第四章 四日目/十二月二十一日

Ⅰ.リリーフエース登板


 朝はすぐにやってきた。

 ベッドに入ったのが二時前で、起きたのは六時だった。疲れていたはずだが、やはりどこか興奮状態だったのか、眠りは浅かった。


 支度を済ませ、部屋を出ようとしていると、ジャケットのスマートフォンが鳴った。

 二宮は発信者を確認し、即座に耳にあてた。

「おはようございます」

《朝早くからごめん。もう起きてた?》

「今からホテルを出るところです」

《もう? 早いのね》

「時間との勝負だって、警部も言ってたでしょ」

《そう。明日には婚約者を彼女の元に返してあげないと》

「で、用件は?」

 二宮はドアを開けて廊下に出た。

《ゆうべあなたが大阪に向かったあと、昨日、林淑恵の会社で応対に出てきたあの女性から連絡があったの》

「何を言ってきたんです?」

《社長はどうも京都方面に用があるみたいだ、と》

 二宮は短くため息をついた。「……想定内ですけど」

《わかってるわよ。あなたは慶福堂のことを言ってるんでしょ》

「違うんですか?」

《違うとも言い切れないし、そうだとも言い切れないわね。ただ、他にちょっと気になることを言ってた》

「と言うと?」

 さっきから自分は質問ばかりしているなと思いながら、二宮はエレベーターホールまで来た。

《横浜を発つ前に淑恵が彼女に言ったそうなの。『京都の寒さは経験があるけど、山を越えた向こう側は未体験ゾーンだ』って》

「山の向こう側? どこの山のことですか?」また質問。

《聞かなかったそうよ。京都は盆地だから、周りを山に囲まれてることには違いないし、間違ったことは言ってないわけでしょ。だからその時はそれ以上は掘り下げて考えなかったって》

「だけど今になって思い出したんだ」

《わたしたちが現れたからよ。昨日》

「なるほど」二宮はエレべーターに乗り込んだ。「山を越えるってことは、隣県に行くってことですかね」

《方向によるわ。東西なら隣県だけど、北だと京都府のままだし》

「未体験の寒さを味わいに行くってニュアンスですよね」

《そんな感じ》

「どこなんだろ」

《そこが分かれば、淑恵の関西行きの目的──つまりは中大路さんの行方にぐっと近づけると思うの》

「芹沢さんに訊いてみたらどうです?」

《……わたしが訊いて、またキミに伝えるの?》

 明らかに一条の声に雲がかかった。

 二宮はしまった、と思った。「あ、いや、ボクが連絡します」

《わたしと芹沢巡査部長の間では、電話なんて日常だと》

「いえ、そんなことは」

 自分から振ってしまったこととはいえ、面倒くさいなと二宮は思った。「すいません。ボクの失言ですね」

《……いいわ、分かった。彼に訊いてみる》

「いえ、ボクから訊きます。番号教えていただけますか。それとは別にボクなりに調べてもみますし」

《例のネットワーク?》

「ちょっと違いますけど……ネットを使うのは同じです」

《……ふうん。よく分かんないけど、その方が早いと思う》

 一条は疲れたように言った。

「……すいません」

《どうして謝るの?》

「何だか気を悪くさせてしまったみたいで」

《別に。仕方ないわ》

 そう言うと一条は何故かふっと笑った。《面倒くさいわよね》

「え、いえ別に、その……」

《いいわよもう。時間がないんでしょ》

「……そうでした」

《芹沢巡査部長の番号は、このあとメールするわ》

「お願いします」

 二宮はエレべーターを降りた。通話を終えたばかりのスマートフォンを引き続き操作しながら、ホテルマンが一人だけのフロントに向かった。

 チェックアウトを済ませると、磨き上げられたガラスの自動ドアをくぐって、動き始めたばかりの街に足を踏み出した。 

 そのときちょうど一条からメールが来た。十一桁の番号だけが記された、何とも素っ気ないメールだった。

 その番号をクリックして、二宮は電話を耳にあてた。



 洗面所から戻ると、キッチンカウンターの携帯電話が鳴った。

「──はい」

《芹沢さんですか》

「……ああ。二宮刑事」

《おはようございます──っていうか、早すぎましたか》

「いいや。もうとっくに起きてた」

 芹沢はリモコンを手に取り、リビングのテレビを消した。「パワー全開。仕事なんか行きたくないね」

《朝から元気なんですね》

「冗談だよ」と芹沢は笑った。「無理矢理起きた。ゆうべの最後の酒が余分だったかな」

《すいません》二宮の声も笑った。

「それで?」

《ちょっとお訊きしたいことがあるんですけど。お急ぎですか》

「大丈夫」

 芹沢は壁の時計を観た。七時十二分だった。

 二宮が言った。

《京都から山を越えた向こう側って、どこだか分かりますか》

「向こうって、どっち側?」

《それが分からないんです》

 そう言うと二宮は一条から聞いた話をした。芹沢は着替えのために寝室に向かいながら聞いていたが、やがて二宮が話し終えると、いくらか確信めいた口調で言った。

「──滋賀じゃねえかな」

《というと?》

「京都の寒さは経験済みって言ってることは、今回行くところはあくまで京都じゃないってニュアンスを感じるからさ。そうなると北は京都のままだから違うし、西方面の大阪は京都ほど寒いってイメージはないけど、逆に滋賀ならアリだと思う」

《滋賀県って、そんなに寒いんですか》

「ある意味雪国」

《……なるほど。じゃあもしかするとそっちへ行く可能性があるってわけですね》

「それが今回の件に関係してる行動ならいいけど」

《ええ。でもまあ、他に有力な手がかりがない限り、何にでも食らいついていきますよ》

「助かるよ」芹沢は思わず頭を下げた。「こっちも身体が空いたらすぐに連絡する」

《分かりました》

「そっちは今からどうするの?」

《レンタカーを借りて、まずは林淑恵の実家に向かいます。そこで彼女がどこに向かったのか、他にも中大路氏の行方に関する何らかの手がかりを得られればと思ってます》

「当然、あんたに頼れるのは今日だけなんだよな?」 

《そうですね。残念ながら》

 二宮は申し訳なさそうに言った。《警部に手持ちの案件全部任せてきたんで》

「あ、それで思い出した」と芹沢は言った。「ずっと気になってたんだけどさ。あんたがこっちへ来ることになったのって、あんたからの申し出? それとも一条警部に頼まれて?」

《もちろんボクからです。警部がそんなこと──》

「言うわけねえか」

《ええ。分かるでしょ?》

「……まあな。彼女に限らず、誰だってそうだな」

《さすがに、ボクがここまでするのは立ち入りすぎかなとは思いましたけど……事情を知った以上、知らん顔できなくて》

「職業病だ」

《あと……ボクの極めて個人的な好奇心がわいてきて》

 それがどういった内容の好奇心なのか、芹沢には想像がついた。それで、ここはもう一気に決着を付けてしまった方がすっきりすると思った彼は、あえて訊いた。

「どんな好奇心?」

 すると一呼吸置いて、二宮が答えた。

《警部の彼氏がどんな刑事なのか、見てみたかったんです》

「なるほど」と芹沢は落ち着いた口調で言った。「それで? どうだった?」

《どうって……》

「俺はどんな刑事よ?」

《……噂通りのイケメンでした》

「昨日も言ってたな」と芹沢は小さく笑った。

《言われ馴れてるみたいですね》

「うん」

《なんか腹立つなぁ》

「それも聞き飽きてる」

《……そうですか。それじゃあ、時間もないんでそろそろ仕事に掛かります》

「よろしく頼むよ」

 芹沢は電話を切ると、ふっと笑って呟いた。

「……恋のライバルね」




 出勤した刑事部屋のデスクに山と積み上げられた贈り物の包みを呆然と眺めていると、コーヒーを手にした鍋島がやって来て言った。

「どうすんねんそれ」

「どうもこうもねえよ。俺が頼んだわけじゃねえ」

 芹沢は溜め息をついた。

「やめるように言えよ」

「どこの誰だか分かんねえのもあるんだよ」

 芹沢は疲れたように席に着いた。「あぁ……めんどくせえな」

「……おまえはほんまに腹立つやっちゃ」鍋島は苦い顔をした。

 芹沢はにやりとした。「今朝も言われた」

「気が合うねえ。誰に?」

 芹沢は二宮から掛かって来た電話のことを話した。

「……しかしまぁ、一条の部下ってだけでそこまでやってくれるとは」

 鍋島は溜め息混じりに言って肩をすくめた。

「ただの部下とは違うつもりなんじゃねえの」

「……なるほど」と鍋島は意味深に頷いた。

「でもまぁ、いつまでも部外者ばかりに頼ってらんねえからな。俺たちで何とかしねえと」

「そうやな」

「その前にまずは……深見茜か」

「いや、まずはこれやろ」

 鍋島は芹沢のデスクのプレゼントを指ではじいた。

「クリスマスまでまだ日にちあるぞ。つまりはまだ増えるってことや。それまでずっとこのままにしとくつもりか?」

「……分かったよ」

 芹沢は深い溜め息をついて、恨めしそうにプレゼントを眺めた。

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