Ⅳ.“未体験ゾーン”へ

 芹沢が大急ぎでマンション前に戻ると、案の定あの中年女性は消えていた。

 淑恵たちの乗った車を追った二宮も戻ってきていない。随分と遅れて追跡に向かったものの、うまく追いついてそのまま追い続けているのかも知れないし、そこは少し期待していた。


 二十分前――


 マンションから出てきたあの中年女性――二宮の調査では中大路の母親ということだ――が淑恵と同行していた大柄の男に車に引きずり込まれそうになっているところを助けようと、芹沢と二宮はやむを得ず自分たちの乗った車を降りた。素早く、静かに駆け寄り、彼らがまだ自分たちに気づいていないうちに彼らのそばまで来ると、まずは中年女性の肩を掴んでいた男の右腕を芹沢が振り解き、後ろに回して言った。

「ちょっと、何してるんですか」

「――! 何やお前ら」

 男は静かに言った。痛がってはいなかったが、芹沢に動きを止められていた。

「ご婦人、嫌がってるじゃないですか。手荒な真似はやめましょうよ」

「うるさい、離せ――!」

 そのあいだに二宮が中年女性を男から引き離し、抱きかかえるようにしてマンションの前まで連れて行った。同時にそばで戸惑っていた淑恵にも声をかけた。「あなたも」

 ところがその時、連中の車から残る三十代と見られる優男やさおとこが出てきて、淑恵の手を引っ張ると素早く車の後部座席に押し込んだ。

「あっ、ちょっと」

 二宮が言うが早いか、優男はドアを閉めて二宮に向き直り、彼の胸を勢いよくドンと突いた。

 二宮は思わず後ろへ後ずさりした。その拍子に中年女性にぶつかり、女性はよろけて尻もちをついてしまった。

「あっ、すいません、大丈夫――っつっ!」

 中年女性を抱き起こそうとして屈み込んだ瞬間、二宮は後ろから首の付け根を強く殴られた。前のめりに崩れ落ち、思い切り膝を打った。突き飛ばされた上に殴られる、思ってもいなかった失態に彼は焦り、即座に反撃ができないでいた。緊迫した状況を理解はしていたが、やはり頭のどこかで仕事ではないからと油断していたのかも知れない。

 その様子を見て、大柄の男を押さえつけていた芹沢が仕方なく男を突き飛ばし、二宮を襲った優男を後ろから羽交い絞めにした。

「何やってんだよ、一人はノルマだぜ」芹沢は二宮に言った。

「す、すいません――」二宮はようやく立ち上がった。

 そのあいだに車に戻っていた大柄の男がエンジンをかけ、そのまま優男を残して発車した。

 するとその車は十五メートルも進むと急ブレーキと共に反転し、芹沢と優男に向かって突進してきた。

「――! ヤバい――」芹沢は優男を突き飛ばし、自分も思い切り飛び退いた。

 車は猛スピードで芹沢たちのすぐそばを通り過ぎ、そのまま走り去った。

「追え!」芹沢は二宮に言った。

「は、はい」

 二宮は大急ぎで車に戻り、急発進で出ると逃げた車を追った。かなりリードを許してはいたが、近いところの信号で引っかかってくれていれば望みはある。

 芹沢は優男に振り返った。彼も当然逃げていた。車の逃げたのとは反対の方向に走りながら一度こちらに振り返り、すぐに向き直って一目散に逃走した。

 芹沢はチッ、と舌打ちするとマンションの前で座り込んでしまっている中年女性に振り返り、彼女に近づいた。

「大丈夫でしたか」

「え、あ、はい」中年女性は力なく答えた。

「申し訳ないですけど、ここで待っててもらえませんか。まるで事情が飲み込めないでしょうけど、お願いします」

「え、あ、ええ――」中年女性はあやふやに頷いた。

 芹沢は頷いた。それから優男が逃げていった方向に向き直って、ため息混じりで言いながら走り出した。

「……追いつけっかなぁ……」


 そういうことがあって、結局芹沢はここへ戻ってきた。優男を見失い、しかしさほどしつこく追い続けることはやめにして、中年女性が待っていてくれる方に望みを切り替えて急いでやってきた。ところがそれはやはり過ぎた願いだった。

 芹沢は携帯電話を取り出し、二宮の番号に掛けてみた。運転していると出られないだろうから、どちらかと言うとそっちを期待した。

《――はい》

「……出ちまったか」

《すいません、ダメでした》

「今どこ?」

《もうすぐそちらに戻ります。あの男はどうでしたか?》

「こっちもダメ」芹沢はため息をついた。「おばさんも消えちまってた」

《……ボクがもたついたせいですね》

「あん? 反省会が始まるのか?」芹沢はいらついた。「俺はしないぜ。寒い中走って、凍えそうだ」

《いえ、やめます。すぐに戻ります》

「だろ」

 電話を切った芹沢は両腕をさすりながら歩道の街路樹に歩み寄り、もたれかかって通りを眺めた。

 閑静な住宅街は今日も凛とした静寂に包まれていた。透き通った冷気と繊細な日差しがあたりを自由に行き来していて、クリスマスの時期に相応しい厳かさすら感じさせた。これはこれで少しのあいだなら味わっていたいような気もするが、俺はこんなところで何をやっているんだろうと芹沢はやっぱり情けない思いでいた。

「――おや? こりゃたまげたな」

 後方から声がした。同時に自転車のブレーキの音がした。

 芹沢は振り返り、声の主を確認すると顔をしかめ、ゆっくりと項垂れた。

「……あー、もうめんどくせぇ」

 声の主は、三日前に因縁をつけられた制服警官だった。警官は自転車を降り、妙ににやにやしながら近づいて来た。

「今日は独りかい」

「答える義務はねえな」

「またか。どこや、滋賀か」

 芹沢は無視した。

「同業者やろ」

「分かってんだろ。だったら答えてもらえるなんて思うなよ」

「生意気な。大阪府警やな」

「……感じ悪ィ」芹沢は苦々しく吐き捨てた。「プライべートだよ。いいからあっち行ってくれ」

「ストーカーか。ここに住む住人の」

 芹沢は再び無視をした。二宮が現れるのが余計に遅く感じられた。

 制服警官は芹沢の目の前に立ち、ぐっと顔を近づけると胸ぐらを突っついた。

「おい、穏便に言うてるうちに素直に答えろよ。今やったら話によっちゃ見逃してやれんこともない」

「その台詞、そっくりそのまま返すよ」

 芹沢は平然と言って不敵に笑った。「じゃなきゃ後悔するぜ」

「この――!」制服警官の顔が赤くなった。

「ちょっと待った」

 街路樹の後ろから声がして、二宮が現れた。

「何や、おまえは」

「神奈川県警。プライベートだけど」二宮は静かに言った。「随分と下品な職質だな。京都らしくない」

「……おい、ものの言い方に気をつけろよ。おまえも――」

「プライべートとは言ったもののボクの場合は形式上のことで、上司命令で来てる」

 二宮は制服警官の言葉を遮った。「だから、今のうちに引き下がっとかないと、ご近所トラブルで済まなくなると思うけど。えっと……上賀茂かみがも署地域課の平林ひらばやしさんだっけ」

「!‥‥‥‥‥‥」

 平林と呼ばれた制服警官は目を見張った。しかしゆっくりと芹沢から離れると、実に忌々しそうな仏頂面で停めていた自転車まで戻り、最後に二人を睨みつけてから黙って去っていった。

 芹沢はふんと鼻を鳴らすと二宮に視線を向けた。「遅ぇよ、出てくるのが」

「あ、分かってました? 戻ってきてたの」

「あすこのカーブミラーに映ったからな」

 芹沢は通りの向かい側に立つ建物のシャッター脇にあるカーブミラーを顎で示し、そこに映った車に向かって歩き出した。

「すいません、今の巡査の人定にちょっと手間取ってたんで」

「……恐れ入るよ」

 芹沢は肩をすくめた。

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