空手形

九層霞

たそがれの木

 五年以上昔の話。


「ずうっと西へ行くとね。丘の上におっきな木が生えていて、たそがれの木と呼ばれているんだって」「へえ」


「その木が、お日様でまっかっかに焼けちゃってるあいだは、根っこんとこでお祈りしてやれば、一つや二つのお願い事なら叶えてくれるって言うよ」「君は、したいの」

「僕は、そしたら、けど、ないかなあ」「俺もないさ。悪魔が歩き回ってる世の中じゃ、身近に不幸もなく育ってこれただけで万々歳だよ」


「レノは、すごい言葉がきらきら出て、すごいね」「なんだよ。親父がこういう感じなんだ」

「すごいんだから」「なんだか、嫌だよ。君の方が、大人になる頃にはずっと立派だって。知ってるくせに」

「父さんや、そのまた父さんたちがいくらすごくっても、ダメだよ」「ダメじゃねえよ。何にも、ぜったい、ダメじゃない」


「ふうん」「うん。保証する」

「じゃあ、そうなの」「ふんぞり返ってりゃいいよ。他の奴がしたらダメだけど、ミヘルはしても、丁度いいぐらい」

「やっぱりレノって、頭いい。ありがとう」「本当の事さ」


 それから雨が七回降って、ミヘルは消えた。一人で出かけて魔物に取られちゃったんだって、お気に入りの襟巻きが落ちてたって、噂が立った。ユリスが「太ってたばっかりにいいおやつにされた」って茶化すから、俺はその三つ編みを一本掴んで、思いっきり引っ張った。女の子に手を上げる男は、最低だ。泣かしたりした奴はもう、生まれた村から追ん出されても逆らえない。でも居なくなってるのは、ミヘルなんだ。

 ミヘルの両親はきちんと悲しんで、きちんと思い悩んで、元々きちんとしたミヘルのお姉ちゃんにいいお婿を取らせて、跡取り問題を片付けた。ミヘルの居た場所まで、どこかへ行ってしまったようだった。




 一年ほど経った後のこと。村に泊まったやさぐれ冒険者から更紗の厚布を盗んで、森の奥深くへ逃げた。大勢ともし火が追ってきたけど、全て撒いてしまった。もう寝そべって、宿無しの流浪人が向いてたかと考えていた当たりで、その冒険者は明かりもなしにやって来た。まず拳骨をくれ、そのまま更紗布もくれたし、なんと師匠になってくれた。雑用をぜんぶ押し付けられても、家の手伝いより万倍も楽しかったし、何よりミヘルの代わりに魔物をやっつけてるんだと思うと胸が空いた。信じられないぐらい人が沢山いる都市を通った。ば様たちの心得にない薬の練り方を知った。やがて一人前になったとか言って突然放り出された時も、心よりお礼して別れた。



 道なき道を嗅ぎ取って、俺は村の入り口へ帰ってきた。それが今朝。


 見張りのおじさんは、組合の手形を認めるやただ通した。

 店頭に立つユリスはそばかすが薄らいだようで、けど塩や油を買い足す俺には気付きもしなかった。

 親父は昼間からさみしげに酒を飲んで、老いぼれて、誰の顔も見えない風だった。

 墓地の一角ではミヘルの名に没年が添えられていた。


 俺はそれを剣先で掻き潰して、西へ発った。みんなが俺を忘れたが、俺は生きている。ミヘルもそうに違いない。




 そして今。


 半日ほど歩いて、丸い丘に出くわした。西へずっと、というのは子供の尺度だったようだ。

 空を覆う木は、どことなく異形だった。いや、近付くにつれ、はっきりとねじくれていた。幹は文字通り肉付いていた。葉は誰かの手のように厚ぼったい。丘は草一本たりともなく禿げている。

 そこかしこに人の頭ほどのものが落ちている。回りこんで見下ろすと、それは確かに目鼻のある、人間の頭だった。俺はそれをよけて、胃が空っぽになるまで吐いた。視界が暗くて、朦朧と地べたに手を突く。透明な吐瀉物が乾き切った土と混じって、黒ずんでいった。いい具合にお腹が減ってきた。


 声が降ってくる。

「レノ!よく来たね」「来てしまったんだね」「ようこそ」「お久しぶり、会いたかった」「早く帰りなよ」「ここに居ると怖いよ」「楽しんで行ってねレノ」「準備しなくっちゃ」「もっとそばへ寄って」「見えづらい」

 無数に落ちていた木の実は、ミヘルの頭だった。爛れているものもあった。上を見上げる事ができず、悪寒が止まない。よろよろと、根っこの近くへ歩く。そこにしか日陰がないのだ。声はする。


「まだ日が高いでしょ」「本当は隠れてなきゃなんだ」「前の人に教わったの」「でないと次の人が寄り付いてくれないんだって」「いつまでも苦しむって」「言うとおりだったみたい」「でも僕ちっとも辛くなかった」「レノが来てくれるって、信じぇ」

 ある声が途切れると、ずどんと音がして、何か落ちた。ほとんど水のようになった反吐が繰り返し湧いてくる。「レノの願いを叶えてあげる」「僕の代わりになって」


「じゃあ、ちょっとだけ、静かにして」やっと一言、俺はしぼり出す。

「そう」「お安い御用さ!」「わかった」「黙ってるね」「なんで?」「悪かったよ」「ごめん」それきり、静かになった。

 落ち着きを取り戻すのには、しばらくかかった。少しずつ、話す事にした。

「…ミヘル、お前バカだよ。騙されたんだ。冒険者になってから、この木の話を聞いた。これは願いを叶える木なんかじゃない。ずるい魔物が、君を、食っちまったんだ。君の体と心は溶けて、木のなりをした魔物の体内へ浸透した。普通、わかる」「ええっ?」幹の芯の方で、くぐもった声がする。

「それに、少しは嘘も言わなけりゃ、君が俺を食べる気だって気付くに決まってら。そんなだから、誰も騙されてくれないんだぞ」「そっかあ。バカは、たいへん」


 日が傾いてきた。遠くの山の、もっと向こうの天道様が、ぶくぶくした木の全体を煌々と照らし出していた。

「……願い事を言ってもいいよな」「いいよ。あ、待って。願い事をしたら、死ねませんからね。満足するまでお願いが叶ったか、飽きちゃったかするまで、なあんにもお邪魔は入らない。それが済んだら、レノは僕といれかわりで、木になるよ。いいの?」

「……いいよ。ミヘルこそ、聞いて断んなよ」「どうかなあ?聞いてみよう」




「昔さ、ミヘルと一緒に草むらで寝たじゃん。牧場の。あの時にさ、君のお腹を勝手に枕にしたんだ。君は苦しそうにうなされてた。その事。すみません」「許せない!」木の表面には、ミヘルの膨らんだ胸がびっしり並んでいた。

「なぜってお母さんがさ、俺を抱き締めてくれないんだよ。出来心で君に頭を預けてたら、おっぱいが柔らかくて、こう、いけない気持ちになった」「いけない気持ちなんて、あるんだなあ」木の枝はミヘルの腕で、節は肘だった。

「みんなが君を太った厄介者扱いしてたけど、俺だけはずっと覚えてたから」「そうだよねえ。ご苦労さんだ、ご苦労さん」見上げると、ミヘルの下顎が星のようにぶら下がっていた。

「君の事、食べちゃいたいくらい好きなんだ。食べてもいい?」「うん、いいよ!」背負子を下ろし、山のような油と塩を出した。ミヘルの顔の実を犯して、吐いて、焼いて食べて、吐いた。


 吐いた物を食べて、よくなる薬を使って、ミヘルのつやつやした幹を削って、ミヘルの頭蓋骨で塩漬けにした。ミヘルの枝を落として、一週間ぶっ通しで食べた。ミヘルが震えると甘い香りが漂って、吸い込んだ途端に幸せな幻覚が見えた。ミヘルはそれを謝っていた。死ねないというのは実は死ぬのがわからなくなるだけだと言った。俺はこの魔物の習性を予め知っていたから、嘘が吐けるなんて成長したじゃないか、とだけ返した。ミヘルの一つがえへへ、と笑った。それからも願いが叶った。願いが叶った。うまいとは聞いていたけど、魔物の生肉は本当に病み付きになる。外側をあらかた食べ尽くすと、満足したので俺を食べるようミヘルに言った。ミヘルは根元を浮かして、タコに似た口をカッと開いた。頭から吸い付かれて、ずるずると引き上げられていく。いやらしい舌のようなものが兜や帷子を巻き取って除ける。俺もぼうっとしてきた所で思い出し、内臓に剣を突き立てた。暗く脈打つミヘルの中に、血のような蜜のような、温かい液が満ちた。ミヘルは痛がり、それでも抵抗しなかった。ミヘルが倒れると、丘はぺしゃんこに潰れてしまった。俺は鼻歌を歌い、樹液にまみれながら、ゆっくりとミヘルの体の中をほじくっていった。お腹が一杯になったら戻して空けた。自分の脂汗や精液や、胃液やよだれがまとわり付いているけど、どちらにしろ全身ミヘルの海で粘ついていたのでどうしようもないし、どうだってよかった。瞬きが面倒になり、喉と頭の中がひっきりなしにぱちぱちと弾け、焼け付いた。眠ると幻とも夢ともつかない世界が現れて、この世の果てを飛ぶ気分だけど、遠くで啜り泣きが聞こえて目が覚める。腐臭が強まる。



 やがて幹の先っちょの方まで来て、あの頃のミヘルが泣いていた。淀んだ壷の底、球状の膜に包まれて清潔を保ち、えーんえーんと、顔を塞いで泣いていた。俺は食べるのを一旦やめた。なにか言ってあげなくちゃと思った。

「そういえばミヘルは、この木に何を願ったの。すごいこと、変なこと?たくさんか、一つきり?」

 ミヘルはうつむいたまま口だけ開いた。

「僕は、お父さんとお母さんと、厳しいお姉ちゃんも、村のみんなに、ずっと幸せでいてほしかった。今もおんなじく思ってる。レノが、幸せじゃない気がする。違ったらごめんね」

「……そんなこと……ない」俺は口ごもった。


「別にねえ、レノになら食べられたって構いはしないよ。来てくれてありがとう」

「それも魔物の言うことなんだろ」

「そうだね。僕が魔物なんだ」やけに澄んだ声音だった。ミヘルの顔はいっそうはにかんで、少しの蔑みも見て取れた。俺の、望みの中だけの、見間違いだったかもしれない。


 俺が抱擁を求めたので、ミヘルは応えた。唇を求められて、ミヘルは応えた。何かきれいなものが頬を洗って落ちる。ミヘルの体は肥えて、その事が人一倍豊かだ。母でなく、恋人でなく、友人の体を誇りに思った。ミヘルの頭を、俺は膝枕に乗せて、念入りに首を断ち切った。断末魔の叫びを残して、魔物が死んだ。




 外へ出ると、倒れた幹はただの古木の姿に戻っていた。しばらくしてそれは、長い年月に襲われたかのようにぽろぽろと崩れ、風化していく。

 あたりはまるでいつかの続きみたいな夕焼けで、不思議な感じだ。反対に、東の方角は闇へ没している。俺は、眠る生首の形の木のこぶを、お気に入りの布で押し包む。ミヘルの願いを叶えられるだろうか。なんにしろ、あの墓には、新しい日付けを入れなくてはいけない。終わっていく、いちばん新しい日を。

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