スーのろっこつ

 エリは薬草を十分摘んだので、小さな鎌を腰にさげて帰ることにした。

「スー。おしまいよ」

 はう、とかすれて吠え、犬は立ち上がった。


 少女エリと老犬スーは、渓流をのぼっていく。尖った木々の合間から、山小屋が現れた。小屋は巨鳥の足で立っていた。山の魔女が住んでいる印だ。エリにとっては、帰る家でもあった。

 下まで来ると、小屋がかがんでエリを招いた。


 エリはおやつを取ってきて、スーに差し出す。

「今日もお守りありがとう。はい」

 スーは、手に溜められた小粒の果物を、がふがふと食べた。

 薬草採りの番をしてもらったら、お礼をする取り決めになっている。でも、近頃は逆に、スーのお守りをしてあげているよう。エリは少しそう感じていた。



 エリは戸を閉めて言う。

「今戻りました。お師様」

 鷲鼻の女が頷いた。

「ご苦労さん」


 魔女の仕事場で、エリは店を広げた。集めた葉や木の実、苔、小魚。うさぎにもぐらに、仕掛けに落ちた数匹の虫。エリはいちいち、どうやって持ち帰れたかも語った。魔女はふんふんと相槌を打つ。同時にそれら材料を仕分け、混じり物はよけ、なま物は加工して、のれんの奥に持っていった。未熟なエリは、奥の間に立ち入らせてもらえない。



///


 午後。つぎあての多いぬいぐるみを、エリは投げた。

「取って、スー」

 言われたスーは、恨みがましく眉を寄せる。

 エリは仕方なく自分で取って、次はもっと近くに投げた。

「ね、スー、取って」

 エリはゆさぶったが、スーは草の上に首を伏せてしまった。

「……取ってきてよ!」エリは怒った。もう何ヶ月も、走るスーを見ていない。せっかく縫ったぬいぐるみにも、一度も牙が入っていなかった。


 エリとスーは、同じ季節に生まれたのだという。以前、この遊びをやりたがるのは、スーの方だった。エリは付き合わされ、いつもへとへとになった。しかしまた、毒物や野獣や崖から、幼いエリを守ってくれていたのも、スーだった。その力強さを追い駆けて、やっと追いついた今、スーは弱っている。

 これから二人は、どうなるのだろう?山が冬を迎えたとしても、春にはまた活気を取り戻す。でも、魔女が葉をむしりすぎたら、藪は枯れてしまう。スーの体に欠かせないものを、自分が取ってしまったんだろうか?エリは不安だ。ずっと姉代わりだったスーの変化を、どう捉えていいか、わからなかった。



 結局暗くなって、エリはスーとともに家に上がった。エリの師匠は外の闇を見つめる。エリは戸を閉めづらい。

「お師様には、何が見えるんですか」と、エリは師匠にたずねた。

「山狩りが入り込んどるね」

 エリは自分も外を見た。完全な夜で、どこにも光は見当たらない。


 沈黙が流れた。スーがか細く鳴く。

「まだ、ふもとのふもとだ。迷って引き返してくれるだろうて」

 魔女はそう言うと、夕食のポトフを掻きに戻っていった。その晩、エリが心配事を忘れて眠るまでに、同じ話題は出なかった。



 エリは起きて口を湿し、髪をとき、朝食がずいぶん早く出来上がっているなと思い、師匠が出かける支度をしていることに気が付いた。魔女が戸を開けたので、朝の空気が吹き込んだ。エリの頭はみるみるうちに覚めた。


「悪いね、エリ。二、三日、留守番ができるかね。薬草採りは無し。遠出も、今はおよし。薪は足りるだろ。煮炊きも、一通り教えたね」

「できます。……でも、三日ですか。なんの三日ですか」エリは師匠の真意を確かめたかった。

「心配してくれるのかい。なに、いい子で待ってれば、すぐさ」

 魔女ははぐらかしたまま、うすの乗り物に乗り、飛び降りた。扉はひとりでに閉じた。家にはもう一度、暖炉の熱が広がっていく。エリは師匠の腕前を固く信じていたが、何かさみしくなり、スーの毛並みを撫でた。

 スーは深い寝息を立てていた。



///


 昼にはエリは、かちかちになったパンを、いものポタージュに浸して食べた。この昼は元々エリが食事当番だったが、点数をつける師匠が不在なので、かなり手を抜いた。暖炉に当たってまどろむスーのためには、刺激を減らした料理を。


 少し経った。エリは熱中していた本にしおりを入れて、暖炉を見た。スーはさっきから、暖かい場所を動いていない。体の向きだけが変わっていた。皿はほとんど手つかずだ。その様がものぐさすぎて、エリは吹き出した。エリは台所に行き、貴重な生肉を切って戻ってきた。


 エリはスーに肉を嗅がせた。湿った鼻がぴくりと動く。それでも、スーは寝続けた。

「起きて、スー。ほらあ。これって、ごちそうよ」

 エリは、スーのまぶたの皮を持ち上げようとした。スーは力なく拒んだ。


(どんどん小食になってる)

 エリはため息をこぼし、諦めた。


 夕方にエリは、テーブルかけや花を取り替える。スーの居場所をもう一度見ると、生肉は減っていた。エリは少しほっとした。



///


 星の見えない夜だった。上空にはごうごうと吹雪が駆け抜け、近くで雷が炸裂した。山々は荒々しく歌っていて、冬の盛りが一足先に訪れたような様子だ。

 エリは、師匠が理由をつけて遠出をすると、決まって山の天気が荒れるのを、もう知っていた。この天気は味方だ、そう自分に言い聞かせる。だが、不意に降る雷にはどうしても慣れず、寝付けなかった。


 エリはベッドを這い出した。幼い頃していたように、スーにひっついて寝た。スーのおなかの音が、エリのものと混じり合う。それは雷鳴よりもそばにあり、温かい。スーはエリがすることを、この時は嫌がらなかった。エリは安心した。



 エリは起きた。何か悲しい夢を見せられたと思った。恐らく、冷たいものを枕にしていたのが原因だった。それはスーだった。

「スー?」

 エリはスーを揺さぶった。反応がない。エリは、静けさが恐ろしくなってくる。


「スー。起きてよ」

 エリは戸惑った。スーの肌は土のようで、手触りは、仕留めて持ち帰ったうさぎに近かった。これまでエリは、スーや自分たちと、屋外に暮らす生物とを、ぼんやりと分けて考えていた。違った出来事に出会い、別な日々を送るのだと。今、スーがうさぎのように黙っていること自体が、エリには全く思いもよらないことだった。しかしエリにも、直感的に理解できることはあった。起きてほしくない、何かが起きていることだけは。


 とにかく、手当ては自分一人でしなければいけない。エリは教わった知恵を頭の中で引っくり返して、この珍しい病気の対処を考えた。本棚の上の方にある本を落として、手がかりがないかと、矢継ぎ早にめくった。


 一番近い病名は『死』と言った。それでも、治し方までは書かれていない。時間だけが過ぎていき、一向にスーは回復しない。それほどに難しい病気なのだ。


 エリは呼吸の浅い自分に気付く。

「どうしよう……どうしよう……あ……」

 エリはまだ調べていない場所に思い当たる。師匠には禁じられている部屋。奥の間にある本には、答えが見つかるかもしれない。うまい言い訳を考える前に、エリはのれんの奥の暗がりへ、明かりを持ち込んだ。



///


 ちょうど一日後。横たわるスーの前に、エリは戻ってきていた。黒い表紙の本を床に開いて、文字をなぞる。エリは自分の息にバンダナでふたをして、新品のナイフを火であぶる。横には針と糸、のこぎりなどを、同じように用意してある。

(ごめんね。新しい体を用意するには、これしかないの)

 エリは、ナイフをスーのおなかに押し当てた。スーのろっ骨を取り出し、傷を焼いて縫う。


 外はまた雷雨になり始め、昼でも暗い。風が、不気味に家をきしませる。


 次にエリは、骨を別の山に合流させた。スーのろっ骨と、ワインのひと瓶、それと抱えるほど大きなパン生地が、一つ所に集まる。


 エリはその前で両手を上げ、長いおまじないを唱え始めた。

「いふたふ・や・あじゃらかもくれん・そわか……」

 すると、儀式を囲む巨大なリースから、光の蚊帳が立ち上がった。それは儀式が続いている間、中を清潔にしておく結界だ。事実、性悪な霊が新しい体を欲しがって、結界の表面に群がった。エリは本物を目の当たりにして、少しびくついた。


 気を取り直し、エリは両手で宙をこねる。

(元気になって。スー。また、ぬいぐるみを取り合えるくらいに)

 エリが強く念じるにつれ、三つの材料も、一つにこね合わされていく。生き物の形に整えたそれを、エリは木べらに乗せ、窯に押し込んだ。


 仕上げにエリは、『死』を退治する言葉で締めくくった。

「……かーばら・かばら、かしこみかしこみ、ちちんぷいぷいの・ぷい!」



 窯の火の勢いが、どこまでも強まる。スーの古い体が白く燃え、煙突の穴を抜けて出て行った。その時、新たなスーの体も、焼き上がった。エリは汗を垂らして、窯から木べらを引き出した。


 木べらの上に、スーは丸くなって眠っている。エリが呼びかけると、スーはすっくと立ち上がり、エリの望み通りに歩いて見せた。エリが言えば、ご飯も食べたし、走ったり、吠えたりもできた。

 新しいスーは、以前が嘘のように元気だった。新しいスーはほかほかと温かかった。エリにはその肉体が、ぴかぴかと輝いて見えた。治療は、全てうまく行った。儀式をやり遂げたこと、そしてそのできばえに、エリは大満足だった。



///


 魔女の出発から四日目になって、玄関の鈴が鳴った。魔女が帰ってきたのだ。エリは師匠に抱きつきに行く。だが、師匠の服のあちこちが黒ずんでいるのに気付き、凍りつく。

「お、お師様。けがを」

「あん?……やだね。これは相手さんのだよ。あのわからず屋の坊主どもめ。命があって帰してやっただけ、贅沢なものさ」

 魔女は皮の上着を脱いだ。それから冷気と泡を放って、さっさとシミを消し去ってしまった。エリは、やはり師匠の方がうわてだった、と思った。話だけで聞く『魔女狩り』たちからすれば、まるで山を怒らせたようなものだっただろう。


 エリの師匠は人心地ついて、エリをじっと眺めた。

「で。下のスーには、何があったんだい」

「スーは……病気になって。魔法で治しました」

 なぜかエリには、師匠の瞳を見つめ返すことができない。家の外のスーを見る。

「奥の間に入ったろ」

 魔女の声には、穏やかな圧があった。


「いえ……はい」

 エリは白状した。隠しようもなくなっていた。

「でも、スーが。本当に仕方なかったんです」


 魔女はエリの周囲に、何かをとんとんと振った。きらめく煤のようなものを。エリは咳をこらえきれない。

「今日一日は、鹿の日だ」

 そう告げられる。途端にエリは、腕を床に下ろした。自分からそうしたくなったのだ。首も前に突き出して、師匠のことは、見上げるしかなくなった。


「ピョーイ!(何をしたんですか!お師様!)」次にエリは、自分の上げた声に驚いた。

「エリ。あんたはものわかりのいい子だから、初めてだけどね。これはおしおきだよ」


「ピョーイ!(スーの病気を、私だけで治したんですよ!)」

 エリは師匠に訴えようと、跳ねた。前足の左右と、後ろ足の左右を、揃えて跳ねた。するとアイゼンを履いている訳でもないのに、床がゴンゴンと鳴った。

「出な。明日になるまで戻してあげないよ」

 魔女は言って、扉を大きく開けた。


「ピョーイ!」

 エリは外に出たくないのに、跳ね回っている内に飛び出してしまった。走りたくないのに、雪まじりの野原を走っていると、他にしたいことが思い出せなくなってしまった。



///


 牝鹿はおなかが減ってきた。また草を噛み切ってすり潰そうとしたが、あまり固いのであごを痛めた。歩きにくいぞと思って、足元を見ると、ほっそりとした指が並んでいた。エリは、地べたに手を付いている自分が、猛烈に恥ずかしくなってきた。

 エリは森の中で、人間に戻った。翌日になっていた。



 エリは水浴びをして、師匠がなぜ怒っているのか悩み始めた。隠れて儀式をしたから?材料を勝手に減らしたから?どれも外れている気がした。もやもやとした気持ちで家の近くまで来てしまうと、スーが駆け寄ってきた。エリには彼女が、回復したように見える。


 上の窓にいた魔女が、エリを呼んだ。

「エリ!やってみな」

 エリは、投げ渡されたぬいぐるみを受け取る。そうだ。健康になったスーとは、またこの遊びができるはずだ。


「取ってえ!スー!」

 エリは青い草原の真ん中を目がけ、ぬいぐるみを勢いよく投げた。その横を抜けて、スーが走り出している。

 スーはすぐにぬいぐるみを捕まえた。エリは、ちくりとした違和感を覚えた。


 エリはもう一度ぬいぐるみを投げた。違和感の正体が掴めてきた。エリがなんとなく狙った場所よりも、ずっと手前で、スーはぬいぐるみを拾ってしまう。エリは納得いかずに、試し続けた。



 やがて、エリの理解が及んだ。まず、新しいスーは身軽すぎた。そして、エリが望んでいる距離感も、新しいスーには伝わらない。新しいスーは全く同じ速さ、全く同じ動き、全く同じ遠さで、正確にぬいぐるみをくわえ、戻ってきては、置いた。羽虫に気を取られず、ごほうびをねだったりもしない。行きたい方へエリを呼びつけたり、舌を出してはしゃぎ回ったり、くたびれて渋ったりも、一切ない。エリがそう頼まない限り、一切の変化なく、同じ所に戻ってくるのだった。これから何十回と季節が巡り、それを何十回も、またそれも何十回も繰り返したとしても、きっと、スーはこのままなのだろう。儀式の成果だ。

 自分のしたことがわかると、エリの頬を涙が伝っていた。スーは元通りになどなっていない。それどころか、もう戻らないどこかへと、自身の手で追いやってしまった。


 エリはぬいぐるみを投げ捨てた。満足に力がこもらなかった。新しいスーはぬいぐるみをたやすく拾うと、一度わざわざ遠くへと持ち去って、持ち帰った。ただただ、言いつかった仕事をなぞるようだった。


 エリはうずくまった。エリの師匠の気配が、そばに来るのを感じた。

「お師様。スーは今どこにいるの」エリは自分の濡れた腕を見たまま訊いた。

「死んださ」魔女の声が答え、背中をさする体温があった。

「死んで、どこへ行ったの。うさぎたちは?」エリの唇はわなわなと震え、そこに紡がれる言葉も同じだった。

「エリや。死んじまったら、もう後なんてないんだ。そいつを引き止めるのは、どれほど賢い魔女になったって、できっこないこと。この私でさえ、あんたと同じさ。そういう強い流れが、この世の中には確かにあるんだよ。ずいぶんな話だけどね」


「お師様」

 エリは色々と考えた。知りたいことと、言い訳したいことが、沢山浮かんだ。何もかもうまくまとまらず、わかりきったことしか言えなかった。


「エリが悪かったです」

「いいよ。あんたは必死だったんだろう」

 魔女は弟子に、せめてもの慰めをくれた。



///


 エリは新しいスーに、『待て』を言う。スーのおなか側を、師匠の魔女がのぞき込む。魔女がろっ骨を外すと、スーの姿は掻き消え、ごろごろと骨だけが転がり落ちた。魔女が、使われた呪文を逆さに唱える。犬の骨は、エリたちの庭の底深くへ、沈んで溶けていった。


 魔女は、良いリボンを選んで、エリにくれた。エリは、残ったろっ骨にリボンを巻き、本当のスーとの記憶とともに、いつまでも大切にした。

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空手形 九層霞 @DododoG

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