第7話 グレープフルーツな声

     1


 ちょうど轟音が通り過ぎて。基本的に何も聞こえない。

「はあ?なんやて?」

「し、ん、ぞ、う、てゆうのはですね」

 心臓を。

 神像と。

「勘違いした総裁の落ち度です。ですから気にされることはありません。あんなもので信仰が失われるわけじゃない。信仰対象は」

「興味ないな」

小張オワリエイスなんですけど」

 臓器シリーズ。彫刻家の遺作。

「最愛の娘に作品を遺しました。形見代わりに受け取ってほしかったのか、或いは罪滅ぼしとして、売ってカネに替えろとでも言いたかったんでしょうか。生憎と彼の作品は国内外問わず知名度が低すぎます。なにせ公の場で発表していないのですからね。作風も個性的すぎて一般受けはしないでしょうし。タイトルとなる臓器をイメージして作られているのか、その臓器を安置するもしくは陳列するためのものなのか、はたまた臓器そのものが原材料として」

「きしょいきしょい」

「おや?あなたのごシュミでないとするなら」

「聞こえへん聞こえへん」轟音。

 さらに轟音。おまけに轟音。

「場所変えてもらえませんか。僕と話す気が少しでもおありになるのなら」

「ないな」

 息が漏れる。「媚びませんね、只で差し上げた甲斐がまったくない」

 見返りを求められているのはわかっていた。

 だからこそ、踏み倒す。

「くれるゆうたんはそっちやさかいにな。俺は欲しなんひとっことも」

 轟音しか通らない。嫌いな場所ではない。

 都合の悪いことは聞こえなかった。で済まされる。

「はあ?聞こえへんわ」

「コレクションですが、いくつお揃いなのかなあと思いまして」

「お前にゆわなあかんか?」

「もしかしたら引き続きお力になれるかもですけど」更なる見返りを期待しているのが見え見えだった。「実はですね、小張エイスですけど僕の」

 轟音。とともに、巨大な影が。

 ケイちゃんだった。

「なんじょうここ、て意味ないな」

 なんとなく。

「なんとなく」ほら。

「どうされたんですか? 急にお声が遠く」

「ほんならね。ばいばい」切る。即、着信拒否に設定。

「ご無事で」ケイちゃんが頭を下げる。

「ちーとも助けに来ぃひんさかいに。死ぬかと思うたわ」

 爆破やら爆破やらで。拉致監禁もあったし。拘束と緊縛と。

 散々な眼に遭った。

「どないしたん?我慢したか」

「遠慮しました」

「そか」滑走路を見下ろす。

 どれに乗ったのだろう。どれでもいい。

 海路かもしれない。空路はいろいろ厳しいから。海の向こうへ運び出してないという可能性だって。ふらりと寄った際ににたにた観ていくだけとか。

「本当に、ご無事で」ケイちゃんが言う。

「ただいま」

「俺に、言わないほうが」

「なんで?」

 ケイちゃんの見遣った先に。

 見事な仏頂面の社長サンが。なんてこったい。

「よけーなもん。一発出国アウトやわ」

「俺は手足でいいすから。将来、もし必要ならどこでも駆けつけますから」

 必要にならなければいいが。

 どうだろう。あのシュミの悪い蒐集ブツがぜんぶ揃わないことには。

 未来も将来もあったこっちゃない。

 ケイちゃんが、社長サンと入れ違いで。帰るのだろうか。

 ここへ、連れてきただけ。

 それだけのためにここへ。手足という抜け穴を見つけてそれだけ言うために。

 なにも、ライバルの前で宣言することはない。

 これだから。

「せやね。むちゃくちゃこき使ってやるさかいにな。覚悟しい」

「お願いします」

 ケイちゃんが見えなくなるまで社長サンは睨みつけてた。「おかしいんじゃないか?」

「そらお前やな」

 轟音。見上げる。

 聞こえない。

 なにも。聞きたくない。

 あれを。

「ツネ」

「聞こえへんよ。なあんも」

 轟音。

 空耳。

「聞け。言ったろう。話が」

「死亡フラグ・クラッシャて呼んで欲しいん?社長サン」

「なるからな。絶対に」

「もうなっとるやん」

「違う」社長に。

 なるのだという。どこぞの家出少年のために。カネづる。

「そん暁には、もぶっ壊すん?」

「投資だ」

「脳足りん、のな」ポケットが震える。邪魔してくれたのはありがたいが。

 非通知。

 出たくはないがせっかく邪魔してくれたので。「はあ?なんやて?」

「僕が死んだんじゃなかったかってゆうツッコミが欲しかったんですけど」

「おい、誰だ」社長サンが切れといわんばかりに不機嫌絶頂なオーラを。

「替え玉やわ」


      2


 替え玉?

「わかっていますわ。もとえさんの仰りたいこと」浅樋アサヒうすほが胸に手を当てる。にっこりと微笑んで。「わたくしが死んだと。いいえ、いままさに死ぬか生きるかの瀬戸際で」

 赤いランプの向こう側に。

 いるのは誰なのだ。浅樋うすほじゃないのか?

「何も起こってませんでしょう?何も。もとえさんが困るようなことは」足もあるし。右手だって。

 右手?

「ガルツも生きています。何事もなかったのです。わたくし言いましたわ。起こしません、と。なんにも」

 うすほ「なの?あんた、だって」社長が一歩二歩三歩後退する。

 背中が壁に衝突。それ以上は下がれない。それでも下がりたい気持ちでいっぱいのようだった。

 同感だ。下がれるのならどこまでも下がって。離れたい。

 瞬きしてその光景を掻き消したい。

 首を振ってその情景を否定したい。

 確かに浅樋うすほは。こめかみに銃口を当てて。

 ぱあん、と。

 散らした。赤を。黒を。

 赤いランプの向こうに運ばれて。止まったはずの赤が再び流れ出して。

 もう一度運ばれて。運ばれたのだという。社長が言うには。

 では、一体誰なのだ。

「さねあつさん。本当にあの答えでよろしいのね?」浅樋うすほの右手は。

 後ろで組んでいてわからない。

 持っているのだとしたら。凶器。迂闊に。

 そんなことより右手が?その腕の先に付いているのだろうか。

 胸に当ててるのは左手だし。

「知らないからそのようなことが言えるの。まさむら如きに、もとえさんがどうにかできるとでも思っていて?」

「やめなさい。うすほ。やめて」社長が言うが。怒鳴るとは程遠い。弱々しい。

 なにをそんなに遠慮。

 いまさら病院の廊下だからとか、そうゆうことを意識したとはとても。

「まだ言えませんのね?もとえさん。無理もありませんわ」浅樋うすほが着実に距離を詰める。

 社長は下がれない。横にずれても意味がない。壁が途切れない限りは。

 途切れる見込みはない。

 どこまで行こうが。壁は、廊下は。

 左手が、社長の。

「怯えないで。せっかくの美しいもとえさんが」頬を這う。

 指と。

 どうして振り払わない?

「大丈夫。何も起こりません。起こしません。わたくしが」

 さねあつさんの、

 ウミのオヤだとしてもソダテのオヤは

「もとえさんですもの。もとえさんの子ですわ。正真正銘の」

 キソモトエの

「たったひとりの」

「違う」

「浅樋ゆふすだは死にました。わたくしが殺しました。終わりましたのよ、すべて」

「ちがう」社長は首も振れない。

 触れない。

 どうゆうことだ?「そうゆうことだったんですか」

 触れないわけだ。

「まさむらに、さねあつさんの父親は務まりませんのよ」

「シロウは」口が勝手に。「シロウはまさむらの」

 なんだろう?

「親子でなければなんですの? ご本人?」

 赤いランプが消えて。

 執刀医が現れる。

 社長と浅樋うすほを見比べて。俺なんか最初から除外だが。「ご家族の方は」

「死んだのでしょう?」浅樋うすほが一歩前に。自分がご家族といわんばかりに。

 家族?本人だろ。

「手は尽くしたのですが」

「先生のせいではございませんのよ。お疲れ様でしたわね」

 どうして気づかない?

 本人じゃないか。さっきまでお前が切って繋いで貼ってたのは。

 そこにいる。

 手術中に顔なんか見ないか。塞ぐべき穴だけ。傷だけ。

 がらがらと。運び出される。どこぞへ。

 社長がふらつきながらも。「止まりなさい。退いて」掛かっている布を。

 浅樋うすほだった。

 蒼白い。まるで死体。

「どうゆうことよ」社長がスタッフにつかみかかる。「なんで。あんたたち」

「落ち着いてください」執刀医が引き剥がしにかかる。傍から見れば、手術の残念な結果を認められなくて。スタッフにやり場のない怒りをぶつけるご家族にしか。

 違うのだ。社長が異を唱えている内容は。患者が死んだことではなくて。

 そこで微笑んでいる浅樋うすほが。

 どうゆう理屈でそこで死体になっているのか。

「すみませんが」多勢に無勢。スタッフは次にすべき業務を優先する。

 浅樋うすほの死体がどこぞへ運ばれていった。

 社長が化け物でも見るような顔で。「人殺し」

「そうですわ。ようやく認めてくれましたのね。うれしいわ」浅樋うすほがこれ以上ないというくらい満足げに微笑む。聖母と魔女を同時に体現して。「死に損ねるのだもの。二度手間でしたわ。まさむらだって」手間をかけさせて。

 二度も。

 まさむら?まさか。

 社長と眼を合わせている時間が惜しい。間に合わない。走ってはならない。

 わかっている。わかってはいるが。

「サネ」かけゆきだった。呼び止められた事情はその表情から一目瞭然で。

 まさむらは病室にはいなかった。

 シロウもいない。かねいらも。

 誰もいない。

 だから、入るな。と、かけゆきが首を振る。

「死んだのか」自分でも平常に口に出していた。浅樋うすほと同様。

 同じだ。

 浅樋うすほと同じ。俺は。

「絶対安静だった。絶対安静の人が絶対安静にしなかったらどうなるか。そのくらいのこと、まさむらさんにわかんないわけ」そこまで言って、かけゆきは。

 見遣った先に。

 社長がいた。俺を追い駆けてきたのか。浅樋うすほに連れられるがままだったのか。

 どちらにせよ、社長は。「ホントなの?」聞いていた。

 かけゆきは何も言わない。

「起こってるじゃない」社長が浅樋うすほに。「誰よ、なんにも起こさないとか」

「いませんでしたのよ。そのような方は。浅樋まさむらも。伊舞かねいらも。シロウと呼ばれる方も。そもそもいなかった方がどうなろうと」

「確かにね、あたしはまさむらが嫌いよ。シロウもかねいらも。あんな奴ら大嫌い。見るのも厭だった。でもね」社長が俺を見る。見てから、改めて浅樋うすほを。「あんたがしたことは人殺し以外のなにものでもないわ。あたしのため?冗談じゃないわ。頼んでないのそんなこと。あたしは、浅樋の奴らより、もっとずっと」あんたが「大嫌い」

「それは、心外ですわね。もとえさん」

「呼ばないで。人殺し」さねあつは、

 あんたの子なんかじゃない。

「あたしの子よ」

「それでいいの。わたくしは、それを聞きたかった。もとえさんの口から」それが聞けたのなら。わたくしは。「浅樋家を根絶やしにした甲斐があったというものですわ」

「まだよ。わかってる?残ってるの」あんたが。「あんたが死んでない」

「ガルツと再婚なさるの?」

「余計なお世話よ。関係ないでしょ」あんたが「死んだあとのことなんて」

 浅樋うすほが微笑む。

 どちらかというと、天女の。天女なんか見たこともないが。

「死んでくれるんでしょ?あたしが言えば」

「さねあつさん」て、俺か。

 急に会話に参加させないでほしい。社長の視線が俺を殺しそうだ。

「素敵なお母様で羨ましいわ。本当のお父様と、仲良く」

 そこまでだった。

 浅樋うすほの声は。消える。

 消したのは、

 誰だ。シロウ?かねいら?

 一言喋ってくれれば見分けがつくのに。まさむらかどうかも。

 まさむら。

 生きてるじゃないか。

「シロウさん!」かけゆきが叫ぶ。そうか。かけゆきには、

 シロウに見えた。まさむらがまさか。そんなことをするとは思っていない。

「まさむら」社長が言う。やはり、社長にはそう見えるらしい。

 浅樋うすほを殺すのは。

「まさむら、なの?」

「サネの」父親です。その男はそう言った。


      3


「双子が出てきて真っ先注意せなあかんのは、入れ替わりトリックやわ」

 社長サンは心底どうでもよさそうだった。心底どうでもよさそうな話題をわざわざ振ってやっているというのに。思慮の足りない奴め。

「ずうぇったい交換しとるさかいにな。こらもう定石と」

「静かにしないと口塞ぐ」

「よーゆわんわ。そげな甲斐性どっこに」本当に、

 口を塞いできた。

 社長サンごときに隙を突かれたのが悔しいので。

 呼吸困難に陥れる。

 社長サンは自分から口を外して咳き込む。涙と涎と。

「お前」

「調子のええことで」口直しに茶をすする。苦くて旨い。

 苦くなきゃ茶じゃない、と文句を言ったのが効いた。空いた皿を我先に持ち出そうとするスタッフがちらちらと。湯呑みが空かないよう見張っている。

 見張っていたのだ。

 見られた。絶対見られた。

 俺はどうということはないが。どう思われようが。されたほうだし。問題は、

 したほう。

 さりげなくバラしてどうする。いいのか、KREの未来がその両肩にのっかっている社長サンは。「しまった」

「手遅れやわ」

 通りがかりの客も。もの珍しいのか物見遊山なのか。足を止めてこちらを見ていく。幸せそうな花嫁の姿を見て自分も幸せに浸りたいだけなのかもしれない。

「視線が痛い」

「誰もおまなん見てへんて」

「勘違いされてないだろうか」

「いちいちちっさいな」

 なんだって現社長は、こんな見世物みたいな。多くの人に祝福されたい。違う。関係者以外誰もいない場所では気恥ずかしかったのだ。という。その息子の分析によるなら。ホテルでもチャペルでも駄目なのだ。

 テーマパークというにはお堅い。博物館というには参加型の。

 茶を飲むのにも飽きて。「ちょお」

「どこ行く」目敏い社長サンが付いてこようとする。

「トイレやトイレ」

 嘘だと見抜いている。「勝手に帰るんじゃないだろうな」俺を差し置いて帰るな。真っ先に帰りたい自分がこんなにも我慢して耐えているというのに。ずるい。

 そう顔に書いてある。

「ほんなら一緒にフけよか」

「だから勘違いされると」

「勘違いはおまやずアホお」誰がおまなんかと一緒に老けるか。

 現社長のついでに自分も式を挙げようとしてないか。このおめでたい社長サンは。すでに社長になった気でいるのだろう。

 本当に大丈夫かKREは。

「一生投資する」顔はしごく真剣だが。

 あー、わかった。日頃無意味なくらい無口な社長サンがやけに冗長な理由。

 一つしか見当たらない。

 グラスを間違えたのだ。「ちょお」外に連れ出してやろう。これ以上口を滑らせたら、ふと正気に戻った瞬間に足を滑らせかねない。

 死因は、後悔と自責。浮かばれない。

 風がきもちい。

 観てくれといわんばかりのメインバルコニから離れて裏側に回る。眼下に誰もいない。砂利と生垣があるくらい。

 手すりは老朽が心配されたので。「危ないえ」一応注意を促したが。

 聞こえてるのかいないのか。

 駄目かもしれない。

「社長サン?」

「どうすればいい」項垂れる。背と肘は手すりに。

「素面なん?」

 騙された。図られた。二人っきりになるために。

 やってくれるやないの。

 自分が率先してあの場から離れることに関して引け目があったのだ。立ち去りたい。あくまで自然に立ち去るためには。誰かに強引に連れ去れられる必要がある。口を塞いだ理由もこれのためだったとしたら。

 いつの間にそんなしたたかに。

「シロウは死んだのか」

「さあな」その場にいなかったし興味もないし。

「まさむらは?かねいらは?よくもこんな」

 復讐。

 現社長は幸せそうだった。幸せそうに振舞っているのかもしれない。幸せだと思い込むしかないと思って、それを強く思い込むために。きっと式を強行したのだ。

「浅樋うすほだって」

 マチハ様にそっくりだとかいう。

 まったくの別人。娘?誰との。

 それはこの場では言わないほうがいい。新郎のお友だちだと、紹介される中に女性がいてはいけないという暗黙の示し合わせみたいに。

「俺の」

「似てへんやん」

「だが」社長サンが顔を上げる。泣いてたら面白かったのだが。

 まさか本当に泣いてなくてもよかった。

 眼を逸らす。

 なるたけ不自然に。「似てへんよ。ちーとも」

「似てるとか似てないとかゆう問題じゃ」

「社長サンは社長になるんやろ?せやったら、現社長の息子のほうが都合ええのと」

 本気で言ってるとは思ってないだろう。

 社長サンがどこまで本気なのかわからないのと同様に。

「カネあらへんとさいならやね。わーってはる思うさかいに」

 ほかにもっといい寄生対象が見つかるまでの飛び石でしかない。お前なんぞ。

 見限るべき時期か。さて、

 どう出る?次期社長サン。

「いくらだ」

「なんぼでも」

「違う。お前を」

 手に入れる?手元に置く?

「雇うには」てっきり鼻水を拭くティッシュやらを取り出すのかと思いきや。涙を拭うハンカチでもなかった。

「なんやのこれ」けーやくしょ。「は?おま」

 このタイミングで。

 雇用契約結ばせるか?揮発性の液体で脳がやられてないか。

「安心しろ。終身雇用だ。いまどきなかなかないぞ」

「知らんわ」ぐしゃぐしゃに丸めて放り投げる。

 砂利にも生垣にもぶつからなかった。

 受け取った人間がいる。

 人間だろう。生きていれば。その形をしているのは。

 マチハ様?

 いや、そっちは死んだとかで。だとするなら。

「仲良しさんですのね」その髪の長い女は、喪服を着ていた。首元の真珠が鈍く光る。

 浅樋うすほ?これが?

 社長サンが手すりから身を乗り出す。眼を見開いて。本当の本当に本人かどうか見極めようとしている。

 訊けば早いのに。眼の前にいるのだから。

「危ないですわよ。わたくしでは受け止められませんわ」

 なんでこっちを見る。

「関係あらへんよ」

「ハレの日ですもの。笑ったほうがよろしくてよ」そう言うと、浅樋うすほと思しき女はくるりと向きを変えて。

「待ってください。待って」社長サンが必死で呼び止めるも。

 足は止まらない。

 行ってしまう。生垣の蔭に。

「さねあつ?どこ?」現社長が呼んでいる。

「どないするん?かーちゃんの結婚式フけて未成年とランデヴなん知られたら」

「再婚式だ。そんなに構えるもんでもない」

 ここで手でも摑んで逃げでもしたら。一緒に敷地内を駆け回ってやらないでもなかったが。浅樋うすほ?を捜すという名目だってある。

 それでも社長サンは。

 チャンスをみすみす揉み消す性分だから。さすがはフラグ・クラッシャ。

「ちょっと、どこ行ってたのよ」現社長に見つかった。「ヨシツネ君も。とにかく、これ見て。ついさっき、届いてたらしくて」

 ぐしゃぐしゃに丸まった契約書。しわを伸ばして三つ折にした形跡が。

 そこに、

 サインがしてあった。

「まったく、信じらんない。こうゆう陰険ないたずらする奴の」

 社長サンと顔を見合わせて。

 笑うしかない。

 笑え、と。浅樋うすほ?も言っていた。

 むしろ笑わせるためにこれを仕掛けて行ったのではないだろうか。

 しかし、手早いな。ものの5分で。

「誰よ。帰ったら全社員に聴取よ」現社長は怒っているというよりは。「さねあつも。手伝いなさい。絶対に吊るし上げてクビにしてやるんだから。クビよクビ」

 怒ってはいない。少なくとも、なにも。

 怒らなかった。

 起こらない。

「あたしはね、契約とか以前にKREの」社長なの。「ばっかじゃない。やっかみ?あたしの名前なんか書きやがって」


      4


 え、「あたしも書くわけ?」

「だって寝言くらいの価値しかないんでしょう?」

 確かに。お父さんが社長とはいえ、あたしが社長になれるとは限らない。

 姉もいる。

 姉が継ぐのが通常だ。あたしは妹なんだから。

「でも」あたしは、社長なわけだから。「これじゃなくて」

 これは社員の。

「社長だって社員じゃない?」

 いちいち正論を突いてくる。その通りなのだ。その通りだから言い返したくなる。

「いいの。あたしは。あんたが書くの。いい?破ったら承知しないんだからね」

 先行投資。

 偉そうな四字熟語を並べてみたけれど。

「絶対あたしの役に立ってもらうんだから。死ぬまで働いてもらうわよ」

「死んでも」ユウコウ「にならないかしら」

 有効?

 友好?

「ぜんぶあげたいわ」

「バカ言ってないでさっさと」

「ねえ、やっぱり書いたほうがいいと思うの。初詣と一緒よ」

 決意表明。

 尤もらしい四字熟語を掲げられてしまう。

「あとに引けなくなるじゃない?」

 引くも何も。あたしはね、

「なるったらなるの。なるんだから。絶対」

 そしたら、

「あんたを雇ってあげる。一番に。誰より先に。だから」

 これは、

「預かっておくわね」

 そうか。名字が違ったから。

 ゆうこう

 じゃなくなったのだ。オワリ。

 小張。

 うすほの旧姓。

「そう?もとえさんが書かないのなら、わたくしが」代わりに。

 書いたのだろう。

 遅いのよ。なにもかも。

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心臓代名詞神像 伏潮朱遺 @fushiwo41

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