新しい朝
フカイ
掌編(読み切り)
「スージー?」
と、呼ぶ声に彼女は顔を上げた。
「スージー・ダイアモンド、…そうでしょ?」
長い髪を三つに編んで、永遠の少女のようなその中年のウェイトレスが訊く。年の頃は30を半ば過ぎているだろう。あるいは彼女と同い年くらいなのかもしれない。ほっそりした華奢な体つきと、そばかすの散った頬。お世辞にも美人だとは言い難いが、いかにも、この街の人間である雰囲気がする。
シアトル。
この街に足を踏み入れるのは何年ぶりだろう。10年、いや、15年。
想い出が透明になるにはじゅうぶんすぎる時間が経った。仕事柄、国中を渡り歩くような生活を送っている彼女だが、この街にだけは、立ち寄りたくなかった。いつもその理由を訊かれると、彼女は決まって、こう答えることにしていた。
『あの街は、雑誌がはやし立てるほどお洒落でもないし、ただ寒いだけの、寂れたところだからよ…』
物憂げな彼女の表情のせいか、あるいは人に訊かれたくない何事かを背中に押しやっているからなのか。質問者は誰もが彼女の言葉を信じないくせに、決してその先の理由を尋ねようとしなかった。
「?」。
彼女は小首を傾げて、ウェイトレスを見た。胸に銀色のトレーを抱えて、ウェイトレスは彼女の気分とは全く関係なく続ける。
「あのひと達は、元気?」
唇の端をほんの少しだけ引っ張って、彼女はきわめて社交的な微笑を作り、そして、口を開いた。
「その名前で呼ばれるのは、久しぶりなの」
応えて、ウェイトレスは続けた。「今はなんて?」
「ミシェル。そう呼んで下さる?」
「いいわ、ミシェル。でもどうして? ステキな名前なのに。ダイアモンドって」
彼女は苦笑して、答えた。「この街を出たの。ずいぶん昔にね」
「今は?」
「とある歌手のマネージャーをやってるわ。国中をバスや飛行機を乗り継いで暮らす、ジプシーのようなものよ。でも久しぶりにこの街へきたからね。すこし、こうして懐かしい夜の街を散歩しているのよ」
ウェイトレスは、ひとつ大きく息を吸うと、ため息を洩らした。「―――残念」
彼女はこの身勝手な女に、何故か好感を抱いている自分に気づきつつあった。
「どうして?」
「もう、歌わないのね? あのひと達と」
そう言って、ウェイトレスが投げた視線の先を、彼女は自然に追ってしまう。
そこには、あの日の自分がいた。
シアトル。
彼女はこの街で生まれたわけではない。もっと南の田舎町で生まれた。そして、いつかこの街に流れてきた。この街にたどり着くまでの間、様々な職業を転々としてきた。そしてそれは、いつも夜の間だけしか続かなかった。そういう仕事だし、そういう生活だった。だから昼の間は、彼女はベッドの中でいつもひとりでいた。その日々のなかでの正気とは、ワインとアスピリンの間の、ほんのつかの間を意味していた。
この街に来るまでは。
この街で、彼女はほんとうの自分を見つけた。それは長い人生のなかで、ストロボが
そこではアスピリンは必要なく、ワインさえも、彼女に陶酔をもたらすことはなかった。なぜなら彼女は、シンガーとしていられたからだ。あのふたりの小粋なピアニストの兄弟を従えて、背中の大きく開いた赤いドレスを着て彼女は夜に歌った。
恋や愛や、薔薇や想い出を。
街道沿いのそのダイナーの壁は、一面様々なミュージッシャンの肖像写真で飾られている。
国中に知られたビッグネームのサイン入りのゴールド・レコード。地元のクラブで歌う、よりファミリアーな歌手やプレイヤーたちの白黒写真。そして彼ら直筆のサイン。その中の片隅に、彼女はいた。あの兄弟と伴に。
彼女はまだ若く、そして何より
でぶの兄は、堅実なピアニストだった。郊外に一軒のちいさな家を構え、娘と妻と、そして弟を養っていることが、彼のささやかな誇りだった。ピアノの腕は必ずしも一流とは言えなかったが、それを補ってあまりある誠実さと営業力は、弟とふたりのバンド、『
そして、その弟。忘れもしない、ジャック・ベイカー。
彼女は彼のベッドで2度ファックをして、そして何もかもを彼に許した。シアトルに至るまでの流転の日々と、シアトルに来てからの幸福を、彼に全て打ち明けた。後にも先にも、そんな男は彼ひとりだった。
それはきっと、彼もいっしょだろう。天才の名を欲しいままにした少年時代から、ピアニストとしての溢れんばかりの才能を持ちながら、彼は
ふたりはまるで似たもの同士だった。
ふたりはあの大晦日の晩、初めてふたりきりでステージを踏んだ。会場は古い巨大なリゾートホテルの、ボウル・ルーム。高い天井と、広いステージ。三桁を数える観客は全て正装で、シャンペインと、カックテイルがすべての人の手の中にあった。そして、兄は急用が出来て、街へ帰ってしまっていた。
そこでふたりは
世界が初めて、ふたりに微笑んだ夜だった。なんの打ち合わせもないまま、ふたりは奔放なプレイを続けた。
彼女は歌い、彼はすきとおるような演奏を続けられた。何時間も、観客達はダンスし、ボーイ達までもが、その夜に、仕事を忘れて酔っていた。カウントダウンと、ニューイヤーの号砲がなり、パーティーは最高潮に達した。誰もが新年を祝いあい、肩を抱き合った。
ステージの上でのふたりはそして、小さなキスを交わした。ステージが終わった後、ふたりは初めて朝までひとつのベッドで過ごした。
「もう、歌わないのね」
念を押すように、そばかすのウェイトレスが訊き返す。
彼女は返答に窮し、ウェイトレスを見つめ返した。ウェイトレスは、話し始めた。
「あの日、雨が降る晩だった。弟のほうがこの店に来たわ。彼は、落ち込んでた。何があったかは訊かなかったわ。まるで雨に打たれた仔猫みたいにぐしょ濡れで、お酒のにおいがした。あたしはコーヒーを出して、カウンターのこっち側で黙って彼のことを見てた。だって他に何ができる?
やがて彼は眠ったわ。店の客が誰もいなくなって、閉店の時間が来ても彼は目覚めなかった。でも、あたしは彼のことを起こさなかった。
起きたら、あったかいコーヒーを一杯サーヴするんだ、そう思って、小声で歌を口ずさみながら、待ってた。
やがて、彼は起きたわ。そして眠たそう目をこすりながら、あたしの煎れたげた、あったかなコーヒーを飲んでた。それから言ったわ。
『何時に終わる?』って。物欲しそうな目をしてね。だからあたし言ったの。『もう終わってるんだ』って。『あんたが今夜最後の客よ』って。
彼、あたしを抱こうとしたのね。その晩。あたしには分かった。あたしも、彼に抱かれてもいいとさえ思った。
でもね、ほんとうは彼、そんな人じゃなかった。ただふらふらっとしただけ。ただ、一瞬自分を見失っただけ。だって、そのあとあの写真を見てから、彼、言ったもの。『気をつけて帰れ』って。ホントの自分、取り戻したみたいに、いつものまぶしそうな目で言ったもの…」
後の言葉が続けられなくて、ウェイトレスは急に立ちすくんだ。
壁に貼られた何枚ものミュージッシャン達の視線を、彼女は感じた。そのなかで自信ありげにほほ笑んでいる、若かりし頃の自分。そしてあの兄弟を見た。
ーーーずっと、その時が終わってしまったのだと思っていた。ストロボのライトが輝くのは、一瞬だけなのだと。あのまばゆい時代を過ぎて、自分はずっと人生の消化試合を過ごしているつもりでいた。
でも。
あの白黒写真の中の彼女、スージー・ダイアモンドは、不敵に笑う。それでいいの、ミシェル? ほんとうに、それでいいの?、と。
彼女はゆっくり立ち上がると、そのウェイトレスの小柄な肩を抱いた。
髪に顔を埋め、そして、「ありがとう」と、耳元に囁いた。
テーブルの上に小銭を置くと、彼女は歌い始めた。
あの日、歌えなかった歌を。
彼の家に行ってみよう、そう思った。
もういないだろう。きっとどこかへ引っ越してしまっただろう。そして、あの日の夢を追い続けているだろう。こんなになってしまった私を、もう抱いてはくれないだろう。でもいい。それでもいい。消えてしまった時間の埋め合わせをするのではない。失ってしまった自分を取り戻すのではない。何かを今から新しく始めるために。過去に区切りをつけて、前を向いて歩いてゆくために。
彼女はそうして、店のドアを開け、夜明けの街道を歩き始めた。
こんな歌を歌いながら。
わたしのすてきなヴァレンタイン
おどけてかわいいヴァレンタイン
あなたは笑わせる わたしの心を
いつまでも、わたしのヴァレンタインでいて
いつまでも!
シアトル。
想い出だらけのこの街で、夜が明ける。
彼女にとっての新しい朝がはじまろうとしていた。
新しい朝 フカイ @fukai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます