リンドワーム氏、そのうららかな脱獄

 竜の身と心をしたリンドワーム氏は、私の生まれる遥か以前にはこの辺境の草原で模範囚となっていた。リンドワーム氏に対しては形式上私のような見張り番が常に置かれたが、彼は暇さえあれば鳥獣と戯れ、稀な見学者からはなにがしか新鮮な世間話を引き出そうとするのみ。その鋸のような歯にちろちろと覗く火炎や、攻城投石器のようにしなる尾先などは、何時たりとて不穏当に発揮された試しがない。

 私の警戒心も、今まで務めた多くの者同様、一月を待たずと氷解してしまっていた。


 結論から言えば、私は単に彼を見くびっていた。



 彼の胴回りの枷は万全だった。それはそれ自体の呪縛的強度もさることながら、鎖は宇宙樹の根の一つを通って地底世界の第一監獄へと繋げられており、反抗は看過される由もなかった。

 彼を囲う柵は万全だった。それは魔力子だけを漉し取る結界を展開し、強大な彼が独房から出る事も、外から強大な何者かを招き入れる事も不可能としていた。

 私の監視意識は、万全とは言えなかった。だがどんなに気を許した所で、リンドワーム氏の身柄を左右できる程の権限や能力の持ち合わせがない点、私の認識に間違いはなかった。

 外部協力者はいなかった。時間干渉魔法のたぐいで刑期が誤魔化されたりもしなかった。いかなる暴力も振るわれなかった。では、何か。



 リンドワーム氏は、恐らくは獄中で密かに開発していた魔法の為に、ある日を境に爆発的に成長し始めたのだ。刑に服す囚人はあくまで養わねばならないので、我々はその拘束具と運動範囲を日増し拡張せざるを得ない。上の判断を仰いだが、氏の行為に対応する罰則はないとの見解だった。入れ替わり立ち替わり、魔導師と結界師が工事の為に訪れ、すぐに泊まり込みになり、やがて正式に雇われた。寝返り一つに地鳴りを伴うほどに巨大化しながらも態度は紳士的なままで、食事排泄も以前通りに慎ましい。


 春一番のごとく盛大になったくしゃみにも慣れ切った頃、私は少々下世話な興味から、彼のかつて犯した罪の全容を調べた。元来、たかだか窃盗罪にかこつけて世紀単位で幽閉する扱いには、竜族の長命を考慮しても疑問符を付けたかった。そして案の定というべきか、隠された事実に行き当たる。


 罪状は、無差別誘惑及び窃盗未遂。前者は、過度な契約や淫奔行為により強い社会的影響をもたらした、しばしば悪魔族に適用されている罪である。被害者は一名で、欄は墨で塗り潰されている。窃盗未遂の被害品には玉璽とある。玉璽?王族の証の一つを盗み出そうとしたのだろうか。そんな一大事が起こったとは聞き覚えがない。調書をさらにめくった時、隠れ身の布を被っていた私の肩に、所長の分厚い手があった。



 謹慎が明けると、リンドワーム氏の体躯は付近の山をあらかた上回っていた。囚一頭が現在から将来的に占有し続ける領土面積について、辺境伯が抗議の遣いを寄越したが、国府直轄地の拡張という題目で追い返されたそうだ。そのような怪しげな手まで打たれるのだから、ますます並大抵の扱いではない。

 獄吏詰め所では、先々々王姉殿下をたぶらかし誘拐を目論んだ罪により、というのがいつの間にやら定番の説となっていた。一応の合点は行くものの、やはり彼の温和な性質にそぐう感じではないのが引っかかる。それとも、ほぼ野放しとはいえ長い幽閉生活を耐える内に、過去の若気が鳴りを潜めたのか。


 いつも通りのある日、リンドワーム氏の巨体が透けかかって、射し込んでくる日の光を内部で複雑に反射させ、微かに周囲を漏れ照らしているのに気が付いた。彼はもう、寝転んだまま滅多に動かなくなっていた。人の言葉とも、獣の仕草とも、やりとりを放棄してしまっていた。理外の魔法は、不可避に彼そのものを薄めていくのではないかと思われた。実は彼は初めからひどく脆弱な水晶細工であったし、軽々しく触れれば千々に割れ、存在した多くの証とともに未来永劫吹き去ってしまう。そんな心配さえよぎった。



 彼が何を企んでいたかなど、もはや詮のない話だった。せめて見張りらしくしようと、私は柵沿いを歩き回り、ちょうど顔の付近へ差しかかる。

 とろんとした月のような瞳を露わにして、彼が私を眺めやった。私はその眼差しから、無感動と哀愁だけを汲み取った。だが間もなく、その奥底にみるみる内に張り詰めていく、力のひそめきを認めざるを得なくなってきた。全身の体表へ魔力線が集中し、猛烈な輝きへと凝り立っていった。その臨界の刹那、彼は一気に膨張し、呆気なく束縛をすり抜けた。

 リンドワーム氏はすっかり無色透明な竜であった。


 極限まで薄まった事で、どこまでも自由でしかない。考えを巡らすまでもなくそれがわかった。一声、か細く鳴いて飛び発った。一呼吸ほどの出来事で、誰だろうと止められはしなかった。

 翼は風さえ巻き起こさぬ。虜に虚しき檻を囲み、私達は一同棒立ちとなった。


「ようやくお迎えに上がれます」

 と、彼の母語で言っていたそうである。



 同日の報では、王墓の一角が局地的強風で倒壊した、というものもあった。以来、各所にて老婆と竜、二者の幽霊が目撃されると、風の噂になっている。いずれにせよ、事の全容を掴む程の信憑性には乏しく、今もって詮索せんとの意欲も湧きかねた。私は唯々諾々と氏の牢獄跡の解体を手伝うのみだった。リンドワーム氏のことは、今でも敬愛して止まない。

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