十五分後、三人は店を出た。

 時計の針はまもなく日付をまたごうとしており、酒と鍋物で暖まったはずの身体も、足下から上がってくる冷気でたちまち熱を奪われそうだった。

「それじゃあ、ボクはホテルに戻ります」

 二宮は言った。

「明日以降はどうするつもり?」鍋島が訊いた。

「お二人はもちろん出勤なんですよね」

「あいにく」

「大丈夫です。朝一番で林淑恵の実家とその周辺を探ってみて、収穫がなければ京都の新規取引先に行ってみます」

「あんた一人に任せるのも、ちょっと違うような気がするな」

 芹沢が苦い表情で言った。

「気にしないでください。お二人が仕事で動きにくいんだろうと思ったからこそ、ボクが来たんです」

「担当してる事件ヤマが一段落着いたから、明日はどっちかが早く切り上げるつもりだけど」

「そうですか。じゃあそのときは連絡ください」

 二宮は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。「それじゃボクはこれで」

「気ぃつけてな」

 二宮は軽く会釈をして、表通りに向かって歩いていった。

 その後ろ姿を見送りながら、鍋島が芹沢に言った。

「追っかけんでええんか」

「……どうしようか」

「行っとけよ。行って、何でもええから話をしとけ」

「何でそう思う?」芹沢は振り返って鍋島を見た。

「あの男はおそらく、おまえと一条のことを知ってる。一条が喋ったかどうかは別にしてな。で、もしかしたらそのことがあの男を大阪ここへ向かわせたのかも知れん。つまり、恋のライバル出現ってやつや」

「まさか、あの男が?」と芹沢は口の端だけで笑った。

「そこんとこを確かめといた方がええ」

「相変わらず、他人のことならよく分かるんだな」

 そう言ってちょっと笑った芹沢を、鍋島は面白くなさそうに睨み付けた。「ええから行けよ。タクシー拾われたら間に合わへんぞ」

「そうだな」

 芹沢は頷き、鍋島を残して二宮の後を追い、通りを西に向かった。

 その様子を見届けて、鍋島は自分もまたタクシーを拾うために歩き出した。


 表通りに出た芹沢は、少し先で車の流れを目で追っている二宮を見付けた。

 近付いて行って、声を掛けた。

「おかしいな。タクシー、そんなに捕まらねえか」

「どうしてでしょうね。横浜とは勝手が違うのかな」

 二宮は通りに視線を留めたまま言った。まるでさっきからずっと芹沢と一緒にいるかのような、自然な答え方だった。

「手、挙げてねえからじゃん」芹沢は言った。

「あ、そうだった」

 二宮は呟いて、ここで初めて芹沢を見た。口許には微かに笑みが浮かんでいた。

「……ふざけやがって」芹沢は目を細めた。「待ってたんだろ。俺が来るの」

 二宮は今度はにやりと笑った。そして言った。

「どうです。飲み直しますか」

「……飲めねえってのも嘘だったか」

 芹沢は舌打ちして、前髪をぐしゃっと掻き上げた。


 さきほどのもつ鍋屋から歩いて数分のところにある三階建てのショット・バーに二宮を連れてきた芹沢は、一階のカウンター席でジム・ビームの黒ラベルをロックで注文し、二宮のオーダーを待った。

「じゃあ、ボクはギネス。ハーフで」

「ビール党か」

「何でもいけます。要はあんまこだわり無いんですよね」

 そう言うと二宮は頭上を見上げ、天井からぶら下がった数々のバーボンやスコッチの瓶を眺めた。「すごいですね、これ。圧巻だなあ」

「ちょっと気になってたんだけど、あんた歳はいくつ?」

「芹沢さんと同じです」

 二宮は即答するとにっこりと笑った。逆に芹沢は真顔のまま、じっと彼を見つめた。なるほど。そのあたりももう調査済みというわけか。それはみちるから聞き出したものなのか、それとも彼自身の言う“ボクなりの情報源”から仕入れたのか。どっちにしろ、こいつの中ではきっと俺はもう、みちるにとってただの知り合いの刑事じゃないな。

だったら、そろそろ敬語はやめてよ」

「いえ、そう言うわけには……階級も上ですし」

「今回の件ではそういうの関係ねえんだけど」

「職場でボクは一番の下っ端ですからね。馴れてるし、逆にこの方が楽なんですよ」

「ならいいけど」

 そこで注文した酒が来た。それぞれ一口飲んで、その旨さを味わった。

「一条警部は、そんなこと気にも留めませんよ」

 二宮が言った。

「そりゃ向こうはそうさ。最初はなから歩いてるコースが違うんだから」

「気にならないんですか。芹沢さんは」 

「何が」

「彼女がキャリアだってこと」

 芹沢はふんと笑った。「なんで気にする必要がある?」

「だって……」

「今どき珍しくもねえだろ。年下のエリート女子なんて」

「……あ、まぁ……そうですね」

 そう言ったあとは口ごもった二宮に不敵な一瞥をくれると、芹沢はやや挑発的に言った。

「俺と彼女の何が知りたい?」

「……別に。何も」

「俺たちがデキてるのかどうか?」

「いえ、そんなことは」

「知りたかったら、自分なりの情報網とやらを使う──いや、ホントはもう使ってるってか」

「…………」

 二宮は憮然とした。芹沢はその様子を見て肩をすくめ、軽い口調で言った。「気に障ったかな」

「……いえ」

「今ここで俺が何を言ったって、あんたはどうせ俺と彼女をどうにか結びつけるんだろうなって思ったからさ」

 二宮は黙っていた。自分が否定しようが肯定しようが、芹沢にとってはどうでもいいことなのだと分かっていたからだ。それだけの自信がこの男にはある。容姿の素晴らしさに対する自信などではなく、生き様と言うには大袈裟だが、今、こうして初対面の人間と向き合っていても、何一つ物怖じせずに余裕で笑っていられる、そういう自己の存在そのものに対する確固たる自信を持っている──そんな感じがしてならなかった。

「──女、こっちに来て何やってると思う?」

「はい?」二宮は素っ頓狂な声を上げた。

「雑貨商の元カノだよ。中大路の居場所を知ってると思うか」

「ああ、はい」

 話題が変わっていることを理解した二宮は小刻みに頷き、やがて表情を引き締めて言った。

「と言うか、おそらくこの一件をコントロールしてるのが彼女」

 芹沢も頷いた。「危ない連中が絡んでるあたり、ただの復縁話のもつれなんかじゃねえ」

「ええ」

「何だと思う」

「違法物資の輸入です」

 二宮が即答したので、芹沢は思わずふんと鼻を鳴らした。

「その尻尾を、場合によっちゃたった一人で掴むつもりで今夜大阪ここへ来たってわけか。あんた」

「密輸を暴こうなんて思ってませんよ」

 二宮は口許にあどけない笑みをたたえて言った。「要は、婚約者を見つけ出せばいいんでしょ」

「そう。それが第一の目的」

「第一? 第二の目的なんてあるんですか?」

 二宮に真顔で訊かれ、芹沢は彼の顔をじっと覗き込んだ。そして満足げににやりと笑うと、静かな口調で言った。

「……あんた、話が分かりやすくていいな」

「そうですか? 周りには話がクドくていかにもオタクだって言われますけど」

「話し方のこと言ってんじゃねえよ。明快な思考のこと」

 ああ、と二宮は照れ臭そうに笑った。「それもオタクだからみたいですよ。目的を設定したら、他要素は一切排除だって」

「相方に見習わせたいね」

「鍋島巡査部長は優しい人なんでしょうね」

「俺がそうじゃねえみたいに聞こえるけど」

「いえ、そういう意味じゃなくて」

「分かってるよ。ひねくれてみただけ」と芹沢は笑った。

 二宮もちょっと困ったような笑みを浮かべると、泡の消えたビールを一口飲み、そして言った。

「……一条警部の話から、そう思いました」

「ふうん」

「呆れるほどに葛藤が多いのは、ただ優柔不断なだけが原因じゃないって」

 二宮は芹沢に振り返った。「警部は、そんな鍋島さんの力になってあげたいって、そう思ってるんだと思います」

 芹沢は頷いた。それからグラスのバーボンを一口呷り、なぜか満面の笑顔で訊いた。

「あんた彼女に惚れてる?」

「まさか」

「だから俺と彼女のことを気にするんだろ?」

「違いますよ」と二宮は顔の前で手を振った。「ボクには彼女もいますし」

「あ、そう」

「警部はあくまで上司です。確かに、刑事としての経験はまだ浅いのかも知れませんけど、何があってもブレない、あの強さを尊敬してるんです」

「なるほど。だから警部のために一肌脱ぎに来たってわけ」

 芹沢は言うと、またしてもとびきり爽やかに笑った。

「……そうです」

 二宮は俯いて唇を固く結んだ。



 芹沢と別れ、タクシーでホテルの部屋に帰った二宮は、すぐに熱いシャワーを浴びた。長い一日の疲れと共に、大阪に来てから無意識に自分を守るためにいろいろとかましたハッタリと、やせ我慢ゆえの汗を洗い流したい気分だった。


 ──あんた彼女に惚れてる?


 違う。警部が好きなわけじゃない。

 だけど、目の前のあの男が警部の恋人だと思ったら、ついあんなことを口走っていた。


 ──違いますよ。ボクには彼女もいますし。


 なんであんな嘘をついたんだろう。


 二宮は激しく後悔をした。勢いよく肩を打つシャワーの音が、途切れることなく自分を責めていた。

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