泥沼


 ある寒い地方に、沼地があった。


 まだあまり旅慣れない巡礼がやってきて、沼へと沈んだ。当事者が招いた事故が半分、案内人の誘導が半分だった。沼地の際に住む案内人は、沼地を横切る巡礼に付いていてやらなかった。もっとも道筋と目印を教え、宿も許し、務めは果たしていた。

 巡礼と案内人の接触は、互いにさして好意的でもなかった。まず巡礼のそうした態度があったので、案内人の対応も次第に硬化していくし、それを受けての巡礼も然りで、二者間の不和はいたずらに膨らんだ。そのまま別れの朝が来た。


 沼の中央にはささやかな花畑があり、それを記念としたがる者は多かった。案内人はそれを固く禁じた。案内人は歩ける道を調べ尽くし、その動静もしつこく確かめている、と主張する。花畑に行く道はないと説得する。死んだ巡礼に限らず、その忠告を侮ってかかる旅人は多かった。少し頭を捻った者などは、花への道を知る為に宿賃を増やそうとする。案内人は受け取らず、相手によってはあえて受け取ったうえで、そんな道はないのだ、と改めて答えるのみだった。


 失敗する旅人は、沼地も中程を過ぎたころ、ふとある思いに駆られる。間近に眺めてきたあの花畑の苔を踏まず、一本も手折り、におってみることもなしに去ることは、えもいわれず悔しい。案内人が自分たち旅人に親身な人間なのかは怪しかった。本当は道がある。または、案内人の知識は古く、虫食いである。しかも、案内人の言いつけを律儀に守っては来たが、嵌まるほどの深さや柔らかさの土など、一度たりともなかったではないか?

 案内人は大きな杖で沼を刺しながら、死者が死者となる前の軽はずみを思い描いた。今回の者の足跡も、おおむね似たような段取りを踏んだことを示していた。案内人は、身動きが取れなくなって死を待つだけの生き物と対面したくはなかったので、そうなろうという勘が働いた日には、十分に歩調を鈍らせる。落ちた者を引き上げてやれるものならと考えていた時もあった。結局ほとんどは、案内人を道連れに加えるのと同じ意味となる。今既にして巡礼は居らず、土の上に遺留品の荷物ばかりが落ちている。


 案内人はこうした物品があれば、沼地の外に埋葬してやることにしている。


 だが、巡礼の痕跡は一つではなかった。巡礼が首に提げていたお守りが、沼の縁に引っかかっている。案内人は相当に気が滅入った。なぜなら、道草する前に重荷を下ろすことは生きていて自然な行動だが、肌身離さずにいた信仰の象徴を置いていくことには、明らかに何か末期の情動が込められているからだ。死人から手紙を受け取るべきではない。案内人は口の中で唱える。神ならぬ己の信条を唱える。


 案内人はお守りを拾って、紐に手を通して振り回した。お守りは舞い、花畑より半歩ほど前に落ちた。殺人者は美しく群れ、笑っていた。案内人は暗澹と喘鳴した。


 それが収まると案内人は、荷物を背負い上げ、墓地へ足を向けた。その近くにも、しつこく探せば一本ぐらいの花は生えているのを、案内人は知っている。ここに住んでいるのだから。

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