序章 その二 石動肇の依頼人

 平野平家よりかは市街地に近い森。

 そこに石動肇いするぎ はじめの住む邸宅がある。

 平野平家が山の中で先祖代々の武家屋敷で和風なのに対して石動の家は鉄の門に蔦が生えている洋館である。

 前の持ち主は英国の富豪だったらしい

周囲には内外問わず様々な名家の別荘がマスコミなどから隠れるようにしてある。

――豊原県の奥軽井沢

 などという別称も伊達ではない。

 元々は石動が社長を務める会社の社屋としてバブル期の底値で買ったものだが、開発などを外国に移した結果、現在はほぼ石動の私邸となっている。

 夜。

 石動は執務室で煙草を吸っていた。

 既に家族は寝静まり、石動も電気を消して満月の光の中で紫煙をなびかせている。

 端正な顔立ちに月の光が映える静かな夜だ。

 空間が、そのまま写真や絵画の作品のようにさえ感じる。

 だが、石動の耳には先日亡くなった平野平秋水の父、平野平春平ひらのだいらしゅんぺいの遺言が耳から離れずにいた。


 電話で呼ばれて平野平家を訪れたのは、春平が亡くなる一か月前である。

 秋水は本業の不動産仲介業の手続きで市役所へ、正行は大学へ行っているため家には春平しかいなかった。

「悪かったね、遠かっただろう? 上がり給え」

 春平は先立って歩き奥の私室へと案内した。

 書斎も兼ねているのだろう、自分の執務室とまではいかないが本棚には郷土資料や百科事典が詰め込まれ、文机も置いてある。

 上を見れば年季の入った梁と天井板がありこれだけでも、かなりの価値があると理解できる。

「お茶と愚息が作った羊羹だ」

 そういってお盆を持って再び現れた春平は石動を座らせると自分も上座ではなく対面するように椅子を持ってきた。

 石動の目の前にはお茶と上質紙にのった羊羹がある。

 一口、茶をすすってみる。

――美味い

 普通、取引先の会社などでは粉末タイプやインスタントのお茶を出されることが多いが、このお茶は温度も苦みも甘味もいいバランスで美味しく感じる。

 羊羹も黒文字で割って食べてみた。

 これも程よい甘さでお茶に合う。

 気が付けば完食をしていた。

「美味しかったです」

「それはよかった」

 老人は笑顔で応えると、同じものを食べた。

「うーん、少し練りが足りないな……」

 羊羹に対して文句を言いつつ春平も完食した。

 最後の一口をすすり、春平は刷毛目の湯呑茶碗を置いた。

「石動君、君は俺の愚息から、俺が癌になっているのを知っているね?」

 その言葉に石動は居住まいを正した。

「はい、おやっさん……いえ、秋水さんから伺っております」

 

 面談する数日前に石動が『おやっさん』と呼ぶ平野平秋水に誘われ裏路地のバーに誘われた。

 普段、着流しやアロハシャツなど奇抜な服装をしてキャバレーなどで女の子を呼び大騒ぎするのに、その日は開襟シャツの上にダブルのスーツを着て静かだった。

 場所が本格的なバーと言うこともあるが、正直、不気味であった。

 奇行が服を着て歩いているような相手なのだ。

「俺の親父は癌だ。もう、長くはない」

 その言葉を聞いた時、石動にも驚きが走った。

 裏社会で生き延びるための術を教えたのは、直接は秋水であっても、その源流をたどれば春平に行きつくからだ。

 そして、早くに親を亡くした石動に対して春平は兎角、気かけてくれていた。


 急須から新しいお茶を湯呑に入れてすする春平。

「まあ、色々あったが、持って半年もないだろう。正直言えば、明日、コロッと死ぬかもしれん」

 その言葉はまるで死を感じさせるものではなく、『明日は曇りかな?』くらいの気楽さを感じさせた。

「正行には……」

「まだ言っておらん。あいつのことだ。パニック状態になり俺を病院のベットに縛り付けようとするだろう。もう、手遅れなのに……」

「しかし、今は医療が進んでいます……」

「老いぼれに貴重な薬を使わせるな。死ぬ覚悟は、裏の社会を知ったときに決めている」

 そういわれてしまえば、石動に返す言葉もない。

――今、自分はこの老人と今生の別れをしているのだ

 石動は涙を押し殺し、背筋を伸ばした。

「石動君、今日は車で来た?」

 空気を換えるように春平は聞いた。

「いいえ、言われたようにバスと徒歩できました」

「それはよかった」

 そういうと帯でまとめられた空手着を出すと石動に投げて渡した。

 突然のことに慌てて受け取る。

「隣の居間でこれに着替えて道場に来なさい。少し面白いものを見せてやろう」

「面白いもの……ですか?」

「今の俺で七割程度の威力しかないものだけどね」

 春平はそういうと立ち上がった。

「俺は道場で着替えて待っているから早く来なさい」


 数分後。

 着替え終わって道場に入った。

 狭すぎず広すぎない道場に春平も同じ姿で待っていた。

 まずは、とりあえず、柔軟体操で体をほぐす。

 と、体を前後に屈折しているときに肩に酷いあざがあるのが見えた。

 柔軟体操を終え、春平は言った。

「これからやるのは『闇絡みやみがらみ』って技さ。一般的に言えば秘伝ともいうかもしれん」

「闇絡み……」

「まあ、もっとも、今の俺の体力などを加味すりゃあ、全体の七割行けばいいほうさ……それに」

 春平は少し言葉を切った。

「それに、本気でやったら君を殺してしまうかもしれん」

 その言葉を聞いて石動の喉仏は一回ゆっくり動いた。

 息子の秋水もそうだが、重大なことをサラリッということがままある、

「石動君、崩拳ほうけんって知っている?」

「ほうけん?」

「にわか知識のあるやつは『ぽんけん』とも言うけどね」

「愛媛ミカンの親戚ですか?」

 春平は石動の言葉に一言だけ言った。

「君も案外ボケだよねぇ」

 軽く咳払いをして春平は解説を始めた。

「中国拳法の一つに形意拳けいいけんというのがあって、その中の一つの技さ。インドから放浪している途中で習得して俺らの暗殺術にも組み入れられている。本家とはちょっと違うが見てなさい」

 足を前後に軽く置いて半歩踏み出し拳を素早く突き出した。

 素早いには素早いが決して威力があると言えない。

 実践ではせいぜいフェイント程度で相手を一発KOには出来まい。

「『闇絡み』自体は技に付随させるものなんだが、今回は崩拳に乗せてみよう。石動君はそれを受けるだけでいい。今よりゆっくりするからさ」 

 今以上にゆっくりと言うのは威力がほとんどない。

 石動は老人の前に立った。

「では、ゆくぞ。『闇絡み』」

 静かな呪詛のような声。

 最初の異変は皮膚。

 汗ばむほど暑かったのに急激に温度が低くなっていく。

 方向感覚も狂ってきている。

 今自分の足もとが水の上にいるような酷く不安定な場所に感じる。

 背骨に冷水を注入されたような寒気。

 心臓が冷たい手に握られた。

 普段冷静な石動の脳は、ある結論を導き出した。 

『俺は今、闇の手のひらに包まれている』

 認めなくない。

 しかし、そうでもなければ説明しようのない。

 第三者から見れば道場に二人の男が立っている。

 それだけだ。

 床に薄く塗られた米糠油が太陽の明かりを照り返すほど明るいのに石動の周りは闇だ。

 もがこうとすればするほど闇は触手を伸ばし自分を縛りあげる。

 言葉を発しようとすれば口をふさがれ頭も固定される。

 闇の中から老人が現れた。

 その顔に表情はない。

 正行が闇に落ちた瞬間の顔と同じだ。

 信じがたいことにその手からは透明な鋭い刃が生えていた。

 すでに石動の中で目の前の老人は気のいい優しい春平ではなく『死神』として認識されている。

 足を踏み出すと『死神』はゆっくり石動の鳩尾に刃を向けた。

 石動自身、秋水のせいで何度も額に銃口を押しあてられるような生命の危機を経験している。

 その度に経験と知恵を武器に切り抜けてきた。

 しかし、それすら今は役に立たない。

 脳の一部が、それでも何とか理論的なことを考えようとする。

 しかし、本能と体がそれを否定する。

 理性を得た人間故に背負わされた本能的な死への恐怖と絶望。

『深くて冷たく暗い闇』

それに自分が飲み込まれる。

 透明の刃が石動の皮膚を突き、筋肉を破り、内臓まで侵入する。

 トンッ。

 老人の拳が鳩尾にあった瞬間、石動を囲っていた闇は瞬時に霧散した。

 春平の手にあった刃はない。

 石動の体にも刺し傷どころか一滴の血も出ていない。

 幻?

 いや、それは石動自身の肉体が即座に否定する。

 床にたまるほどの汗をかいているのに体は真冬にいるような悪寒。

 時間にすれば数分間、ただ立っていただけなのに足に力が入らず震える。

 息は荒くなる。

 呼吸すら上手く出来ない。

 石動は無残にも後ろに転んだ。

 立ち上がろうとすれば体全体に力が働かない。

 あの闇に恐れるように体はおびえ続けている。

 そこに影が落ちた。

 春平である。

 死神ではない。

「ほら、気をしっかり!」

 と両方の肩を強めに叩かれた瞬間。

 体の暴走が止んだ。

 道場内にひんやりとした風を感じた。

 それまで自分の生命維持のために心臓が動き、肺が伸縮し、血液が体中を巡り、体の細胞が各々に動いていることを子供のころからの教育で『知って』いた。

 そして、今、それが目覚めたのだ。

 新鮮な驚きだった。

『体が再起動した』

 古い殻を脱ぎ捨てた気分だった。

 ゆっくり起き上がる。

 錆びた機械の様に指が震える。

 あの闇の中にいたら自分はどうなっていたのだろう?

 まさにブラックホールの中に入るような気がした。

 その中で自分は発狂してしまうかもしれない。

「はい、大きく深呼吸をして」

 春平の言葉に石動は新鮮な空気を胸いっぱい吸い込み吐き出した。

 だいぶ体が楽になった。

 春平も額に汗をかいていた。

「久方ぶりにしたが、やっぱり老骨には堪えるなぁ」

 そういいながら春平は大きく体を伸ばして、ため息を吐いた。

「何ですか、あれは!?」

 石動の質問に春平は少し困った顔になった。

「そうだな、俺のところは基本、色々な流派の要素を組み合わせているだけど、闇絡み関連に関しては口頭で説明するのは……難しいなぁ……実際、難しいから君に経験させたわけだからね」

「そうですか……」

 と、空手着から見える、春平の青あざが目に入った。

「俺のあざが気になるか?」

「あ、いえ、すいません……」

「謝ることはないよ」

 そう言って空手着をはだけると素肌を見せた。

 老人とは思えない鍛えられた体には様々な傷がある。

 その中でひときわ異彩を放っているのが、肩のあざだ。

「これを作ったの誰だと思う?」

 肩のあざを指さし春平は聞いた。

「おやっさん……ですか?」

「いや、まだ、子供だった正行だよ……ってまだ、あいつ、童貞だったよな……」

「え? 正行ですか?」

 正行は石動にとっての弟分である。

 力や素早さなどの体力面は年齢の差もあるが、正行のほうが上である。

 ただ、力の駆け引きや突然のトラブルなどに関しては経験値不足なのか混乱し己が正義感のまま突っ走ることもある。

 悪く言えば単純。

 よく言えば純情。

 百人の人間が正行を見たら、何処にでもいる地方都市の純朴な青年に映るだろうし、実際、彼はその想像通りだ。

 その彼が、自分の祖父に跡が付くぐらいの攻撃を仕掛けたこと自体、信じられない。

 しかも、子供である。

 童貞は聞かなかったことにした。

「保育園で友達が虐められたのを黙って見ていられなかったらしい。しかも、残念な先生がいてな、虐められているほうの子に暴言を吐いて正行は正体を失った。園長先生に呼ばれてきてみれば、餓鬼の癖に鉄バットを持っていた。何人かの男が倒れていた。周囲には他の大人もいたが手出しができなかった……この時驚いたのは不完全な形ながら闇絡みをまとっていたことだ。まだ、掛け算もできない子供が……だ」

「見せたことあったんですか?」

「まさか……今の君ですら耐えるので精いっぱいだったのに、見せることはなかったさ。しかし、本気で刺し違えても『殺す』とは考えた。万が一、正行を残したらそのまま教員や子供たちを本当に血祭りにあげてしまう可能性があったからな」

 石動は黙っていた。

「幸い、経験値不足と力がなかったおかげで、俺はあざをもらうだけでなんとか正行を気絶させることには成功した。だが、周りは正行を……いや、俺たちを見る目は異形の者を見るかのようだったなぁ」

「それで、どうしたんです?」

 石動に催促され、春平は続きを話し出した。

「とりあえず、俺の信頼している友達の病院に連れて行った。幸い、正行は気絶程度で体のダメージもさほどなかった。だが、一向に目が覚めない……入院させたが体にも脳にも異常はなかった……三日目だったか俺が正行のところへ顔を出すと、奴は目を覚まし、大声で泣き始めた。俺は驚いた」

「どうして?」

 春平は少し困ったような顔になった。

「正行の性格は、最初からあんなに明るくて優しいわけではなかったのだよ。赤子のころから滅多に泣かず、俺や母親ですら目を合わすこともなかったし、言葉が出るようになっても基本的には頷くか首を振るぐらいしかなかった」

 思い出すように春平は語る。

「でも、センスは大人以上にあったな。まだ歩き始めた頃の秋だったか……庭先に桜の木があるだろ?」

 春平が指した指先には白玉砂利が敷かれた庭に一本の桜の木がある。

「あそこで枯れ枝を振り回していた。夕食が出来たから呼びに行ったら、驚いた。落ちている枯れ葉全部に穴が開いていた」

「正行がつけた……のですか?」

 春平は頷いた。

「ただ、子供特有の残酷さもあった。同じことを飛んでいる蝉にやって羽を取っていたのだからな……俺が注意しても正行は表情一つ変えんかった」

「それが変わったと?」

「そう、急に『じいちゃん』と言い出し、『お腹が空いた』と大泣きしよる。翌日、脳の先生に診せたら強い精神的ショックで本来の人格を封印したようだ……」

「闇絡みの影響ですか?」

「そうかもしれない……違うかも知れん。そこで俺は秋水と嫁さんに頼んで正行を預かることにした。秋水たちも色々こじれていた時期だったから二つ返事でよかったよ。保育園も転園させた」

春平は一つ、溜息を吐いた。

「それまでの正行が嘘のようによく笑い、よく泣き、感情を如実に出すようになった。はじめのうちは剣術を教えなかったが、時々俺が弟子に教えているのを隠れて見て、棒で型のまねごとをするようになってな。小学校に上がってからは図書館で剣術関連の本を借りて独学でやるようになって結局体が作られる十歳辺りから教えるようになった。このことが、正行にとって本当に正しいかどうかわからん」

 それまで黙っていた石動は言った。

「正行はいい奴です。秋水さんも……まあ、いささか非常識なところはありますが……いい人です。その二人を育てたあなただって、いい人です」

 その言葉に照れくさいのか春平の顔がいささか緩やかになった。

「確かに俺は剣術者として一角のものかもしれないし、裏社会でもそれなりのことはやってきた……しかし、息子も孫も裏社会に巻き込んでしまった……一人の父親、祖父としては失格なのかもしれない」

「そんな……」

 戸惑う石動の顔を春平は凝視した。

 そこには一人の老人がいた。

 長い人生を生き抜き、疲れた人間がいた。

「石動君、俺が死んでも正行たちと対等に付き合ってくれ。そして、もしも、道を外れそうなときは人の道に戻してくれ」

 静かな、しかし、切なる願いを持った言葉だった。

 石動は頷くしかなかった。


 それから平野平春平は、亡くなった。

 前日まで普通に過ごし、朝、起きない父を起こしに来た秋水が亡くなっていることに気が付いた。

 文字通り、眠ったような安らかな顔だったという。

 多くの弔問客が訪れ、喪主である秋水は気が抜けずにいた。

 対して、正行は弔問客がいるというのに大きな声で子供のように泣いた。


 電子音がする。

 石動肇は意識を現在に戻した。

「はい、石動」

 電話の相手は石動の大学からの友であり、仕事上のパートナーである、大野太おおのふとしだった。

『何だ、まだ寝てないのか? 明日から台湾に行くっていうのに……』

 あきれ返った声がした。

「書類の最終チェックをしていたんだ」

 煙草を灰皿に押し付けて嘘をつく。

 書類の最終確認は既に終えて鞄の中に入っている。

『そうか……明日は早いから、適度にしておけよ』

 友はそういうと電話を切った。

 再び電話が鳴った。

『そうそう、言い忘れるところだった。今回のコンペは台湾の偉い人も関わっているらしいからいいスーツを持って来いよ』

「了解」

 再び電話を切り、石動は明日のために寝室へと向かった。


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