7.夕方

 プールサイドから下校途中の狛江の後ろ姿を見つけて、おれはフェンスのこちら側から声をかけた。


「サボリか?」

「病欠」


 夕方になってもまだ強い日射しの下で、狛江の顔色は確かに悪く見えた。半袖から覗く二の腕に、昨日掴んだ指の跡がついている。朝は気づかなかったそのことに目を奪われていると、フェンスに貼りついた裸の身体からぽたぽたと水滴が落ちた。一度空を仰いでキャップを脱ぐと、ばっさりと落ちた髪が一段下の歩道に立つ狛江の姿を遮った。


「おれも今帰るから待っててよ」

「部活は?」

「今から病欠という名のサボリ」

「不真面目だな」

「話があるんだよ」


 おれが言うと、狛江は一瞬無表情になった。

「着替えてすぐ戻ってくるから。五分、いや三分」

 その相手に強引に約束を取りつけて、駆け足気味に更衣室に向かう。髪はもちろん身体すらも適当に拭って、速攻で着替えて戻ると、狛江は思ったとおり律儀に待っていた。日陰になった木の下でゆっくり立ち上がった狛江は、少し疲れた顔で隣に並んだ。


「三分、越えてた?」

「どうかな。時計、見てなかった」

「これからおれんち来る?」

「ううん。やめとく」

 他意は極薄にしたつもりだったが、即答されたことにやや不満を感じる。


「なんもしないよ」

「うん。分かってる」

 何もしないつもりはなかったが、そう言ってみた。再びの即答は安堵と言うより無関心にも似た素振りに見えて、再びやや不満を感じた。


「話って、なに?」

 並んで歩きながら、狛江はおれに訊いた。

 強引な理由づけのためのそれを全く考えてなかったこともあるが、冷たくも響いた問いには、適当な言葉さえ浮かばない。

 昨日はなかった齟齬。それが今ここにある。おれが考えていることと、狛江が考えていることが昨日以前から変貌してしまったわけではなく、新たな相違が存在し始めているようにも感じた。


「あ、ちょっとごめん、周防」

 おれが口ごもっている間に狛江のケータイが鳴って、彼女は律儀に断ってから電話に出た。

「うん……まだ……なるべく早くするよ……うん……分かった……」

 届く会話は言葉数も少なく、姿の見えない相手との親密度を感じさせる。別段変わらないどこにでもある風景。以前なら気に留めもしないものでしかなかったが、おれの知らない狛江がそこにいる気がしていた。


「なぁ、狛江、今の誰?」

 電話を終えた狛江に早速訊いていた。顔を上げた相手の返事は至極普通に戻った。

「え? 電話? お母さんだよ」

「それ本当?」

「こんなことで嘘はつかないよ」

 狛江は笑うと、軽くおれの肩を叩いた。おれもつられて口元で笑うが、触れられた肩から昨日の記憶がまた蘇っていた。


「なぁさっきの電話、本当はおれ以外の頼める奴からじゃないの?」

 まるで何かに操られるように言葉を発していたが、それは間違いなく自分の思惑で発せられたものでしかなかった。

「違うよ」

「どーだかな」

 おれは狛江から目を逸らして、先を歩いた。狛江は後をついてきたが、その気配は追いつくこともなく一定の距離を保っている。

 重い時間が連続して、おれはどうしてこんなことをしているんだろうと思う。けれども修正の方向も分からず、気が収まる方向も分からなかった。


「周防」

「なんだよ」

「ごめん。私、周防にやっぱり悪いことをした。謝って済むことじゃないけど馬鹿だった」

 振り返ると足を止めた狛江は、困窮した表情で立っていた。

「どういう意味だよ」

「あんなこと、頼むことじゃなかった。自分のことしか考えてなくて、周防に嫌な思いをさせた」

「それって、もしかしておれが色々気にして見えるってことかよ」


 荒らげてしまった語尾に狛江がうつむく。

 おれは自分の放った言葉に収まりが利かない。


 狛江から伝わるのは、おれと狛江の間にあるものが新たな関係性を生むものではなく、しかしそれは以前と変わらぬ気楽な関係でもなく、逆方向を辿るだけの破綻の香りがするものでしかないというものだった。

 おれが朝から抱えていたもやもやの原因は多分これだったのだと思う。狛江に拒絶されるのではないかと、ずっと怖れを感じていた。おれが変なもやもやを抱えていようが、狛江は変わらず同じ教室にいて、時々思い出したように言葉数の少ない会話を交わして、放課後は同じプールで泳いでいると思っていた。

 けれどそう思っていたのはおれの希望観測的幻想で、おれの目に映る狛江はおれの似非ナイーブな思い込みの想像下そのまんまの姿でそこにいた。


「周防?」

 掴んだ狛江の手首は、細くて掌に余った。

 強引に引くと、狛江はよろめいたが何も言わなかった。おれはそのまま帰る道を外れ、子供と母親達がたむろう公園に向かう。その中央を横切り、ひと気のない遊歩道へと歩み入った。

「どこに行くの?」

 不安な声に反応して、手首を強く握りしめた。どこへ向かうか自分でも分からない速度で迷っていても、進む足だけは本能に従ってどこかに向かって動いていた。


「周防、痛いよ」

 昨日は出さなかった声で、狛江はおれの手を引いた。おれは何も応えずに遊歩道から見えない木の陰に入り込んで、ようやく汗ばんだ手を離す。

「ここでしよう」


 しばらく振りに発した言葉がそれで、狛江の顔には困惑が浮かぶ。彼女はその表情を覆い隠すように下を向くと、微かな声を発した。

「私、生理中……」

「別におれは構わねーよ。ゴム無しでできるし」

「……私はしたくない」

「それっておれとは二度と、って意味?」


 黙る相手の手を取ろうとして、鈍い抵抗をされる。

 しつこくもう一度向けた手は、振り払われる結果になった。理性と冷静さが休眠中の脳には、咄嗟に血が上った。

 違うように見えて、似た衝動。おれは狛江を押し倒して、どこにも逃れないように肩を掴む。

 草の上に押し倒されて、背を打った狛江が痛みに呻いた。

 馬乗りになった相手を拒否する両手は無茶苦茶に動いて、無意味に長いおれの髪を滅茶苦茶にした。


 次は多分叫ぶと思った。だから口を押さえるはずだった。

 けれど押さえつけたのは狛江の喉で、驚愕が映った瞳をまだ湿った髪の隙間から見下ろしていた。

 細い首に絡む両手は、衝動のまま何かを奪うつもりで動く。徐々に増していく奪うための力は、奪われる相手の肌に強く食い込んだ。


 言葉にならない狛江の呻きが、耳に届く。

 彼女の口からは、懇願の断片が何度も漏れた。

 でもやめるつもりもなく、力を弛めることも考えなかった。

 もう少し力を込めれば、狛江は死ぬ。

 頭の中でそれを虚ろに思う傍らで、おれは完全に勃起していた。狛江の手が必死に腕を掴んで、その冷たい感触でそれはより硬くなった。


「……なにが、おかしい……?」

 狛江は苦しさに呻きながらも、微かに笑みを零していた。おれは息も荒く顔を歪めながら、彼女に訊いた。

「……おかしい訳じゃ、ない……実直なそれが、少し……うらやましいと思っただけ……」


 力はすぐに弛んだ。

 狛江は横に転がると、死ぬほど何度も咳き込んだ。おれは涎を垂らしながら地に伏す彼女から目を離して、ガチガチに固まった両手の指と、すっかり勢いをなくした股間を見下ろしていた。

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