魔が彼を襲った。覚醒と睡眠の境を知ることなくソファに凭れたまま眠りに落ちた。
コウの意識がなくなっても、シュウはまだ酒を飲んでいた。ここに来てやっとほんのり赤みが差してきていたが、酔いは感じていない。
夜は深くなり、寒さも増していった。体内で生まれる熱など微々たるもので、身体の冷えは端々から感覚を奪っていく。酒の力など、何の役にも立たない。
迷いに埋もれるように項垂れながらも、外の闇に目を向けることはしなかった。
*
シキは眠らないで居た。
厳密に言えば眠れなかった。
この時間はいつもならまだ存分に騒いでいる頃だ。けれど、今日は独りで居たかった。
部屋の灯りを全て消し、代わりに遮光カーテンを開けた。数日前から曇りっぱなしで、厚い雲が広がる空に月など見えるはずもない。けれど、完全な闇ではない窓の外からは、僅かながらに灯りが入ってきた。それは全て人工的な灯り。地面に散らばる不安定な星を横目に、シキはベッドのヘッドボードに凭れた。
窓を通して冷たい空気がじわりと流れ込んでくる。
胸の中には得体の知れない虚無感があった。表現するなら、無に浸蝕された、と言った感じか。思考は動かず、からっぽの頭で目を開けていると同じだった。
知らず知らずに吐いている溜息の理由も、頭が回転をやめた理由ももはや本人にさえ分からなかった。
しんという無音が耳を突いた。
一階からの声は聞こえない。
静かな夜だ。
時折寒さに身を震わせながら、飽きるまでそのままで居た。
*
数日間、微妙な空気が家の中に流れ続けた。
シュウは空元気を振り回し、シキはあからさまに落ち込んでいる。気晴らしを提案できる状況にはなく、コウは居心地の悪い家の中で燻っていた。
日に一回、何かと理由を付けて家から逃げ出すので精一杯。用事もないので、適当に街を一周して帰るだけだ。黒狼に関する情報も集めてみたが、どれも変わり映えがしない。トイという男の居所も掴めなかった。
あの男が逆恨みもせずに放っておいてくれるのならばそれでいい。あとは、シュウがおかしな気を起こさなければ、いずれあの耐え難い空気は消えて無くなるはずだ。
そうなることを、強く望んでいた。
ある日、コウは夢か現実か分からない物音で目を覚ました。リビングのすぐ隣にある部屋が現在のコウの自室だ。元々の部屋はシキに完全に占拠されてしまっている。
お世辞にもすがすがしい朝とは言えなかった。空はやはり曇り、底冷えする朝に身震いをした。寒さで固くなった身体をごきごきと動かしながら上掛けごと起き上がった。もう少しぬくぬくとしていたかったが、幻聴のような物音が気になりそのまま部屋を出た。
居間に出て、何かが欠落しているような感覚を得た。部屋の中央に立ち、三百六十度、身体毎回転して見渡した。部屋の様子に変化はない。実際にしたかどうかも解らない音の正体を確かめるのは無理そうだ。
台所に行き、水を一杯飲んだ。冷たすぎて頭に響く。渇いた喉には心地良いが、思った以上の痛みに、思わず頭を押さえた。
「あれ?」
流しにコップが一つ置いてある。昨晩全て洗ってかごで乾かしていたのだが。誰かが夜中に起きたのだろうか。
そういうこともあろう。
いつもならコーヒーを入れるための湯を沸かすところ、足は何故かシュウの部屋に向かった。台所脇にある小さな部屋だ。この部屋を目指した理由は解らない。まだ頭は三割ほど眠っている。
ノックをした。長いあくびをする間、返事が返ってこなかった。
「……?」
もう一度ドアを叩く。やはり応答はない。途端、急激に頭が覚醒した。部屋から気配が感じられない。毟るようにドアを開けた。鍵は付いていないので部屋は容易に口を開ける。
誰も居ない。
ベッドの上掛けは起き上がった形のまま。何の細工もない。
急いで一階を一回りした。一人で暮らすには大きいと言っても、一周するのに一分と掛からない。トイレも含め、シュウは何処にも居なかった。家中から、あの独特の気配がない。
「あの野郎……!」
低く唸り、コウは自室のクロゼットに飛びついた。いつも着ているブルゾンを掴み取り、袖を通しながら家を出る。扉は後ろ足で蹴った。鍵を掛けている余裕もない。
濃い白の息を吐きながら、コウは走った。思い当たる場所など一つしかない。シュウが居なくなる理由も一つしかない。
その場所に向かって走る原動力は怒りだけ。
出ていくのなら、シキに一言言えばいい。それさえせずに消えるのは卑怯だろう。
ただの散歩なら、徒労だったと笑えば済む。笑って済まされないことを考えるからこそ、息が上がるのにも構っていられない。
あの優柔不断な男は、結論を出す前に動く悪いところがある。その所為で何が起こるかを考えもせずに、結論のために、いつか取り返しの付かないことをする。それが今日でない保証は何処にもない。
「何で……。何で……!」
もし、棄てることが出来たなら。もし、諦めることが出来たのなら。
コウ自身さえ、シキを壊す凶器になりうる。こうして走ったが為に、取り返しの付かない事態を呼ぶのは自分かも知れない。
首の古傷が疼く。
人の生き死にに関わるのを諦めたあの日。何も持たずに生きようと決めたのに。
何故か今、手持ちが一つある。
古傷が棄てろと言う。
教訓に逆らうことがどれだけ愚かしいことか、解っているつもりだ。
しかし、
「出来るかよ……!」
疼きを無視する。
走ることだけに集中した。
*
シュウはルイレンが死んだ辺りを歩いていた。あれから一週間以上が経っている。収穫は何も望んでいなかったが、案の定何も無い。死体はおろか、血の跡も見つからない。騒がしいとは聞いていたが、あの日と同じように静かなものだった。
地面を磨り潰すように歩いた。靴底と地面が擦れ合って、ざりざりと小気味いい音を立てる。そうでもしないと何の音もないのだ。自分で作り出す音だけがやけに耳について、存在する空間をも疑いたくもなる。
この場は本当に存在するのか。ルイレンは本当に死んだのか。トイは、あの時近くに居たのか。
疑い始めたらきりがない。
そもそも、トイと接触するための方策など何も無い。手がかり一つ無い状態では、運に任せるほか無いのが実情。
会えたとして、自分の生き方を頑として曲げようとしないあの男に、どんな言葉を掛ければいいのか。何も出来ず、シキやコウに怒られるのが関の山だ。
黒狼は崩壊した。トイが未だにそこに留まっているとは考えにくい。
ざりざり、ざりざり。
結局何をしに出て来たのか解らなくなってしまった。
帰ろう。そう思い、踵を返そうとした。
ざ。
振り返ろうとしたまさにその方向から、地面に擦れる靴音が聞こえた。頭の中でもう一度聞いた音を再生し直し、聞き間違いでないと確信してから振り向いた。
細い影が逆光を受けて立っている。
「何しに来たんだよ」
責めるような声が飛んできた。確かめるまでもない。トイだ。
疲弊し窶れた酷い顔をしている。右手には銃。怒気を含んだ異様な気配を纏っている。
以前のトイにはなかった空気だ。
「おまえと話したくて来た」
「ルイレンを殺したのはシュウなのか?」
「いや。違う」
「それだったら話すことはない」
「待てよ」
「なに」
言葉の一つ一つが突き放してくる。その拒絶に耐えながら、シュウは首を捻った。
街中であったときに感じた違和感。その感覚が、今日は更に強くなっている。
感情の存在。作り物ではない激情が、今のトイにはある。もっとも強いのは怒りだ。
そして、もう一つ。
「何かおかしくないか? 持ち主には何のこだわりもないようなこと言ってたのに。何で今回に限ってずっとその場に留まってるんだ?」
トイが主を入れ替える様を見たことはない。しかし、話として本人から聞いたことがある。失ったら次へ。それが彼のやり方だと。
彼はシュウを睨んだまま、
「ルイレンは、俺を人間にした。もう人形には戻れない。これからは、独りで生きる」
独り。その言葉が耳に付いた。
自分は人形だと言い、誰かに縋ることで生きていた男が、独りという言葉を口にした。
彼には不似合いな言葉。
望んでいた形に近づいた筈なのに、喜べない。どこか、歪んでいる。
「でも、なんでまだこの街に……」
「掃除してたんだよ」
「掃除?」
「黒狼はルイレンのものだ。ルイレンが居ない今、黒狼は要らないだろう?」
そう言ってトイはある方向に目線をやった。ルイレンが住んでいた場所。
「トイ。おまえが、黒狼を、潰したのか?」
この静寂は、元からあったものだけではない。遠くからの無音が連なって、この重苦しい静けさを作っているのだとしたら。
「誰も俺に銃なんて向けてこない。向けられないんだ。弾は要ったけど、楽だったよ」
「なんて事を……」
「悪い事じゃない。全ての物はいつか壊れる。それが俺の手によるものだったってだけの話さ。それに、シュウと同じ事をしただけだし。数年前のシュウと同じ事」
耳の痛い話にシュウはトイから目を外した。脳裏に甦る炎と、壊れた表情のトイ。
「その顔はまだ忘れられないみたいだね。スッキリ出来ない奴だなぁ。引きずりやすいのは知ってたけど、そこまでとはね」
トイの口元に、悪意を持った笑みが浮かぶ。見たことも無い顔だ。ここにいるのはトイではないと思いたかった。だが現実はそれを許さない。
トイは、変わってしまった。
シュウが出来なかったことをルイレンがやってのけた。そしてそのルイレンが居なくなり、拠り所を失くしたトイは、初めて足を着ける世界でよりマイナスに変貌した。フォルトの所で会った時はまだこんなトイではなかった筈だ。
――結局俺はなんにも出来ないってのかよ。
信じたくないという思いで奥歯を噛む。
「ん?」
トイがシュウの後ろを見て微かに笑った。
つられて振り返ったその瞬間、シュウは凄まじい速度の拳に殴られ、倒れ込んだ。誰が目の前に来たのかも確認出来なかった程だ。起き上がろうとする前に襟を掴まれ、顔を見せつけられて初めて誰であるかを知った。
「莫迦野郎! あれほど言って、まだわかんねぇのかよ! 今からならまだ戻れる。あの時俺の言葉が通じたんだったら……!」
そのまま手を離され、地面に放られた。目線を合わせるのを避けるため、血混じりの唾を吐きながら起き上がる。
言い訳の言葉はない。こうなるだろうことは予想していた。
どっちつかずのままのシュウに、コウの視線は強すぎる。
向こう側にトイが居ることは知っている。だから尚更返答に窮するシュウに苛立った。シュウを睨みながらも、トイを盗み見る。
彼の手には銃がある。本当なら一時も目を離したくない相手だ。初めて見た時に思った「あいつは良くない」という考えは今でも変わっていない。むしろ強まっているくらいだ。
いつまで経ってもはっきりしないシュウを今度は蹴り飛ばしたいと思っている時、トイが数歩前へ出た。
*
頭が痛い。
シキは頭を抱えてベッドで半身を起こしていた。
何事もなく過ごした一日の終わりが一体いつ来たのかさえ定かではない。
目覚めたのは一階から扉を閉める音がしたことに刺激されたからだった。
無駄に重たい頭を抱えてふらつく足で一階に下りた。
そう言えば、朝早くにも階段を下りた記憶がある。喉が渇いて目が覚めたのだ。水を飲もうと一階へ下りたらシュウがいた。水が欲しいというと、台所から用意して持ってきてくれた。その水を飲んだ後、階段を上った記憶がない。
どうやってベッドまで戻ったのだろう。
「……?」
解らない。シュウとの会話は覚えているのだから、それほど寝惚けても居なかった筈だ。思えば、コップを片付けた記憶もない。
居間に行っても誰も居ない。そして、疑惑のコップもない。
おかしい。見事に記憶が途切れている。何かきっかけがあったとするならば、シュウから手渡された、あの水。
水を飲み、テーブルにコップを置いて……。
ふと気付いた瞬間にシキの頭はしっかりと冴えた。シキは血相を変えてシュウの部屋に蹴り込んだ。誰も居ない。シュウの部屋だけではない。家中の何処にも人の気配がなかった。
「あの莫迦野郎!」
シキはそのままの格好で冬空の下に飛び出た。寒くはない。込み上げてくる感情や瘴気の所為で熱は嫌という程生まれていた。
一服盛られた寝起きの身体に鞭打って、ありったけの速度で走った。思い当たる場所はただ一つ。そこでなかったら見当も付かない。この速度で走ったとして果たして間に合うのかどうかも知れない。コウも居ないということは、彼もまたシュウも追ったのだろう。共に行くことは考えられない。
往復で一度しか通っていない道だが、それに関しては自信があった。いくつもの角を迷うことなく曲がり、遂にルイレンを殺した場所を目指す。
途中、一度だけ立ち止まり、目を閉じた。走り通しであったにもかかわらず息切れは小さい。気配を探る。勘でも気のせいであってもいい。本能が示す方に再び走り出した。
シュウの、あの濁った目の色を思い出した。彼は選びかねている。散々追い回してきた癖に、今更現れた過去の遺物とどちらを取るか、迷っている。
揺れるくらいなら、未練がましく留まっていないで一言置いて出ていけば良かったのに。その不断な迷いにコウまで巻き込まないでくれ。シュウの面倒事で、やっと手に入れた平穏を、壊さないでくれ。
シキ自身はシュウの存在など最初から求めて等いなかった。欲しがっていたのはシュウの方だ。
そう。欲しくなど無い。どんなに安堵を得られると言っても、破壊者の存在など欲しくない。
――信じたのに……。信じたのに……!
本音と言い訳が入り乱れる。
そして、呼ばれるように入り込んだ先に、知った背中があった。ほんの一瞬の安堵が、走る速度を鈍らせる。その時、目当ての彼らの向こうに、もう一人の人影を見た。
シキがトイに気付いた時、トイは足を前に進め、右腕を動かそうとしていた。
*
「コウ、だったよね。コイツを殺したら、シキはどうなるのかな?」
トイの口から、コウの名が聞こえた気がした。
凶器を持った右手が挙がっている。暗い筒の先が狙っているのは、
「コウ!!」
止め駆けた足を速め、同時に瘴気を放った。しかし、それよりも刹那前に銃声が上がっている。
コウの身体が、小さく跳ねた。一度ではなく、何度も。
血が舞い、衝撃に負けた身体は仰向けにぐらついた。
瘴気は間に合わなかった。シュウのすぐ隣で、コウの身体だけが重力に引かれていく。
呆然と立ったままのシュウを押しのけ、コウの元へ滑り込んだ。上半身を起こそうと思うも、そこに弾丸が集中していて動かすことは叶わない。腹、腕、そして胸。どれも即死しないようにわざと外したような位置に銃創がある。
「あー。チクショウ。おまえより早く死ぬって、何か癪だな」
上着を赤く染めたコウが笑みを見せた。その額には脂汗が浮かんでいる。
「死ぬなんて言うなよ、コウ。すぐ、治すから」
そう言ってシキは傷を見た。まずは腹。何とか貫通していて、止血は出来る。すぐに手を当てた。腕はこの際放っておこう。
次は胸。傷の場所を確かめて、はっとした。伸ばし掛けた手を、傷に当てることが出来ない。この傷は……、無理だ。
「肺のが貫通してない……。治せないだろ?」
ざまあみろとでも言い出しそうな顔で、コウが宙に浮いた手を見た。
「でも……でも、止血だけして、どこか、取り出せるところがあれば……」
「もう、無理しなくていい。今、痛みを感じないだけで、おまえの瘴気は充分だから。俺の為に、これ以上おまえが蝕まれることはない……」
コウは喀血した。肺に流れ込んだ血に阻まれて、既に呼吸がままならなくなっている。しかし、痛みをそれほど感じていないのは事実のようで、浮かべている笑みはごく自然なものだ。だからといって、それで救われたとは思えない。思いたくない。止血できればどうにかなるはずだ。その思いで胸の傷にも手を当てた。
シュウは呆然と立ったままだ。そもそも手助けなど期待していない。今や彼は、完全に敵だ。トイと与する敵でしかない。
「シキ……」
血に濡れたコウの手が、腹の傷に追いてある左手の手首に伸びた。手袋と包帯を外してからかなりの時間が経つ。何も無いことにも、傷を曝すことにも慣れてしまった。その傷痕。治してくれたあの時以来、一度として触れてこなかったその傷痕を、コウは親指でなぞった。
「ここに、二本目は引くなよ? 俺がおまえを壊したら、俺……」
「だったら死ぬなよ。死に切れねぇとか言うんなら、生きてろよ!」
やはり、一人の力だけでほぼ致命傷の傷を二つも塞ぐことは出来なかった。ゆるゆると塞がっているのは解る。だが、それでは遅すぎる。コウの体内から血が零れ出る速度が余りにも速く、追いつかない。死へ走る速度が瘴気に打ち勝ってしまっている。
助けられてばかりで、この大事なときに何も手を尽くせないシキは自らを呪った。涙に歪みそうになる視界を必死で拭うが、またすぐに滲んでくる。
「死ぬなよ、コウ。まだ、……まだおまえから片羽貰ってない。おまえの言う通りに闘ってきたからこうやってまた会えた。約束の一つくらい果たしてから死ねよな、ばぁか」
絶え絶えの息の中、コウは口の端を上げた。死の淵にいるとは思えない、綺麗な笑みだ。
「大丈夫……。シキなら、片羽でも、ちゃんと飛べるから……」
吐き尽くした息が、吸われない。
言葉が、続かない。
極上の笑みを残して、コウの呼吸は止まった。半分程閉じて閉じきれなかった瞼を、シキはそっと閉じてやる。苦痛のない穏やかな死に顔に、遂に涙が止まらなくなった。
冬。好きな季節に、みんな死んでいく。
そして、何も出来ない。
ハルの時は手も届かなかった。看取ってやることすら出来なかった。今は充分に手が届くのにやはり何も出来ない。結局また、光を掴み損ねた。どんなに寒さの辛い冬でも永遠に続く事を願った季節が、また、指の間から擦り抜けていく。
止められない涙に顔を上げられないで居るシキの耳に、低い呟きが届いた。
「おまえが殺したんだろ。その報いだ。全部壊して、断ち切って、……殺してやる」
「テメェ!」
突沸した。涙を拭い、銃を抜きながら立ち上がる。的の位置は解っている。外す距離ではない。真正面で引き金を引く、それだけだ。
指先に手応えはあった。しかし、聞こえてきたのは、窓ガラスが割れる音。右手はシュウに掴まれ、まるで関係のない方を向いている。
邪魔をされた。的は反撃の用意もせずにただ立っていただけだというのに、復讐の機会をもこの男は奪っていった。今なら殺せた。そのはずが。
「シキ、何を……」
「何すんだはこっちのセリフだ! 止めるんならあんたも撃ち殺す!」
「シキ。お願いだ。トイだけは……」
「黙れ!」
赤く腫れ上がった目でシュウを睨み上げた。左手で抵抗しようとしたがそれも掴まれて身動きが効かなくなった。
怒りと悲しみに顎を震わせるシキを目の前にしても、シュウは手を放さない。撃たせまいと掴む手には強い力を込めてくる。
「放せ! 撃たせろ! あのクソ野郎を殺させろ!」
銃は持っているのに、標的に向けて撃てない。手首ごと封じられているのでシュウにも銃口を向けられない。暴れてももがいても、シュウの力には敵わなかった。
復讐することさえ出来ないなんて。
「そいつは、俺に銃を向けられるんだね。シュウ、おまえがシキだったら良かったのに」
悔しそうに吐き捨てられた言葉を聞いて、シキとシュウは振り返った。
言葉の意味を解している間に、トイは身体の向きを変えた。二人を無視して足を動かし始める。
「逃げんな! 待て! 放せ、シュウ!!」
意味などどうでも良い。今撃たなければ。今殺さなければ。
仇が何処かへと消えていく。気配も足音も、遠く遠くへ去っていく。
距離が離れるほどに怒りよりも哀しみが優位になった。抵抗する気力も失って、全ての制御が寸断した。
声を上げ、噎び泣く。
何故こうなった。誰が悪かった。ルイレンが姿を現さなければ、銃を向けなければ、こんな事にはならなかった筈だ。あの男は、何がしたかったのだろう。あの人のことだけを訊いて、他には何も口にせずに。まるで、死に場所を欲しがっていたようだ。その場所を与えてやったばかりに、この有様だ。
「シキ。瘴気を抑えろ。コウが保たない」
「コウ……」
シュウの言葉に振り返った先で、コウの指先が崩れているのが見えた。
「コウ……」
シキが身体をコウの方へ動かすと、漸く手が解放された。数歩先に倒れているコウの脇に立ったシキは、目線をコウに落としたまま銃口をシュウに向けた。
「消えろ。俺が引き金引く前に消えろ。俺は、何があってもあいつを殺す」
人差し指は既に引き金に掛けている。引こうと思えばいつでも引ける。そしてこの近距離だ。見なくても外しはしない。
シュウは後ずさった。躊躇った足取りではあったが、僅かずつシキから離れ、やがて背を向けてトイを追って消えた。
遠ざかる足音に何の感慨もない。清々したとも思わない。
シュウの気配が消え、シキは今になって震え出した腕をゆっくりと降ろした。銃を腰に差し、膝を付く。そのまま正座をする格好で座り込むと、形を失いつつあるコウの手に手を乗せた。
触れた感触は人のそれとは思えない物だった。死んで僅かも経ってないのに体温は勿論、水分もなくなり細胞が崩れている。瘴気で死んでいった者達の多くもこんな風に身体の組織を崩していたのを思い出す。
今まで瘴気など何ともなかったコウが、瘴気に耐えられなくなっている。この負の力への耐性は、魂が決めるのだろうか。器は、器でしかないのだろうか。
コウの手をこれ以上崩さないように放すと、今度は頬に触れた。そこはまだまだ人の感触を残していて、柔らかい。
笑っている。死への恐怖など微塵も見せずに、まだ笑っている。
放っておけばこの微笑みもやがてはこの指先のように崩れてしまうのだろう。
耐えられない。醜く崩れていくことも、朽ちて腐敗することも。
それならばいっそ……。
シキは目を閉じた。瘴気に全てを集中させる。
――じゃあな。コウ。
一陣の風が起きる。その瞬間、コウは人の形を失った。崩れ去る間もなく、細胞の結合は解かれ、彼の身体は乾いた塵に変わった。
かつてコウの身体を成していた粉を手に取ると、何気なく口に運び、舐め取った。
無味。血肉の味でもするかと思ったが、予想は外れた。
まるで神聖な儀式を行うかのように、緩やかな動きで少しずつ何度も彼を舌で掬った。
口に含んだコウの残骸を唾液で湿らせ、喉に流す。やがて胃液に溶かされて吸収され、何処とも無く血液によって運ばれるのだろう。
――遂に俺は人を喰った。しかも、大切な人を喰った。
コウを手にしたまま、暫く呆然としていた。人喰いと言う言葉が何度か頭を巡った。
何があっても赦される事はないだろうと思った。赦されない存在になった。誰が赦すと言う事は関係ない。世界に呪われた自分が、最終的に行き着いたところだ。むしろふさわしいとさえ思う。そしてより一層世界を呪うのだろう。形有るモノすべてを破壊に導く力を持つ者として。
冬の風が少しずつ細かくなったコウを攫い、何処かへと運んでいく。貪欲な大地は、飽き足らない胃袋にコウまでも奪い去りたいらしい。だが、全てはくれてやるものか。シキが死ぬまで、取り込んだコウの一部は生き続ける。
欲しいなら、俺を殺してみろ。
連れ去っていく風に、挑発する。
全てを食い尽くすことは流石に出来なかった。略奪は止まらず、やがて地面とコウとの境が解らなくなった。
「ごめんな……コウ。全部喰ってやれなくて……」
別れを告げ、立ち上がる。
一度、家に戻ることにした。
家主を失った家は、どこか寂しそうな空気をしていた。雑然とした家の中は生活感に溢れているのに、誰かが帰ってくるのはこれで最後になる。三人で生活していた幻も見えない。突然訪れた空虚に、今は心が痺れている。
二階に上がると、長い間羽織っていた汚れた布と、先日シュウに買い与えられたハーフコートが同時に目に付いた。血に汚れ穴の開いたコートは、密かに洗って穴を塞いである。シュウは買えばいいと言っていたが、あの時のシキはそうしたくなかった。そんな思い出も、今は意味を成さない。
背筋を上っていった寒気に身震いした。上着を着ても寒いこの季節に開襟シャツ一枚で表を走っていたのだ。気が付けば全身余すところ無く冷えている。
シキは何も考えずに赤いコートを手に取り、羽織った。
他に何も持っていく物はない。必要なのは、銃と弾丸だけだ。
もう二度と永遠など信じないだろう。再び手に入れたはずの季節は、無情にも奪い去られた。そして、もう二度とそんなものは訪れはしない。三度目は決して来ない。
「ハル。俺、おまえだけじゃ懲りなかったみたいだ。許してくれ」
言い残し、シキは家を出た。開けたままなのは家の扉だけで、他は何もかも閉ざした。瘴気のことを気にするのもやめた。もう何がどうなっても構わない。
コートのポケットに手を突っ込んだ猫背まま、シキはこの小さな街を後にした。
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