禁じられた戯び

三津凛

第1話

獣の戯れ。

私がほんの少し大人の世界を除いてしまった時に浮かんだ言葉はそれだった。猿にも劣る、獣同士の戯れだ。

寝苦しかったある夜に、両親の寝る部屋の襖を開けようとしたところで母のうごめく気配がした。私はなぜかその時、今は入ってはいけないのだと耳先で悟った。

男と女の息遣いがする。父親と母親のものではない吐息と衣擦れの音がする。向こうも私の気配を感じているのか、ひとつ物音を立てたきりまるで疑うようにひっそりと静かになった。

私はじっとして気まずい静かさをやり過ごした。しばらくすると、緊張の糸が切れたのか、我慢できなくなったのかは分からない。再び、あの声がした。

見てはいけない、知ってはいけないことが肉親同士の間にもあることを勘付いてはいた。けれど、その時私はどうしても膨らみ切った好奇心を抑えられなかった。いやらしい好奇心。男の勃起したあれのように私の好奇心は膨らんではち切れそうになっていたのだ。

それで、私は初めて男女の交合を見てしまった。

獣、獣だこれは。

薄明かりの中で、柔らかな肉と硬い樹木のような筋肉が上下に重なり合って悶えている。無我夢中で、お互いを喰いつくそうとしているようだった。

私は男と女になってしまった両親を目の当たりにして、急に哀しみがこみ上げてきた。そのまま乱暴に襖を閉めて、わざと音を立てて廊下を走った。そのまま庭先に転がり落ちて、胃の中に残った夕飯を全て吐いた。

母が母の顔をして作ったそれもが、なにか隠微な愛撫の証のようで私は目を背けて泣いた。

そのまま部屋には戻らず、ただあてもなく裸足のまま夜の街を歩いた。ほんの少し歩いたところで、電柱の下で割れていたガラス瓶の破片で足裏をざっくりと切った。私はその痛さに目が醒めて、身震いすると家へ帰った。

家へ帰ると、両親は普段通り親の顔をしてそこにいた。

私は何も言わなかった。

両親も、何も言わないままだった。

あれ以来、両親が獣になるところはどんなに夜が深くなった時でも見たことがなかった。まだ8つだった私は、あの意味がよく分からなかった。それでも、それがなにか子どもには禁じられたものであることは分かった。大人が獣に見えるほどの、禁じられた戯びだ……。



あの時見た光景のせいなのか、私は周りが男女の付き合いをする頃になってもなかなか馴染めなかった。

手を伸ばされると、反射的に引いてしまう。この視線や触れ合いの先に、重なり合った肉の感触があるのだと思うと、あの時吐き出した吐瀉物が蘇る。不定形な肉の塊、薄緑色の生暖かい粘液。足裏を切ったガラス瓶の破片たち。なにも言わなかった夜。なにも言えなかった夜。

それでも、高校3年の頃に仲の良くなった男の子がいた。他の男の子たちと違って、女の子にも恋愛にも興味がなさそうで口の悪い何人かの同級生たちは「ゲイなんじゃない」と言っていた。

私はむしろそうあってくれた方がいいとさえ思った。お互いに、男と女として重なる余地のないもの同士なら、打算もなにもなく付き合えると感じたからだ。ピアノが物凄く上手い子で、いつもバッハのなんとか協奏曲を音楽室で練習していた。

なんとなく、バッハの音楽は厳格な修行僧のようで私は勝手にそれを弾きこなす彼にも幻想を抱いていたのかもしれない。次第に彼の方からこちらに距離を詰めてきて、私が引くとまるで積年の恨みをぶつけるように言われた。

「お前って、いつも醒めてるよな」

このまま友達のままそっとしておいてくれればいいのに、手を伸ばして勝手に期待をして幻滅して、離れていく。

醒めてるんじゃない、怯えてるんだ。

「だって、あんた子どもっぽいんだもん」

私は不本意ながらも、相手が思い描いている通りの役割を演じた。

中学の時も、高校の時も私は誰とも付き合わなかった。付き合えなかった。



教室という枷がなくなった大学になってから、私はようやく楽になれた。そらもほんの少しの間だけで、猛烈に誘われたバドミントンサークルの人間関係にうんざりとしてしまった。

ガリ勉だと揶揄された高校時代を振り切りたくて、誘われるまま入ってみたもののバドミントンは口実みたいなもので、誰も彼もがサークル内の恋愛に夢中だった。私は3年生の先輩に目をつけられて、すぐに嫌になってしまった。

相変わらず考えることはちっとも変わらないようで、いつ辞めようかと私はそればかり考えるようになった。まともにバドミントンをすることなく入学して2ヶ月経ち、意を決して部室の扉を叩くと私に迫っていたはずの先輩が私と同じ1年生と絡み合っている現場を見てしまった。2人とも、滑稽だった。

猿じゃないんだから。

私は思わず言いかけて、駆け出した。何か言われたような気がしたけれど、無視してそのまま走り続けた。

吐き気がこみ上げる。

人間ってやつは、ああいうことをしなければいつか死んでしまうのだろうか。それは泳ぎ続けなければ死んでしまうマグロよりも、哀れに思えた。

疲れてようやく脚を止めた先で、微かに調子の外れたピアノの音が聞こえてきた。体育館の端の方からそれは聞こえているようだった。

そっと扉を開けると、髪の短い細いシルエットが微かに身体を揺らしながらピアノを弾いている。私は高校時代のあの男の子を思い出した。そろそろと近づいていくと、一見性別不詳のその人が紛れもなく女の子であることに気がついて、私は安心した。

向こうも私の気配を感じたのか、手を止めて振り返る。

「それ、なんの曲?」

「バッハのイタリア協奏曲」

その子は人懐っこい笑みを浮かべた。

「へぇ。高校にも、バッハをよく弾いてる男の子がいたけど暗い曲ばかりだったから、なんだか意外」

「ふうん。それって元カレかなにか?」

私は黙って首を振った。その子はそれ以上は聞かず、再び鍵盤に指を並べる。

「第3楽章が好き」

そう言って、その子は走るような音楽を弾き始める。靴に羽がついたように飛び回る。

「ねぇ、名前はなんていうの?私は悠里」

器用にも弾きながら悠里は話しかけてくる。私はピアノの音に紛れながらも、名前を教えた。

悠里は楽しそうに笑った後で、まるで狩人のような目つきになった。まだなにも知らなかった私はその瞳を単純に色っぽいと思った。

弾き終わった後で、悠里は傷だらけのアップライトピアノを撫でながら呟く。

「私ね、体育館のピアノとホテルに置いてあるピアノが一番可哀想だと思うわ」

「どうして?」

「調律はいい加減だし、みんな好き勝手に弾いてくじゃない。ホテルなんて、演奏しても酔っ払いばかりだし酷いと酒なんかこぼしてくしね」

悠里は立ち上がって、私の肩に手を置いた。それがあまりに自然な調子でされたものだから、私は距離感の近さに嫌悪感を抱く前に親近感を覚えた。

「ねぇ、人を好きになったことはあるの?」

「ない」

私は下を向いて呟く。

「私も似たようなものよ」

「そうなの?」

「まあね」

悠里は微妙に誤魔化して笑った。私はそれを、都合よく解釈した。この人も私と同じ人間なのだと、安心したかったのだ。

「高校の時に、男の子に誤解されたことがあるの。ピアノの上手い子で、あんまり恋愛には興味なさそうな子だったから安心してたらね……」

「あはは、それも女の気を引くためのふりだったんじゃない?」

「そうかも」

私も頷いた。

まだほんの子どもだったのだ。

「その子もね、よくバッハを弾いてる子だったなぁ」

私は思い出しながら、悠里の目を見た。

悠里は無言でじっとこちらを見つめた。

「あなたって、騙されやすそう」

「え?」

「だから、可愛いって思っちゃうんだけどね。私も本当に誰かを好きになったことはないけれど、あなたのそれとは少し違うわ」

悠里は自嘲気味に呟いて、初めから私なんていなかったように歩き出した。細い背中が遠ざかっていくことに、私はこれまで感じたことのない強い感情を抱いた。

「待って」

悠里はまるで知っていたように振り返る。不思議な魅力だった。魔力といった方がいいのかもしれない。

もう少し、悠里と一緒にいたいと私は思った。



悠里もあのろくでもない先輩と同じ3年生だったことに、私は驚いた。

「ごめんなさい、馴れ馴れしくて」

「それは私の方だから」

悠里は飄々として笑う。悠里は私が未成年と知っていながら平気で酒を勧めてきた。でも私も、それに乗った。

無理やり飲まされたわけでもないのに、私はジュースのような味の酎ハイを3杯飲んだところで足腰が立たなくなった。

悠里はそれも見越したように、私の肩を抱くと、

「今夜は私の下宿先に泊まってけば。なんにもしないから」

ふざけて言った。

「何かされたら、噛みついてやるから大丈夫」

私も半分夢心地で調子を合わせた。

本当に何かが起こるなんて、その時の私は思ってもいなかったのだ。



悠里の敷いた布団に私は倒れ込むと、そのまま寝息を立てた。

どれくらい眠ったのか、再び目を開けるとそこは闇だった。ふと、8つの時に目の当たりにした両親の交合を思い出す。あの時の吐き気と、口内に広がった胃液の酸っぱさ、ガラス片を踏んだ足裏の痛さが立ち昇る。

その合間を縫って不思議な感触が身体を這い回る。それが快感だと気がつくのにそう時間はかからなかった。

「なに、してるの……」

「……起きたの?」

悠里が私の胸元にうずくまって、舌を這わせていた。

私は嫌悪感よりも、女同士でもこんなことをするのかとそちらの方に驚いた。

生暖かい感触に、私は顔をしかめる。

「ねぇ、これって……」

悠里は乱暴に唇を塞いだ。話してはいけないのだと、私は思った。

両親の姿を思い出しながらも、私は自分もまた獣になりつつあることを、されつつあることを予感した。

私は身体を起こして、悠里の中に飛び込んだ。

大きな女の身体が広がる。大地に寝転ぶように、女の中に横たわる。

「私ね、子どもの頃に両親がしてるところを見たことがあるの。気持ち悪くて……なんていうか」

「トラウマ?」

「うん」

悠里は少し手を止めて私を少しだけ抱きしめた。

「面白い話があるの。生まれ変わりって、あるじゃない」

「うん」

「人が生まれ変わりを決める瞬間って、男女のセックスを目の当たりにした時なんだって……仏教の説話か何かであった気がするんだけど」

悠里は笑った。

私は悠里の身体に飛び込みながら、見よう見まねで愛撫をしてみた。

本能なのか、無意識なのか、私の指と舌は自然にうごめく。

悠里は初めは笑い声を立てて、その後は泣き声のような声をずっとあげ続けた。

汗と粘液に塗れながら、私はあの吐き気や足裏の痛さの記憶が次第にどうでもよくなっていくことを感じた。

不意に悠里がまだなにも入れたことのないところに、指を挟んだ。私は微かな痛みに眉を寄せる。

「大丈夫、すぐによくなるから」

「うん……」

会話はそれだけだった。

私は波のようなそれに、目を閉じて身体を任せた。



眼が覚めると、悠里はまだ眠っていた。硬い陶器を思わせる硬質な寝顔に、私は昨夜の悠里を重ねようとする。そっとキスをしようとすると、悠里は寝返りを打ってあらぬ方を向いた。私はそのまま立ち上がって、下宿先を出た。

悠里と別れた後に降り立った朝の街は、靄の中に佇んでいた。

たったあれだけで、自分が大人になれたとも思わない。思い出すと、何かが滲む。

私の中でも、何かが生まれ変わりの機会をうかがっているのだろうか。へこんだ腹を撫でる。

なにも変わらない。

それでも何かを喪くしたような、もう一つ余分なものを抱え込んでしまったような感じがする。

もう裸で絡んでいた両親の姿は遠くに霞んでいた。

私もまた、禁じられた戯びの味を舐めてしまったからだ……。

悠里が男とも女とも頓着せずに誘う人間であることを私が知ったのは、そのすぐ後だった。悠里に抱きかけた恋心はすぐに萎んで、かけらもなくなってしまった。


靄の向こうから、新しい世界が皮を剥く。


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