第29話

 トイと会った数日後、シュウはソファに深々と埋もれ、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 上空は曇っている。色はまだ薄い灰色だが、見ている間にも厚みを増して色を濃くしている。この先、もっと質量を増していくことだろう。

 かつてシキによく見ていた色。泣き出しそうなねずみ色。改めて眺めると、感傷的になる。

 そんなぐずった心で思うのは、トイのこと。そして、……。

「俺のテリトリーで何してんだよ」

 突如として掛けられた言葉に思考は寸断された。首を少し捻って見上げると、シキが見下ろしてきている。最近、起きる時間が早まっているようで、午前中でも家の中をうろうろしていることが多い。

 そして、落ち尽きなく徘徊していたシキに声を掛けられたのだが、

「ちょっとな……」

 どう説明すればよいかよく解らない。

「あんたの探しモンは俺だろ? 空に見つけたいのは俺の方だって」

「や……。空って訳じゃなくてさ……」

 歯切れの悪い回答に、シキはシュウの後ろでふくれた。今はシキの方が頭二つ分以上に高い位置に居る。この位置関係だと、シキに頭を小突かれそうだ。実際、近くにある彼の手が嫌な気配を持っている。

「珍しくスッキリしないな、シュウ。バレバレの隠し事って、すっげぇウザイんですけど」

 シキの手の代わりに言葉で肘鉄を入れてきたのはコウだ。指定席に座りながら、シュウの顔を覗き込んだ。

 そんな風に見るなよ。と、シュウは苦笑を返した。なにも、隠すつもりがあってのことではない。

「今更なんだけど、フォルトの遺体、そのまんまだよなって思って」

 考えていたことを、一つだけ口にする。もう一つはまだ纏まっていないし、誰かに相談するようなことでもない。

「フォルトって……あいつか。死んだんだろ?」

 コウが言い、シキも同時に思い出したように頷いた。

「ちょっとだけど世話になったし、あの後、俺、おかしくなってすぐ出て来ちまったからさぁ。なんか、放っておくのも何かな、って思って」

「ほんっと、今更だな」

 今度はシキがシュウの頭のてっぺんに痛い言葉を落とす。ここまで聞いて、その先のシュウの考えは言われなくても分かってしまったようだ。

「それであんたのことだ。今から行ってみようとか思ってるんだろ?」

 思っていたことを全て代弁されてしまった。

「まあな」

「じゃあ俺も連れて行け」

「は?」

 見上げれば、通常ならば有り得ない高さからシキが見下ろしてきている。なかなか新鮮な光景だ。からかうようなことでも言ってやろうかと思うも、余りに真面目な顔をしているのでその気が失せた。

「いいよ。俺一人で行くから」

「連れて行きたくない理由でもあるのか?」

「別に無いけど」

「じゃあいいだろ?」

 今日のシキはいつになく頑なだ。強硬な姿勢の意図を探ろうとするも、真面目な顔をした彼に見下ろされると、何故か萎縮してしまう。見えない何かに押し潰されるような感覚を得て、シュウは首を竦めた。

「来てもいいけど、何も面白いこと無いと思うぞ?」

「面白くないから行かないって言う理由はないんだよ」

 それにしても理由付けが無理矢理だと思うのは自分だけだろうか。

 助けを求めようとコウの様子を窺うと、いつも通り何の変哲もない表情をしたコウが居る。つまり、割と乗り気だ。

「どのみちここに居たって面白くないんだ。外に出た方が何かあるかも知れないな」

 コウの言葉にシキは頷く。

「それに、興味湧いたから」

「おまえ、いつからそんなにアウトドアになったんだ?」

「冬だから」

 それを答えとすると、シキは上着を取りに二階に上がっていった。

 短いとも長いとも言えない付き合いだが、まだシキのことがよく分からない。引っ掛かりを感じながら、シキの背を目で追った。シュウが首を傾げるのを見て、コウが笑った。

「外に出る理由があるのが、あれはあれで嬉しいんだよ。夏なんて、本当は夜にならないと一歩も外に出られない身体なんだ。出られるうちに出たいんだろ」

「良くそれであの炎天下、うろついてたな……」

「だから悪化したんだろ。瘴気の力……」

 コウが一転、険しい顔をした。

 自分が知らないことを、彼は知っているらしい。悪化した、という言葉。それがどういう意味かはすぐには分からなかった。

 破壊力が強くなったのか、シキ自身への影響が大きくなっているのか。その両方か。

 コウが言うほどの変化を、シュウは未だ感じていない。

「そんなに酷いのか?」

「どのみち長生きは期待出来ないだろうな。俺もあんたもそれは同じだけど」

 コウは立ち上がると、近くのクローゼットから先日シキが着ていた黒のハーフコートを取り出した。

「コウは何処へ?」

「は? 何言ってんの? 俺も行くんだよ」

「あ。そう……」

 予知能力が足りなかったようだ。

 シュウが上着を着て帰ってくるのとシキが降りてくるのはほぼ同時だった。シキは先日買って貰った赤のハーフコートを早速羽織っている。シュウは相変わらず黒のロングコート。なぜだかこれを着る度に冷視を浴びているような気がするのだが、気のせいだろうか。

 コウとシキの視線がぴたりと合う。互いに互いを上から下まで一通り眺めた後、また目を合わせる。

 意味ありげな視線を交わし合うこと数秒。二人とも言いたいことは何も言わない。無言のままの二人に、シュウは引きずられて外に出た。



 風が身に染みる。時々吹き付けてくる風が頬を切っていくようであった。

 こんな寒い中に身を曝しながらも、シキは身体の中で異常な熱が湧くのを感じた。久しぶりの感覚だ。先日とは違い、今日は身体の機嫌が悪いのか、瘴気が体内で小爆発を起こしている。冬にしては珍しい。感覚よりも先に身体が不吉な何かを感じ取っているようでもあった。残念ながらシキにはそれが何なのか見当も付かない。

 脇にいる二人に気付かれないように、寒いようなフリをしてコートの襟を寄せた。


   *


 シュウの後を付いて歩きながら、シキにも今更と言えることが起こった。

 が死んだ時のことを思い出した。あの時も季節は冬。酷く寒い日で、滅多に降らない雪が足が埋もれる位積もる程降っていた。

 ユイが最後に亡くした温もりなら、あの人は最初に亡くした温もりだ。

 まだ幼かったシキに回された腕は燃えるような熱を持ち、その身体はゆるゆると死に誘われていた。顔は良く覚えていないが、明るめの茶色の長い髪に、鳶色の瞳をしていたのだけは覚えている。

 あの人は自ら望まずに発する熱に喘ぎ、僅かずつであったが細胞が崩壊していっていた。今だから思うが、それは瘴気が当たった者と同じ様だった。

 事態が掴みきれず縋り付いたシキの髪をあの人は撫でながらこう言った。

「虚は虚を埋める……。覚えていて。そうすれば、少しでも幸せになれるはずだから」

 言い終わるとあの人は息を引き取った。苦痛の中で死んだ割に、死に顔は穏やかだったように思う。やがて彼女の身体は崩れて、空に舞い、大地に沈んだ。

 あの人との関係は、実際の所よく解らない。小さい頃は、共に居た女性なのだから母親だと信じていた。だが、月日が経つに連れてその自信も薄れていった。何しろ、覚えているのはあの人が死んだその日のことだけなのだ。

 彼女には名前があった。けれど、いつしか〝あの人〟と呼ぶようになってから、その名の記憶が零れて無くなってしまっていた。思い出そうとすれば浮かんでくるのだろう。しかし、わざわざ思い出そうともしなかった。

 彼女の死を見て、一つだけ確信したことがあった。それは、自分もこうやって死ぬだろうこと。誰の手に掛かることもなくても、自分自身に殺されるのだと。熱に魘され、痛みに喘ぎ、苦しむだけ苦しんだ後に跡形もなく崩れ去ってしまう。その死が怖くて、生きたくもないのに必死に生きてきた。あんな風に死にたくないという、その為だけに。

 瘴気が疼くたびにその恐怖が蘇る。だから無闇やたらに人を殺してみたり、莫迦騒ぎをしたり、とにかく気を紛らわせたかった。

 鬱々となるうちに、空に囚われた。夢を見るようになった。自分がこの大地に居る理由を、夢に押しつけた。

 いくつもの熱を失った。

 そしてやっと得た虚。けれど、それは余りにも危うい。共に居れば幸せに違いなかった。けれど、一度得てしまった幸せを手放すのは、あの死と同じくらいの恐怖がある。

 あの人は何であんな事を言ったのだろう。得たとして、幸せになったとして、結局待っている物は孤独と死であるのに。

 せめてもの幸せを教えてくれようとしたのだろうが、それを得ることが幸せかどうかは定かではない。それが崩れ去るときが、最大の不幸であるということまで、彼女は知っていて言ったのだろうか。


   *


 長い回想をしている間に、シュウの足が止まった。

 我に返り顔を上げると、何処にでもある普通の家が目の前にあった。

 今になって気付いたが、コウが心配そうな顔をしてこちらの様子を窺っていた。もしかしたら歩いている間中、こうして様子を見られていたのかもしれない。

 ばつが悪くなり、コートの襟を口元に寄せた。

 その間、シュウが恐る恐るドアを開けた。ドアは壊れていて、鍵も勿論掛かっていない。一歩踏み入れると、僅かだが血の臭いがした。けれど、生き物が腐敗したような饐えた臭いはしない。風を通していなかったために残り香が籠もってしまったような臭いだ。

 二人もシュウに続いて家に入る。居間に着くと、三人揃って立ち止まった。

 テーブルの脇に乾いた血溜まりがあった。だが、死体はない。

 血が滴った跡も引きずった跡もない。在る程度血が乾いた頃に、誰かが運び出したのだろうか。

 一応家中を探してみる。しかし狭い家なのですぐに手は尽きた。

 誰かが運び出したとして、後は野ざらし以外の方法で葬ってくれていることを祈るしかない。

「そういやさ、何で俺、狙われてたわけ?」

 釈然としない顔でコウが尋ねた。

 シュウは椅子に腰掛け、シキは壁に寄り掛かり腕を組む。

「コウの暗殺依頼したの、俺たちとおまえらが襲撃しに行ったトコのボスだったらしくてさ。そいつが、元・黒狼幹部なんだと」

「トレ・タルパのあいつか……。家分捕った腹癒せかな。バクチ弱いのにいい気になるからいけねぇんだ」

「じゃあ、黒狼とは関係ないトコでコウは狙われてたってわけか? でも、トイって奴は黒狼に居るんだろ?」

「依頼主は元・関係者ってだけで、直接黒狼とは関係ないようなこと言ってたけど」

「だよなぁ。だって俺、黒狼とは関わらないようにしてたし、大体、ボスの顔もよく知らねぇし」

 確かに、とシキは思う。

「それもそうだよな。ルイレンが黒幕だとして、奴が俺を狙うならまだ解る。でも、狙いはコウだったわけで。それ以前に俺がここに居るって知ってるならの話だけど」

 シキは狙われるだけの理由を持っている。昔からの因縁。それがコウに飛び火したとするなら、突飛な気がした。合点がいかない。

 しかし、シュウは小さく首を振った。

「奴ら、おまえがこの街に居るの、知ってるぜ」

「……!」

 シキは声もなく驚いた。

「フォルトがコウを殺し損なったのも、俺がフォルトの所に居るのも知ってた。どうやって知ったのか見当も付かない」

「ってことは、もしかしたら俺たち揃ってあそこに居るのもバレてんのかもな」

 コウは苦い顔をした。可能性は大いにある。

「俺が面倒連れてきちまったみたいだな。悪い」

「でも、コウのことが黒狼と関係ないとしても、何でトイはわざわざ俺の前に現れたんだ? 別件で何かあるんじゃないのか?」

「どうだろう。おまえについては知ってるようなことは言ってたけど、それだけだったし……」

 話が煮詰まってきた。

「整理するぞ。コウを殺したがってたのは、トレ・タルパのボス。元・黒狼幹部。トイはその仲介をしていただけだけど、俺たちの状況は把握してる。そんで、この前俺たちの前にわざわざトイが現れた。理由は不明。オーケー?」

「じゃあ、何でフォルトは殺されたんだ?」

 シキの疑問に、シュウは一旦口を閉じた。思考の中に言葉でも探しに行ったのか。暫くして、

「トイが、繋がりがどうとか言ってた」

「繋がり?」

「ルイレンとフォルト、トイが言うには血縁関係らしいんだけど、フォルトには身に覚えがないみたいでさ。でも、トイはそれが妬ましかったみたいで……」

「それで殺した?」

 シュウは頷いて返す。

 ルイレンとフォルトが兄弟か何かというのはこの際どうでもいい。腑に落ちないのは、それを理由にフォルトが殺されたと言うことだ。彼らの関係性が、トイという男にどれだけの意味を成しているのか知らない。だが、それは他人の関係性であって、そこにある繋がりがどうして妬ましいのか、片割れを殺すまでに至る理由になるのか。シキには理解できなかった。

 コウも同じ考えだったようで、

「なんだよそれ。理由になってないじゃん」

 と、口を尖らせた。

「俺だってそう思うけど、解りやすく言ってくれなかったからさ。後は直接訊くしかねぇだろ」

 不満を露わにするコウに、少し不機嫌そうなシュウ。顔を突き合わせたところで、どのみちそれについての答えは出なかった。

 三人とも不満であった。見えそうで見えない敵が訳も分からない理由で狙ってきているらしい。そもそも、本当の敵は誰なのか。トイ一人と考えて良いのか。それとも、黒狼全体をも巻き込んだ何かなのか。何もはっきりしない状況に置かれて、しかもいまいち実感がないとなると気分が悪くなるのも当然だった。

 皆バラバラの方向を見ながら、自分なりに考えをまとめ上げようとするが、何しろまとめる程の情報も何もない。結局何をしても落ち着くことはなかった。

「で。奴の死体がないのは確かめた。あとはどうする?」

 シキが切り出したことで、他の二人の思考は一旦切断された。目的は先程既に完了してしまっている。長居をしたところで曰く付きの場所だ。再びトイと会っても良いことはない。



 帰るか、ということになった。

 二人は先に今を去っていったが、シュウは一人、その場に留まった。床に残るどす黒い血溜まりの後に、横たわるフォルトの姿が重なる。

 あの時、何も出来なかった。トイを止めることも出来ず。フォルトを死の淵から救い出すことも出来なかった。

 むざむざトイに殺させたようなものだ。

「フォルト……。シキには、会えたよ。あんたにも、もう一度会えたらな……」

 叶わない願いだ。

 誰が遺体を運んだにしろ、きちんと弔われていて欲しい。

「あんたの探し物、解れば探すけど……それは、あんたが探さないと意味無いんだろうな」

 また言葉を交わしたい。狂気が抑えられたのなら、もっとゆっくり過ごしたかった。

 やはり、最早叶わないことだ。

 シュウは床の染みを一瞥し、先に行った二人を追いかけた。


   *


 家路の途中、三様に気の重さを引きずっていた。しかし、シキ一人、その種類が違っていた。

 何か嫌な空気が流れている。そんな気がしてならなかった。湧き出してくる瘴気の所為で感覚が狂っているのならそれでいい。結局その確信も持てず、ひっきりなしに辺りを気にしていた。

 脇の二人もシキに構う余裕はないらしく、一人ぴりぴりしたシキに気付いていない。

 所謂第六感。嫌な予感は特に良く当たる。

 いくつもある十字路の一つにさしかかった時、舞っている風が正面から吹き付けてきた。思わず頭を伏せ、風に抵抗する。なんということはない、普通の行動だ。

 しかし、シキは左頬に刺さる何かを感じ動きを鈍らせた。その間に一歩、二人が前に出る。シキの視界に入ったのは、こちらに向けられた銃口であった。

 目を疑う。

 一瞬はトイかと思ったが、色が全く違う。まともな姿は確認出来なくても、その黒い人型を見れば、脳裏に浮かぶのは一人しか居ない。

 しかも、銃口が向けられているのは正確にはシキの方ではなかった。

「コウ!!」

 叫びながら前を行くコウにありったけの体当たりを喰らわせる。叫び声に被さるように銃声がした。シュウも巻き込んで倒れる途中で、シキ一人が軽く別の方に吹き飛ばされた。

 肩が焼ける。新たに出来た鼓動が脈打つ度に血が零れるのが解った。

 倒れ込んだシキに、二人が駆け寄ってきた。シュウに上半身を抱えられ、起こされた。彼らは安堵の息を吐くと、シュウがコウと共にシキの手の上から手を当ててきた。

 だが、シキはその手を振り払う。

「何だよ、シキ」

 怒気を含んだ声をして、シュウはまた手を当てようとした。その手を、血塗れの手で掴んだ。

「違うんだ。まだ、弾が腕の中に残ってるから、このまま治すと取れなくなっちまう」

 そう言ってシュウの手を放すと、自らの傷口に指を入れた。自分で自分の傷口を広げる痛みに歯を噛み締めて耐える。骨にまで食い込んでいた弾丸を一息に引き抜くと、目の前へ投げた。それは丁度銃声のした方だ。

 コウとシュウは投げられた弾丸を目で追う。弾は地面に落ちると脆くも崩れた。瘴気に当てられた物と同じ末路だ。そして更にその先に目をやると、黒に覆われた男が一人。

「ルイレン、だな?」

 シュウに抱えられたまま、シキは言う。幼い頃に一度顔を見ただけだが、間違いないはずだ。独特の、影そのもののような気配。黒狼の頂点。組織を束ねる男が、何故か供を一人も付けずにたった一人で目の前にいる。そのことが唯一の違和感だ。

 頷く代わりに、男は微笑した。

「会うのはこれで二回目だが、良く覚えていたな。シキ」

 温度を持たない声だ。初めて会った時のシュウにも似ていたが、それよりも冷たい。

「ここら辺一帯は黒狼のテリトリーだ。しかも、本拠地の近くでうろつくとは」

「何であんたが俺の名前を知ってるんだか」

「一応これでも組織の中心に居る人間だからな。情報力を舐めて貰っては困る。おまえがどういう風に生きてきたか位までは知ってるつもりだ。十代の時にハルという男を亡くしたこと、一人の女を亡くしたこと。先走った俺の部下に追われて逃げていたシュウと、あの街で出会ったこと。そして、コウと昔なじみであること」

 驚愕したのはシキだけではない。シキがルイレンの名前一つをやっと知るまでの間に、ルイレンはシキの人生の大半を知っていた。

 彼の目線がシュウへと移る。

「フォルトの死体を見に来たのなら、一応処理をさせて置いた。火葬にして簡単な墓を作っただけだがな」

「フォルトはあんたの血縁じゃないのか。随分と冷淡だな」

「トイから聞いたのか」

「泣きそうな顔しながらフォルトを殺してたぜ」

「人の死など、家族だろうが弟だろうが俺には関係ない。生き物はいつか死ぬ。それを一々嘆く意味が、俺には解らないだけだ」

「そうかよ」

 抱き起こされている手に力がこもった。シュウが奥歯を噛んだのが、見なくても解る。

 この不慮の再会の冒頭から何もかも不愉快だ。シキの肩を穿った銃を弄びながら、黒い長身はそこに留まったままだ。

 意図を汲もうとする。わざわざ目の前に現れた理由。しかも、たった一人で。意図を感じざるを得ない。だが、それは何なのか。

 腕の痛みが遠退いていくのに比例して、眉間に寄る皺を増やした。

 ルイレンの手の動きが止まる。代わりに、手や肘に触れた。

「相変わらずその〝気〟とは相性が悪いな。リオといい、おまえといい」

 リオ。

 いつしか記憶の中から追いやってしまっていた名前。あの人の名前。

 それを何故、ルイレンが知っているのか。

「前に会ったときよりも強くなって居るんじゃないのか」

 瘴気が障るらしい。僅かに眉根を詰め、関節を気にしている。

「何であんたがあの人を知ってるんだ」

「……古い話だ。古く、遠い、昔の、な」

 今度は眉尻を下げたルイレンは、明後日の方を見ている。まともに答えるつもりはないようだ。

「じゃあ」

 ならば質問を変えよう。

「何で俺の前に現れた。俺はあんたより平穏を選んだ。それなのに、わざわざ壊しに来るなんて、あんたの方がよっぽど俺に怨みでもあるのかよ」

 シキの言葉に、ルイレンの顔から笑みが消えた。元から笑んでなどいなかったのかもしれない。憂いさえ含んだ冷たい表情が、正面を向いた。真っ直ぐにシキを見下ろしてくる。

「……おまえが、そこに居たから」

 孕む矛盾や疑問を無にするかのような言い方だった。何を思っても口を挟ませない。そんな空気を持った言葉だった。

 理由になってない。

 思ったことを、耳元でコウが呟いていた。その言葉がそのまま耳鳴りのように響き続ける。

 ルイレン自体がそこに立つブラックホールのようだった。拠り所もなく、存在さえ危ういその永劫の闇は、一体何を思ってそこに佇んでいるのか。

 三人は唖然とした顔で凍てつく夜のような男を見ていた。

「それ以上に理由があったとして、それが一体何になる? 殺すのに、生きるのにいちいち確かな理由や意味を求めて、それでどうなる? おまえ達なら解るだろう。動くままに動き、為るままに成るしかないと」

 こんな全てが空洞のような人間だったとは知らなかった。昔はもっと人間臭かったように思うが、その人間性をこの十数年で全て零してしまったらしい。若しくは、生きる意味を失ってしまったとも取れる。彼に何があったのかなど知る由もない。

 しかし、言うことが理解不能であるわけではない。殺し、その上に生きる意味。何度も自らに問い掛け、出ない答えにこじつけをしてきた。為るように成る。それが実際の所だと、綱渡りのような今までの流れで知らずと染み込んでいた。それで良しとしたわけではない。理由や意味は今でも欲しい。投げやりの果てに棄てられないで居るところが、自分たちとルイレンとの差だ。

「生憎、俺には生きたい理由がある。あんたとは違う。死に場所が欲しいなら、俺が作ってやるよ」

 シキの傷は三人の手が重なり合うことで既に止血している。皮膚も肉も繋がり始めていた。思ったよりも治りが早い。時間稼ぎは最早不要だ。

 ――嫌な予感、大当たりだぜ……。

 皮肉なことでもあったが、瘴気を始めとする諸々の力のお陰でこうやって強いことを言える。傷から手を放すと、血で濡れていた服と手とがくっついたものがぺりぺりと剥がれる音がした。傷が塞がるだけでなく、零れ出た血液までもが乾いている。現状に眉を顰めながら、シキは一人、立ち上がった。

「シキ……」

 引き留めたがっているシュウに、シキは一つ、首肯した。

 何も言わず、大丈夫だからと、頷く。

 見上げてくる二人分の視線を断ち切って、シキは前を向いた。

 十数年前、全てを壊した男。追いつくことさえ出来なかった男。その因縁が、火に飛び込んできた。それは、幸いか、更なる不幸か。

「折角諦めたのにさ……」

 本音をぼやく。

 関わりたくなど無かった。今となっては怨みも憎しみもない。長くはないだろう人生を適度な平穏の中で生きよう。そう決めたからこそ諦められたというのに。ここで背を向けて去れば、この次が来る。

 無くなってしまった感情を呼び起こす。血まみれの家族の死体を。庇ってくれた母の重みを。充満する血と死臭を。その時抱いた殺意を。

 喉の奥が震えた。

「ホントにあんたは、俺のことが嫌いなんだな。もうウンザリだ!」

 言い放ち、シキは銃を抜いた。


 壊れていく。

 この銃が、壊していく。


 駆け出す前の刹那にシキの銃口が二、三度痙攣したのを二人は見た。

「「シキ!!」」

 駆けてゆく彼の背に制止の言葉を投げつけられる。しかし、シキは足の回転をやめなかった。声は届いていた。けれど、止まる理由に走る理由が敵わない。



「世界を冒す痛み……。おまえは、何処まで蝕むんだ……?」

 背中の傷に幻痛を覚える。彼女に付けられた傷だ。悲鳴を上げた彼女が、思い切り刻んだ痕。あの時、あのまま殺されても良かった。共に痛みに喰われ、崩れ去るのも悪くないと本気で思っていた。

 結局、彼女は傷跡だけを残して消えてしまった。

 シキはリオを知っている。関係性の確信はない。だが、持っているものは同じようだ。

 素直にものが言えない所為で、多少の誤解を与えたようだが仕方がない。シキは何も知ることなく生きればいい。その方が幸せだ。

 生きたい理由があると彼は言った。少し、羨ましい。

 両の手袋を外した。爛れたような傷痕が露わになる。これもまた、彼女から受けた傷。触れられることに怯えていた彼女が示した拒絶の徴。

 おもむろに銃を上げた頃、シキは一番近くの五階建ての建物に向けて駆けていた。そこの非常階段の手前に来た時、信じられない跳躍をした。一気に三階の高さまで上がると、手すりの柵の隙間から足場に手を付き柵の分だけ身体を押し上げ、片足で手すりを蹴って再び二階分を飛躍した。この僅かな動作だけで五階の屋上に上がった。

 流石のルイレンも眉をひそめてその光景を見ていた。

 シキの姿は視界から完全に消えている。人間離れした跳躍力と速度に目を遣っているだけで精一杯だった。

 と、不自然な影が生まれた。一瞬だけ、太陽の光が途切れる。反射的に上を見たときにはシキの姿が眼前にあった。咄嗟に銃を構えるも、その銃を手ごと蹴り飛ばされた。

 銃は手を離れ、取り残された二人の元まで弧を描いていく。

 蹴られた反動で倒れそうになった胸倉を、掴まれ、引き寄せられた。

 銃口が左肩に押し付けられる。直後訪れた衝撃と激痛に、ルイレンは顔を歪めた。

「さっきのお返しだ」

「殺さないのか」

 答えはない。そして、手にしていた銃を一度腰に差すと、自らの血糊の上に手をやった。一度は乾いたように見えるそこが、鮮血に濡れている。右手をたっぷり赤で汚すと、彼はその手で腕を掴んできた。

 丁度、今し方撃ち抜いたばかりの傷を。血を、塗り込むようにして。

 訪れた感覚に、忍耐は悲鳴を上げた。

「うぁぁっ……!」

 思わず身体を折り、左腕からシキの手を振り払おうとした。距離を離そうにも、束縛から逃れられない。

「く……ぅ……」

 傷口から全身が焼かれるようだ。否、そんなものではない。痛みを通り越した感覚が鈍くも鋭く襲い来る。奥歯を噛んでも自然と声が零れる。足掻くほどに彼の血に浸食される。

「これがあの人の分だ。けど、瘴気の痛みはこんなモンじゃない。あんたらは一瞬で終わるけど、は死ぬまで苦しみ続ける」

 耳元でシキが言う。

「この血は、狂気さえ殺す血だ。弱いあんたには、良く効くだろ」

 呪いを吐く口が離れると同時に、胸倉と腕を突き放された。蹌踉めくも、何とか踏みとどまる。強い痛覚からは解放されたが、まだ傷口は脈打っている。そして、額には脂汗。風が吹く度に背筋が冷える。

「もう一丁ぐらい持ってるんだろ。そいつの弾倉が空になる前に、終わりにしてやるよ」

 絶対的な優位に立っているにもかかわらず、シキの表情は曇ったままだ。殺意を思い出させるのは容易いと思っていたが、人は、思い通りになるほど単純ではないようだ。

 何を思って、彼は自分を殺すのだろう。

 ――本当に壊すだけだな……。

 ルイレンは懐から銃を抜いた。シキも一度腰に差した銃を手に取る。

「サシでやろうぜ」

 残像を残し、シキは跳んだ。

 何度見ても信じがたい跳躍だ。彼を目で追うついでに振り返ると、殺気立った二人が腰を上げるのが見えた。

 追うと言うよりは追われるように、ルイレンはシキを捜し始めた。



 アパートの屋上を走りながら、シキはルイレンを眺め下ろしていた。

 こちらの影を見つけては懸命に追ってくる。その足取りは怪しいものだ。シュウの狂気すら殺す血を傷口に塗ったのだ。体力どころか命までも削られているはずだ。恐らく、気力だけで動いているのだろう。

 何が彼を動かしているのか。あんなにも生きることに無気力な男が、何故執念のように追ってこれるのか。そこまでして壊したいというのならば仕方がない。それ相応に報復するのみ。

 下方から銃弾が来る。しかし、常に着弾点の半歩前を行き、当たることはない。

 シキから撃つことはなかった。

 屋上から非常階段。時に地面に降りては、また高みに消える。瘴気の副作用とも言える身体能力を生かして、ルイレンを翻弄する。その途中、シュウとコウが追ってきているのが見えた。直に追いつくことだろう。先に仕留められたのでは後味が悪すぎる。

「もう、いいか……」

 独りごち、シキはルイレンの視界から姿を消した。



 裏路地の真ん中。ビルの谷間。

 人気のないその場所で、ルイレンは世界の回転を感じた。思わず立ち止まり、僅かに身体を折る。

 脈はそれほど上がっていない。しかし、身体が重い。地面ごとひっくり返るような眩暈も治まらない。動こうにも、どこもかしこも言うことを聞かなくなっている。

 突然、真後ろに足音を聞いた。

 息を呑む。これが、恐怖というものらしい。

 脇腹に銃口が押し付けられる。避ける術など何処にもない。

「俺の勝ちだ」

 乾いた音。二度目の衝撃。

 音に驚いた鳥が、何羽か慌てて飛び立つ羽音が聞こえる。

 腹から零れ出るものがある。銃弾は貫通している。手を添えても指の隙間から次々と比重の重たい液体が流れ出す。全身が薄ら寒い。食道を上ってくる鉄の味を感じながら、ルイレンは地面に崩れ落ちた。

 吐き出した血が散る。持ったままだった銃を蹴り飛ばされても、抗うことは出来なかった。

 霞む視界の正面に、シキの足が見える。

 触れたい。

 この痛みの塊に、少しでいい。触れたい。

 赤に染まった手を伸ばす。

 彼女と同じ激痛へ。

 ――触れさせてくれ……。

 しかし、届かない。それどころか、何かに気が付いたのか、足が一歩後ろへ下がった。

 どんなに指先を引きつらせても、靴の爪先にさえ辿り着けない。

 これは、報いか。自分だけ欲しいもの全てを得るなど、ムシが良いということなのかも知れない。

 叶わないと知り、伸ばした手で地面を掻いた。

「シキ……」

 立ち去られる前に、と声を絞る。

「ん……?」

 気のない返事が返ってきた。

「リオは、……もう、死んだのか……?」

「ああ。俺が小さい頃にな。あんたと初めて会う、数年前だよ」

「何故、死んだ……?」

 見上げた彼の顔は、影になって表情が覗えない。押し黙った彼は、一体どんな目をしているのだろう。見てみたいが、既に視界が悪くなっている上に、光の具合が悪い。

「瘴気に喰われて死んだ。身体を崩して、跡形もなく。きっと、この大地のどこかに居るよ。俺もいつか、同じ様になる」

 少し、涙声だ。強がっているのがよく解る。

「けれど、おまえが還りたいのは……大地じゃないのだろう……?」

 空気が揺れた。図星と受け取って良いだろう。

 生き続けたい。しかし、生きられない。それは、どんなに辛いことだろう。覚悟はしているのだろうが、まだ若い。まして、彼女の最期を見たのならば、恐怖は募って当然だ。

「すまない……」

「何であんたが謝るんだよ」

「何も、してやれない……」

「……」

 そして、赦して欲しい。

 一人だけ、望みを叶えて逝くことを……。



 哀れな姿であった。対峙したいと追い続け、追うことをやめた矢先に現れ、そして呆気なく銃弾に倒れた。黒狼の頭として長いこと君臨してきたその姿とは思えない。冷酷と聞いていたが、時々見せた表情にその噂を疑った。シキが思い描いていたルイレンという男の姿と、今目の前で死に呼ばれている男とはあまりにも掛け離れている。

 哀れな姿だと思っていた。それも時間が経つほどにそれほどでもないと思う。何故、彼があの人のことを気にしていたのかは解らず終いだ。言葉を交わすほどに、人間臭さが増していく。

 発言に、意味深なところが多すぎた。出来ればもっと語れれば良かったかも知れない。

 そう思うも、もう遅い。ルイレンの死へのカウントダウンを、シキ自身が始めてしまった。一度減り始めた数字は、誰にも止めることは出来ない。

「もう、何もしてくれるなよ。俺の人生に、あんたは不要だ」

「……そうか」

 消え入りそうな声。その余韻が消えるとほぼ同時に、ルイレンは瞼を閉じた。

 まだ僅かに息をしている。やがて、それも閉ざされる。時間の問題だ。

「シキ! ルイレンは!」

 息を切らした二人が追いついてきた。コウが真っ先に尋ねたのに対し、シキは足元を指し示す。

「ここ。もうじき死ぬ」

 彼らが追いつくよりも先に、シキは二人の元へ歩き始めた。

 振り返ることはしない。

 血溜まりに倒れるルイレンを見て、二人はそれ以上何も言わなかった。三人で肩を並べ、途中だった家路を辿る。

 足が重い。悲しみはしなくても、その死は決して喜ばしいものではない。

 シキは首を振った。忘れよう。もう終わったことだ。余りに後味が悪いのは、時間に薄めて貰うしか手だては無さそうだ。

 沈黙が続いている。自分から切り出す話題もなく目を落とすと、肩の傷が見えた。屋上へ跳躍するために非常階段の手すりを掴んだとき、癒着が甘かった皮膚が破れた傷は再び塞がっている。右手は二人分の血液で真っ赤だ。

 その指先を、口に含んで舐め取った。鉄の臭い。渋い味。何の変哲もない血に見えて、自分のものは質が異なる。この血の所為で、命を殺がれる者もいる。

 なんで、こんなものが存在するのだろう。異質で済まされる限度を遙かに超えている。この身体は、魂は、一体どこから来たのだろう。

 唇を噛み、更に俯いた。

 何故存在して、何故生きているのか解らない。そのことが、なによりも辛い。存在意義を、何に求めれば……。

 不意に、肩を抱かれた。シュウの手だ。

 鼻がつんとする。予兆を知り、誤魔化すために鼻を啜った。

「このコート。早速傷物にしちゃったな」

「いいんだよ。物は壊れる為に、金は使う為にあるんだ。気にすんな」

 シュウならこの生の所以を説明できるか? そう訊こうとして開こうとした口を、シキは途中で閉ざした。彼を困らせるだけの質問だ。投げかける価値はない。

「……ん?」

 シュウが疑問詞を打った。何事かと顔を上げてみれば、空からちらほらと綿クズのような雪が落ちてきた。

「久しぶりだなぁ。ガキの頃に見て以来だぜ、雪なんて」

 コウが子供のように声を上げた。

「俺も」

「俺もだ」

 一度降り始めた雪は見る見る大降りになり、あっという間に視界が白に埋め尽くされた。

 シュウはコウと一緒になって楽しそうだ。しかし、シキはこの白い落下物に心は躍らない。雪を手の平に取ると、その上で体温に溶かされ水になる様を見て呟いた。

「雪の日は、よく人が死ぬ……」

 シキの声は二人には聞こえなかったようで、反応はなかった。相変わらず子供のようにはしゃいでいる。

 一緒に騒ぐ気が起きず、シキはポケットに手を突っ込んで先を目指した。じゃれ合っている二人の脇を通り抜けた時、道端に目が止まった。始めは何か判りかねていたが、よく見ると、小さな鳥の死骸だった。うっすらと雪に覆われて、力無く羽を広げて伏している。

 シキは躊躇いながらもそれに近づいた。片膝を付いて屈み込み、手を伸ばす。けれど、触れられない。

 ――関係ない。……関係ないのに。

 既に死んでいる物に躊躇うことは何もない。だが、死んで間もないせいか、その鳥は今にも起き上がって空に舞っていきそうにも見えた。そんな風に見えるから余計、触れることが出来なかった。

 この手は壊すばかり。何も救えない。何も癒せない。

 ついに指を折り、シキは手を握り締めた。



 道端で屈んだシキに気付いたシュウは、戻ってきて彼の脇に立った。コウもシュウに続いた。

 震わせた握り拳を、シキは抱えて顔を伏せている。

 彼の目の前には鳥の死骸。彼が殺したわけではないだろうに、シキは震えて鼻を啜っている。

「シキ……」

 誰も悪くない一羽の鳥に訪れた死に、シキはどれだけの物を重ねているのか。想像は現実に追いつかない。居たたまれず、シキをこの場から引き剥がして早く家に連れ帰りたかった。ルイレンと一戦交えてから、彼の様子がおかしい。理由も尋ねられず、腕を回してやることしかできなかった。今は手すら伸ばせない。

「おまえこそ、空に還りたいよな……」

 涙声で言い、シキは立ち上がると雪の道を歩き始めた。

 寂しそうな背中が、出会ったばかりの時のように見える。世界の中で自分一人で居るかのように肩をすぼめている様は痛々しい。

 見ていると、肘で強くどつかれた。

 下を向いたシュウの前には、何か言いたげなコウの顔がある。大体のことを察し、軽く頷いて返した。

 見てやるな。

 そういうことだろう。

 反応を確かめたコウは、シュウを置いてシキの足跡を辿り始めた。

 コウの背は伸びている。シキとは対照的だ。やがて追いついたコウがシキの肩を叩く。

 目を擦りながら振り向いた口元は、微かだが笑っていた。


   *


 出不精のルイレンが部屋にいない。それだけでトイの不安は最高潮に達していた。

 外出の予定があるとは聞いていない。誰に聞いても知らないという答えしか返ってこなかった。屋敷を一回りして彼の部屋に入っても、やはりもぬけの殻。ソファに触れても、皮の感触しか返ってこない。

「嘘だ……」

 もう一度ソファの上に手を置く。強く押し込んで返ってくる感触に、口を歪める。

「嘘だ……!」

 トイは表へ飛び出した。

 こうなることは解っていた。ルイレンは、自分自身以外をまるで見ていないのだと、知っていた。棄てられずとも、彼の方から離れていくと。だから、一人で生きていけるようになれと、彼は言っていた。

 しかし。

 裏切られたという思いは強い。あれほど行かないでくれと頼んだのに。生き方を知らないから棄てないでくれと言ったのに。

 ルイレンは居なくなった。僅かな前触れだけ残して、忽然と。

 街中を駆け回る途中、涙が込み上げてきた。零れる前に拭うも、きりがない。

「ルイレン……何処に居るんだよ……!」

 宛がないので走る道は闇雲だ。

 彼が何を探していたのか見当は付いている。シキという名の、自分と同じくらいの歳の男だ。探す理由は解らない。しかし、ルイレンが関心を持っているというだけで充分に不快だ。アキにその男を調べさせ、トイにそのことを隠し、何をするつもりなのだろう。

 恐らく、シキと接することがルイレンの最期の目的だ。それが果たされれば、彼はきっと死へと向かう。

 殺させない。

 シキ本人を前にそう言った。あの時に殺しておくべきだった。ルイレンが生きる目的を消し去ることになったとしても、誰かに奪われるよりは遙かにマシだ。

 パン

 乾いた破裂音が、遠くから聞こえた。街中の音に紛れ、もしかしたら聞き間違いということも考えられる。

 立ち止まり、耳を澄ます。

 逡巡。

 まばらに銃声が聞こえてきた。胸騒ぎが止まらない。

 感覚を頼りに方角を決め、トイは再び駆け出した。

 間に合ってくれ。裏路地に気を配りながら、ほぼ全力で走る。銃声が近づいてきている。およその場所の見当が付いたときに聞こえた発砲音を最後に、空が静かになった。

 最後の銃声が、ルイレンのものであって欲しい。祈るような思いで地面を蹴った。

 目元を拭う。路地を確認し、また走る。

 いくつめかの裏路地に、不自然な黒い塊が落ちていた。地面に広がる黒は、コートの裾だけではない。

「ルイレン!」

 呼びかけに反応はない。

 駆け寄ると、血溜まりの中に横向きで倒れているルイレンが居た。

 仰向けにして血で汚れた口に耳を近づけると、僅かに吐息が当たった。

 まだ生きている。

 頬に触れ、揺り動かす。

「ルイレン。目を開けてよ。ねえ……」

 腕と腹に傷がある。そのうち腹の傷は貫通していた。出血は夥しく、ほぼ致命傷だ。

 それでもどうにか言葉を交わしたくて、トイは身体に触れ続けた。

 何故ここに倒れているのがルイレンなのか。そんな疑問さえ湧いてくる。傷の様子から、優位に戦えていたようには思えない。どちらも至近距離。致命傷は背後からの物だ。応戦しなかったとは考えたくない。とするならば、相手はどれだけの能力を持っているのか計り知れない。

「トイ……?」

 黒い瞳が少しだけ覗いた。

「ルイレン! 誰がやった? シキって奴か?」

「それは、どうでもいいことだ……。それより……」

 言葉を遮り、大量の血がルイレンの口から溢れた。思わず手を伸ばすも、零れ落ちる彼の命を堰き止めることは出来ない。流出は留まることを知らず、トイは手のやり場をなくし力無くルイレンの身体の上に落とした。

「自由になれ。おまえは、もう……」

 血の泡が口に溜まっている。苦しそうに口を開け、息を吸う。

 その口元に、白いものが落ちてきた。

 雪だ。

 赤の上に落ち、白が染まる。

「死ぬなよ、ルイレン。俺はもう、次がないんだよ。あんたが居なくなったら、どうやって生きていけばいいんだよ。なあ……」

 雪と血の上に涙が落ちる。

「人形は、泣かないぞ……? トイ」

 そう言えば、ルイレンを捜しているときから泣いていた。そして、こんな風に泣くのは初めてだ。

 泣いている。

 まるで、人間のようだ。

「嫌だよ……。ルイレン。逝くなよ……」

 泣き止めないトイを見、ルイレンは口の端を僅かに上げた。指先が動いている。彼の手に手袋がないのを、今初めて見た。血で汚れてはっきりとは見えないが、その手には爛れたような傷痕が広がっている。

 本当は腕を上げたいのだろう。トイはその手を取った。ざらついた手の平を握り締め、自分の頬に当てた。既に凍り付いたように冷たくなっている。

「おまえはずっと……人間だ」

 やっと聞き取れた幽かな声。次はない。彼の声は、永遠に聞けない。

「嫌だぁ……」

 瞼を閉じ動かなくなったルイレンを、トイは力の限り抱き締めた。

「嫌だよう……」

 抱え上げることは出来ず、地面に倒れた彼の胸に顔を埋めた。

 鼓動は聞こえない。血の臭いだけがする。体温は感じない。

 死の実感が、徐々に身体の奥に染み込んでくる。それに比例して、感情の制御が利かなくなっていった。涙だけではなく嗚咽が止まらない。息をするのもままならないほど激しくしゃくり上げた。

 泣いて。噎び。泣いて、泣いて。

 誰かを亡くして辛かったことなど一度もない。亡くしたくないとすら思ったことがなかったのだ。どう泣けばいいのかも解らず、激しく声を絞った。

 辺りが白一色に染まり、独特の静けさが訪れる。その中で、悲痛な号泣だけが響く。

 声も涙も涸れきった頃、乾上がった心に残ったのは憎悪。それだけだった。

「殺してやる」

 ルイレンが与えてくれた感情が、悲鳴を上げて胸を裂こうとしている。

「殺してやる!」

 叫びあげたトイの声は、空を突くように広がった。

 もう人形はない。

 ここにあるのは、人間が一人だけ。


   *


「ん?」

 シュウは立ち止まり、後ろを振り返った。

 振り返った先には白い雪道に歩いてきた足跡が残っているだけで、人一人居ない。

「どうした?」

 シュウが立ち止まったのに気付いたコウが、少し遅れて振り返る。

「いや。何か、聞き覚えのある声がしたような気がして」

「空耳だろ?」

「……そうだな」

 コウに促されるまま、シュウは先を急いだ。

 ちょっと止まった間に、シキは既に走らないと追いつかない程前にいた。どちらともなく、彼に向かって走り出す。彼はまだ俯いて元気がない。

「続く時は、続くんだよね」

 シキが独り言のように言った。

 身に覚えがある。シュウはそれを聞いて溜息を吐いた。

 一方でコウは頭の後ろで手を組んで白い息を吐き出していた。シキの発言に対して無関心に見える。

「コウは経験無し?」

 シュウの問いに、コウは組んだ手を下ろすと憎たらしいまでの微笑を返してきた。

「あのさ。ただひたすらに残酷なコトってあるだろ? 俺、別にそれでもイイと思う。それは誰かの生きてる道じゃなくて、確かな自分の道に違いはないだろ? 『自分を生きられる道』の上にいろいろ転がってる分には、それもアリじゃないかなって思うんだ」

 シキは吸い寄せられるようにコウの顔を見ていた。そんなシキを見返して、コウはいつもの得意そうな笑顔を見せた。

「誰のモンでもない俺だけの人生なんだ。徹底的に不幸でも、退屈よりかはいいって」

 コウの場合、単なる慰めではなく本気でそう思っている。彼は人生の泥濘に足を取られることなく生きてきたのだろう。頭では解っていても、なかなか割り切れるものではない。

「思い詰めちゃ損ってコトだよ」

「敵わないな」

 シキは微苦笑しながら頭を振った。

 その微笑ましいまでのやりとりを見ながら、シュウは別の所が気になっていた。先程の〝空耳〟のことだ。

 ルイレンを殺したということは、トイの持ち手を殺したことでもある。それが気がかりでならなかった。主を失い、トイはどうするのだろう。ルイレンを殺した人物がシキだと知ったとき、最悪のシナリオが回り出す。

 トイとシキが対峙したとき、シュウとしてはどちらかを取らなくてはいけない。つまり、どちらかの敵に回ることになる。

 選ぶことなど出来るのか……? 二人のうちどちらかに銃を向け、引き金を引くことなど果たして出来るのか。

 今度は立ち止まらずに後ろを振り返った。相変わらず激しく降りしきる雪の中に、こちらを睨む影を見た気がした。

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