モンスターへ乾杯!

吉岡梅

モンスターへ乾杯!

 ドアを開けるとモンスターが立っていた。あまりに体が大きいので、縮こまって覗き込むようにしてこちらを見ている。


「はじめまして。隣の103号室に越してきました。これ、お蕎麦です」


 産まれて初めて引っ越し蕎麦をいただいた。そう伝えると、少し驚いているようだった。


「そうなんですか。『お側に来ました』という挨拶の意味をかけているのです。ああ、この『かける』は掛け蕎麦とは関係なくてですね、つまり……」


 私は笑って、中でお茶でもいかがですか、と誘った。モンスターは嬉しそうだったが、「向こう三軒両隣へのご挨拶がありますので」と、ぺこりとお辞儀をして去っていった。ちょっと古めかしくて、律儀なモンスターらしい。


 翌朝、モンスターを散歩に誘った。往復で30分ほどの道のりだと伝えると、「それならばご一緒しましょう。少々お待ちを」と、いったんドアをパタンと閉めた。


 朝日の当たる坂道を並んで歩く。少し肌寒くなってきたが、日の当たる場所は、まだじりじりと来る。私もモンスターも、キャップを被って首にタオルを巻いていた。モンスターも日焼けに気を付けているのかしらん? 尋ねてみようとしたが、なんとなく失礼な気がして止めた。


「この辺りは緑が多いですね。空気もきれいで良いところです」


 モンスターは、ズシン、ズシンと足音を立てながらきょろきょろしている。前はどんなところに住んでいたのか尋ねると、「海の向こうです。良いところでしたよ」とのことだった。


 水圧鉄管の脇の階段を下り、雑木林の間を抜ける。稲刈りを終えた田圃と、終えていない田圃のまだら模様を横目に見ながら川辺に着くと、モンスターが、すっ、と手を挙げた。


「久しぶりにこんなに歩いたので、少し疲れてしまいました。あとどれくらいなのでしょうか」


 この場所がちょうど半分で、あとは来た道とは違う道を登って帰るのだと伝えると、「あぁ」とため息をつく。


「そういえば、結構降ってきましたものね。帰るには登らなくてはいけないのは当然でした」


 山道ばかりでごめんね、と謝ると、モンスターは慌てて両手をぶんぶん振った。


「いえいえ、元々そういう場所なのですから。ただ、少し休憩してもいいですか」


 それならば、川を渡ったところにベンチがある。そこで休憩しようということになった。


 3メートル程の幅のある川には、木の橋がかけられている。手すりなどはない。丸太を2本渡し、その間に板を打ち付けただけの橋だ。私は慣れているので、すっと渡ったのだけれども、振り返ると、モンスターは体を横にして怖々といった様子で、じりじりと進んでいた。


「いやあ、落ちてもせいぜい膝までくらいだというのは分かっているのですが、どうにも怖くて」


 並んでベンチへ腰かけると。モンスターは肩から下げていた水筒を外して勧めてきた。


「冷たい麦茶です。ちょっと季節外れですけれど、よろしければ」


 ステンレス製の水筒は、蓋に取っ手が付いており、コップになるタイプの物だった。これかわいいね、と伝えると、モンスターは嬉しそうに大きな牙を見せてにっこり笑った。良く冷えた麦茶が喉を潤す。私たちは交互に2杯ずつ麦茶を飲んだ。


 目の前の川はきらきらと輝き、程よく冷えた心地よい風が吹いてくる。ふわっと、隣のモンスターの方から日向で寝転んでいる時の猫の匂いが流れてきた。ぱしゃん、と音がした方を振り替えると、ため池で魚が跳ねている。


「お魚ですね。あんなに一杯」


 きらきらと光る魚と水しぶきを見て、モンスターはごくりと喉を鳴らす。あのため池は、この川の水を引いている養鱒場ようそんじょうで、あかねますという魚を養殖しているのだ、そう伝えると、モンスターはしきりに頷いた。


「なるほど。きれいな水ですものね。やはり、流れゆくものは美しい。そうでなくては住めませんもの。魚も元気に育つのでしょうね」


 だが、田舎のため、猫やさぎなど横取りに来る動物も多い。そう伝えて、ため池の上を指さす。くぬぎの木の天辺には、1羽の大きな鷺が、こちらと目を合わせないようにして停まっていた。


「田舎は田舎で、せちがらいですね」


 モンスターが、ぐぉわぅ、と、ひと声吠えると、鷺はどこかへ飛んで行ってしまった。草むらからは、猫が何匹か飛び出していく。


 やっぱりモンスターもお魚を食べるの? と、尋ねると、モンスターはゆっくりと首を振った。


「いいえ。他のモンスターは良く知りませんが、少なくとも私は食べません。基本的に私達が食べるのは、悪意だけです」


 悪意を食べるんだ。私は驚いてそう伝える。


「はい。ひも付きの悪意は食べられませんが、ひもの付いていない悪意は食べられます。もっとも、食べ過ぎには注意しなくてはいけませんけど」


 モンスターは自分のおなかを、ぐにっと摘まんで肩を竦めた。そうね。食べ過ぎは良くないものね。私もお腹の肉を摘まんでみせると、モンスターは慌てて目を逸らせた。


「食べ過ぎると、すぐに膨れ上がって抑制が効かなくなってしまいますから。そうすると、手に負えないくらい暴れまわってしまうんです。なにせ、モンスターですので。そして、誰かを傷つけてしまいます。そうなると皆さんは、その傷ついた誰かを見て、また新たな悪意を振りまいてしまいます。面白おかしく、そして、おいしく」


 モンスターの毛むくじゃらの二の腕にそっと触れる。思ったよりもゴワゴワしていない。むしろ枇榔度ビロードのように滑らかでさらさらしていた。


「その振りまかれた悪意を食べて、またどんどん膨れ上がってしまうんです。モコモコのムキムキです。こうなったら厄介です。もう誰にも止められません。既に傷付いている人をさらに傷付けるだけでなく、止めようとする人までも傷つけてしまいます。かなしいことです」


 止めることはできないの、と尋ねると、モンスターは腕組みをして首を振った。


「できません。ひと一人の力ではとても。いえ、たくさんの人でも返り討ちです。そして飽きられるまで、堂々巡りしてしまうのです。本当に申し訳ないことです」


 モンスターがしゅんとしてしまったので、私は、仕方ないよ、と伝える。仕方ないよ、モンスターなのだから。


「ありがとうございます。それでも……、それでも、本当に仕方ないんでしょうか」


 モンスターがまだしょんぼりしているので、私は立ち上がってスウェットのお尻をパンパンと払った。モンスターも、はっと気づいて立ち上がる。それから私たちは、ゆっくりゆっくりと坂を登って、7時前には家に着いた。


「ありがとうございました。良い運動になりました」


 朝ごはんもおいしくなるよ、と伝えると、モンスターはまた牙を見せてにっこり笑った。また明日も誘っていいか、と尋ねると、小首を捻ってふくらはぎあたりを擦り、「筋肉痛でなければご一緒します」と笑った。そして、ぺこりとお辞儀をするとドアを開け、身を小さく屈めて部屋の中へと消えていった。


 部屋に戻ってシャワーを浴び、お化粧をして、納豆ご飯とわかめスープを食べて部屋を出た。ぼんやりとバスに揺られながらいつもの風景を眺めているうち、ふと、水筒を買う事を思いついた。


 モンスターというのは危険で、そして魅力的だ。安全なベンチに座りながら、飽きるまで眺めていたくなる。だから、できる事なら関わり合いたくはない。せめて、加担したくはない。気づかないふりをしていたい。


 でも、それではきっと足りないのだろう。隣に引っ越してきてしまったら、関わってしまったら、あふれ出してしまったら。


 そうなってしまったら、ぽろりと転がり出た悪意に紐をつけて、胸で焦がしてミルで挽こう。細かく細かくすり潰し、お湯を注いでコーヒーにしてしまうのだ。ゆっくり、慌てず、ゆっくりと、苦くて熱いそれを飲み干そう。


 それからモンスターと散歩に行こう。並んで一緒に歩いて行こう。明日は私も水筒を持っていくのだ。熱くて苦いコーヒーを淹れ。ベンチに座り、恥ずかしいけれども水筒の中身を見せあいっこして、飲みあいっこするのだ。お互いのコップをコツンとぶつけ、乾杯なんて言っておどけながら。


 モンスターは猫舌かもしれないけれど、そうだったら私だけが飲めばいい。飲みすぎて、私もモンスターになってしまわない程度に、ほどほどに。


 私にできることは少なくて、しかも、そんなには頑張れない。それでも、私は祈る。103号室のモンスターが、すぐにまた引っ越さなくても済みますように、きれいに川が流れますように、そして、私の生えかけの牙が、これ以上伸びませんように、と。


 あのお蕎麦、おいしかったな。どこで買ったのか聞いてみよう。ひょっとしたら、手打ちだったりして。そんな事を考えながら、バスに揺られて流れてゆく。

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