8.夕暮れ

 川風が熱を剥ぎ取って、後悔を増幅させた。

 コーラと緑茶の缶を手に戻った狛江は、川岸に座り込むおれの隣に腰を下ろした。


「どっちがいい?」

「どっちでも」


 答えると、狛江は少し悩んでから二十センチしか離れていないおれに、いらない方の緑茶缶を割と力を込めて放った。


「危ねーだろーが」

「危ないのは周防だよ」


 思わず声を向けたが、戻ったのはその言葉だった。

 まだ掠れ声の狛江は蓋を開けて、きつい炭酸をごくごくと飲んだ。その姿を見ていると泥で汚れたスカートが目に入って、轢死した蛙の辞世の句のような呻きが漏れる。やらかしてしまったことを蘇らせれば、返す言葉も向ける言葉も思いつかない。クソミソにおれのことを責めない狛江の態度も、深い悔恨の底に留まらせることを助長させた。


「プラスマイナスゼロで」

「なにがだよ」

「私のしたことと周防のしたことで」

「おれの方がマイナスか?」

「そうしてもらえると助かる」


 立ち上がった狛江は何も言わずに、川辺まで降りていった。

 陽が傾いた川の先はもう陰っていた。

 手を水に入れて、ゆっくり掻き回す狛江の背に、おれは思い出した言葉を向けた。


「昨日、自分がどう変わったか、分かったかよ?」

「……別に、なにも変わらなかった。でも自分の身体で誰かに喜んでもらえることは分かった。少しは役に立つなって」


 振り返らずに狛江は答えて、濡れた手をシャツで拭った。けれども相手が怪訝な表情でいると察したのか、顔を傾けて軽く笑った。

「普通にできるはずのことが私はできそうもない。恋愛するとか結婚するとか母親になるとか。自信とか興味の問題じゃなくてただ、したくない。駄目なんだ。生物学的社会的に沿うことができない。どうしても」


 狛江が言わんとしていることが、おれは狛江じゃないからよく分からなかった。おれが女だったらその心理に近づけたかもしれなかったが、おれは女でもなく、それが分からないばかりか、それ以上に愚鈍だったため今日「マイナス」を引き受ける事態に陥った。

 だけどそんなおれにも彼女との間にあるものが、今後おれが思う展開に発展しないことだけは最終宣告として伝わっていた。


「なぁ今日、おれんち来るか?」

「ううん。今日はいいよ」


 両手の指に残る蟠り。

 明日になれば、それが消えるかどうか分からない。

 自分の中に存在する感情がどういった類のものなのかも、よく分からない。

 目の前には、もう一度手を水に浸す狛江の細い背中がある。

 蒙昧とする感情を今は理解できなくても、彼女を流れる暗い水の中に沈めてしまいたいというこの衝動は、その感情と同等ではないかと朧気に思う。


〈了〉

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水の背中 長谷川昏 @sino4no69

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