書籍化記念エピソード―シュレーディンガーのラブコメ
放課後、僕はいつもどおり
というか、まずこちらを見なかった。背中を丸め、まるで怒っているかのような厳しい表情でスマホを凝視している。
――喧嘩でもしてるのかな……?
それは考えにくい。小戸森さんは、従姉妹の菱川さんから連絡が数日間途絶えただけで落ちこむような繊細な女の子だ。LINEで激しい言葉の応酬なんてするわけがない。
僕は隣に腰を下ろした。
「どうしたの?」
「ラブコメ小説を読んでいたの」
「え、嘘、ラブコメを読んであの表情になる?」
「なんかちょっとイライラしちゃって……」
「それってラブコメとしてはかなり致命的じゃない……? あんまり読まないからよく分からないけど、ラブコメって、もっとこう、ふわっとして甘くて笑える感じでしょ?」
読んでいるとイライラしてくるラブコメってなんなんだろう。俄然、興味が湧いてくる。
「なんてタイトルなの?」
「それは言えない」
「なぜ」
まさかの拒否。公言するのがよほど恥ずかしいタイトルなのだろうか。
「ち、違うの。ええと……、そう! まだ発売されてない本だから!」
彼女のスマホは時を超える。これはべつに比喩でも携帯電話会社のキャッチコピーでもなく、単なる事実である。
スマホに時間系魔法の術式を施して以来、過去の自分に連絡をとったり、カメラで未来の光景を撮影できたりするようになったのだ。
「未来の本を買ったっていうこと?」
「そうそう。タイトルを言っちゃうと、時空に歪みが生じて本が消えてしまうかもしれないし――最悪、
「僕が!? なんで!?」
驚天動地の展開だ。
小戸森さんはますますあたふたする。
「ええと、時空というか次元というか……、パラレルワールド的な。本来この世界線では発売され得ない本というか」
「怖い」
『この世界では発売されるはずのない本』『タイトルを聞いた者は失踪する』
新たな都市伝説の誕生である。
「それ、早く仕舞ったほうがいいんじゃない……?」
「でも、それじゃあ意味がないし」
「意味って?」
「園生くんにお話の感想を聞きたいの」
「それ、僕、消えちゃわない……?」
「内容をかいつまんで教えるから、どう感じたかを教えてほしいだけだよ。それくらいじゃ消えない――多分」
最後の二文字は聞きたくなかった。
でも魔法は言わば呪いのようなものだ。まったくのノーリスクで使えるものではないのだろう。それを隠さずに話してくれるところが小戸森さんの真面目なところであり、そして僕が彼女を好きになった理由でもある。
それに、ちらちらと上目遣いで見てくる小戸森さんを前にして、拒否などできるわけがない。
「分かった、内容を教えて」
すると彼女はぱっと花が咲いたように微笑む。もうそれだけで僕の覚悟が報われた気分になる。
小戸森さんはスマホの画面をフリックし、あるページを表示させた。章タイトルには、
『好きだって気づいてよ』
と書かれている。
小戸森さんが思い出しながら、つっかえつっかえ話す。
主人公の男の子――仮にSくん――が、思いを寄せている女の子――仮にKさん――の机から偶然、『恋愛を成就させるための計画書』を発見する。それは明らかにSくんを落とすための計画書なのだが、彼はそれを『Kさんが猫カフェで意中の猫ちゃんに好かれるための計画書』であると勘違いし、すれ違う。
と、いう内容らしい。
「あっはっはっははは……!」
僕は爆笑した。おかしくておかしくてしかたない。若干緊張していたのも手伝って、余計に笑える。
小戸森さんは少しいぶかしげな顔をした。僕が大笑いしている理由がよく分からないといった様子だ。
「それで、どう感じた?」
「面白いね」
僕は息を整えてから言った。
「だって、そんな鈍感な男、現実にいるわけないし」
小戸森さんの顔から表情が消えた。
僕はぎょっとした。いろんな顔を見せてくれる彼女だが、ここまでの虚無は初めてだった。
「え、なに、その顔……?」
小戸森さんはゆるゆるとかぶりを振った。
「ううん、わたしの話し方が悪かっただけかもしれないし……。もうひとつ、聞いてもらっていい?」
「う、うん」
なにか気に障ることを言ってしまったのだろうか。でも、ラブコメの内容を聞いて笑うのは、少なくともイライラするよりは健全な反応だと思うんだけど……。
小戸森さんはべつのエピソードを話しはじめた。
雨の日、KさんがSくんと相合い傘をしたくて様々な策を巡らす話だ。なのにSくんはそれに気づかず、Kさんが傘を持ってきた日に傘を持ってきたり、Kさんが傘をわざと持ってこなかった日に傘を忘れたりして、まったく相合い傘ができない。
と、いう内容らしい。
「あっはっはっははっは……!」
僕は爆笑した。小戸森さんはいぶかるような、期待するような目で僕を見る。
「それで、どうだった?」
「面白いね」
僕は息を整えてから言った。
「最初で気がつくでしょ。こんな鈍感な男いないよ」
「いるの!!」
突然の大音声に僕はびくりとなった。
小戸森さんは自分のふとももを拳で叩く。
「リアルに……いるの……!」
「ご、ごめんなさい……」
あまりの剣幕に、僕は思わず謝罪した。
「そ、そうだね。いるかもね」
「かも、じゃなくているの」
「そ、そう。え~と……、うん、いるね、そういうひと。相手の気持ちを推し量れないっていうか、ちょっと残念なひと」
「べつにそこまで言うことないでしょ」
小戸森さんはむっとした。
「ええ? ごめんなさい……」
もうなにに謝罪しているのかよく分からない。
小戸森さんは「ふぅ……」と長いため息をついた。
「園生くんは、もう少しラブコメを読んだほうがいいと思う」
どうしてそういう結論に至ったのか分からないが、僕は殊勝に「はい」と答えた。
それから小戸森さんにオススメのラブコメ漫画や小説を教えてもらい、その日は解散となった。
◇
土日を挟んで、再び放課後の密会。僕は意気揚々と学校裏の石垣へ向かう。
休日を利用して、お勧めしてもらったラブコメを片っ端から読みまくった。おかげで僕の脳は甘い甘いチョコやキャラメルでコーティングされている。
僕の努力を小戸森さんは喜んでくれるだろうか。
――でも「ラブコメの勉強をしたよ」とひけらかすのも芸がないし……。
「そうだ」
ラブコメのセリフを引用すればいい。そうすれば僕がいかにラブコメに習熟したか伝わるのではないか。我ながらいいアイデアだ。
うきうきして少し早足になる。
小戸森さんは僕に気がつくとにっこり微笑んだ。
僕は隣に腰かけて、言った。
「今日ってメイク変えた?」
「え? 変えてないけど……。というか、しないし」
「そうなんだ。いつもよりきれいに見えたから」
「ふうん」
一度は気のない感じで正面を向いた小戸森さんだったが、
「えっ!?」
と、目を丸くして僕を二度見した。
――やった……! やっぱり僕の努力に気がついてくれたみたいだ。
小戸森さんは顔を真っ赤にしてそわそわもじもじしている。
「え、な、なに急に……。ふだんはそんなこと言わないのに」
覚えてる、たしかそれは『お前に届け』の十四巻、九十八ページのヒロインのセリフだ。じゃあ僕はこう返すのが正解。
「そう? じゃあこれを今日からその『ふだん』ってやつにしていこうよ」
「あ、あ……」
うめき声をあげる小戸森さん。顔が向かいの歩道にある郵便ポストみたいな色になってしまっている。
僕は内心ほくそ笑んだ。
――急にラブコメに詳しくなって驚いてる。
彼女は顔を少し逸らして言う。
「そ、園生くんも、きょ、今日はいつもより、か、かかかかか、カッコイイんじゃない?」
細部は違うけど、これは多分、『隣のお化けさん』の九巻、三十二ページのサブヒロインのセリフだろう。なら、返事はこうだ。
「君の隣にいるときは、格好つけないと釣りあわないから」
「なんなの!」
小戸森さんはついに顔を手で覆ってしまった。
「でも! うん! はい! こういうの! こういうのもっとちょうだい!」
これはなんのセリフだろう? さすが小戸森さん、付け焼き刃の僕が太刀打ちするのは難しいか。でも、あのセリフを引用すれば……。
僕は人差し指で小戸森さんのおでこをつついた。
「欲張りさんだな」
「はああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
顔を覆ったまま、草むらを転がる小戸森さん。
「こ、小戸森さん……?」
「ラブが……ラブが攻めてくる!」
よく分からないことを叫びながら荒ぶっている。
やがて、少し落ち着いたらしい小戸森さんは身体を起こした。息を整えながら、顔に張りついた黒髪を手ぐしで整えている。
僕はわくわくしながら尋ねた。
「で、どうだった?」
「なにが?」
「いや、だから、セリフ」
「セリフ……?」
小戸森さんは眉をひそめる。
「いま僕が言ったセリフ。よく勉強してたでしょ?」
「え、待って、なに? どういうこと?」
「オススメのラブコメを読んで、セリフを暗記したんだ。結構すごくない?」
小戸森さんはぽかんとした。その表情が徐々に驚愕の色を帯びていく。
そして、爆発した。
「はああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
口をあんぐりと開けたまま固まっている。
「小戸森さん?」
彼女は僕を指さした。
「え、じゃあ、いま言ってた歯の浮くようなセリフは……」
「漫画の引用だけど……」
僕を指していた指先が震えたかと思うと、力を失ってぱたりとふとももに落ちた。
小戸森さんは冷凍サンマみたいな目で斜め下を見ている。
――あ、この顔、久しぶりに見たな……。
でも彼女がこの顔をするときは、だいたい僕がなにかをやらかしたときだ。なにをやってしまったのだろう。
――僕がラブコメのセリフを引用して、途中まではうまくやりとりできていたのに、急に読んだことのないラブコメのセリフを小戸森さんが引用してきて……。
いや、待てよ。もしかして最初、うまく引用で会話できていたというのがそもそも勘違いだった……?
「と、いうことは……」
僕は素で歯の浮くようなセリフを吐いていた、と小戸森さんに思われていた。
「うおお……!」
思わずうめいた。なんてことだ。これは恥ずかしい。顔を覆って転げ回りたい気分だ。
小戸森さんはふらりと幽霊のように立ちあがった。
「そう、そうね。わたし先週、ラブコメを勉強しておけって言ったもんね。園生くんは素直にそれを実行しただけだもんね。園生くんはなにも悪くない。なにも悪いことなんてありゃしません」
――ありゃしません、って……。
ふらふらと歩いていく。
悪くないと言われても、あの落ちこみようを見せられると罪悪感にのしかかられてしまう。
「小戸森さん」
「なに……?」
生気のない顔で振りかえる。
僕ははっきりと言った。
「僕は君のことが好きだ。この事実に変わりはないから」
彼女はなにかを言おうとしたが、言葉を飲みこんでしまった。
そして改めて言う。
「いま『それもなにかの引用?』って尋ねようとしたの。でもやめておく」
「どうして?」
「『シュレーディンガーの猫』って思考実験があるでしょ? 箱のなかの猫が生きているか死んでいるか、観測しなければ重なりあった状態、ってやつ。それ」
「……?」
「尋ねれば『引用』と観測されてしまうから」
小戸森さんは「じゃあ、また明日」と少し疲れたような顔で手を振り、去っていった。
――よく分からないけど……、尋ねてくれたら、
「引用じゃないよ、って答えたのに」
僕は彼女の背中に小さくつぶやいた。
高嶺の花の小戸森さんは魔法で僕をしもべにしたがる 藤井論理 @fuzylonely
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