3
病室を出た芹沢は正面の長椅子に座っていた琉斗の母親に軽く一礼し、廊下を深見の病室に向かって歩いた。
──確かに重い──と思った。
もとはと言えば、幼稚な大人の些細な小競り合いで済んだはずの話だ。いいおっさんといいおっさんが、しょうもない意地の張り合いを繰り返し、片方が明らかに意図して相手を煽って、もう片方が見事にその罠にはまる。
ところが煽られすぎたそいつは、少し手荒な仕返しに出てしまった──
それで終わっときゃ良かったんじゃないのか。
そこになんで、そいつらのガキどもが出てくるんだ?
娘はこともあろうに手負いの親父を刺して、息子はもう、意味分かんねえ自殺行為──
ホント、なに勝手なことしてくれてんだ。おかげで話がめちゃくちゃややこしくなっちまってんじゃねえか。なんで俺たちの出番がこれだけ長引くんだ。
だけど──
そう、だからこその重さだ。
長く深い孤独と逃げ出したくなるような現実に耐えきれず、真っ向から己を傷つけてしまう彼らに、俺たちは露骨に戸惑い、受け止めきれないでいる。
鍋島が相変わらずの自分を「弱い」と嘆き、俺はロクに喋りもせずに琉斗の病室から逃げ出した。
なぜ彼らはこんなにも、自分の感情に残酷なまでに忠実でいられるのか。
傷つくことを嫌っているくせに、人を傷つけることをもっと怖れている。それで結局は自分を粗末にして、絶望を積み重ねて途方に暮れ──
そこに共感するには、自分たちはもう成熟しすぎたのだろうか。アタマもココロも、錆びついた骨董品なのか──
いや、そうじゃないはずだ。俺も
野郎のことを言えたもんじゃねえな、と芹沢は自らの不甲斐なさに少なからずショックを受けつつ、やがて深見の病室の前まできた。
芹沢は腕時計を見た。約束の十分が経とうとしていた。
するとちょうどドアが開いて、鍋島が姿を見せた。
「お、びっくりした」
予防衣に身を包んだ鍋島は、目の前の芹沢に驚いて言った。
「どうだった」芹沢は気のない口調で訊いた。
「一応は認めた。けどほんまはまだ認めたくないみたいやったけどな。俺に対してやなくて、自分の中で」鍋島も疲れたように答えた。「何しろ、親としては最悪の目に遭うてるわけやから」
「知るかそんなの」と芹沢は吐き捨てた。
「ああ。同情の余地は皆無や」
「そんなら後ンなって翻しそうか」
「分からんな。腹を括ったようにも見えたし、今も言うたように納得しきれてないようにも見えたし。けどとりあえずは逮捕状は出るやろ」
鍋島は言うと脱いだ予防衣を丸めた。「課長が何と言おうと、あとはボチボチや」
「……それしかねえか」
「一件落着、やで。俺らとしては」
「ああ。それでいい」
芹沢は自分に言い聞かせるかのように言葉を噛みしめた。
二人は病院を後にした。深見哲の証言を持ち帰り、ほどなく西条俊也と深見茜の逮捕状が出れば、二人を逮捕し、送検するだけだ。それで事件の一応の区切りはつく。成人で比較的微罪の西条はともかく、わずか十四歳で相手にあわや死に至るほどの重傷を負わせた茜の処遇は、現時点ではあまり楽観的に考えない方がよさそうだ。
それでも自分たちは任務を遂行するだけなんだと刑事たちは思っていた。どれだけ言い訳を聞かされても、少しも手心を加えるつもりはなかった。と言うより、自分たちには結局、そうすることしかできないのだ。
犯した罪は罪。そこから逃げることは許されない。
その夜、お
古民家風の造りが懐かしさを感じさせる店のテーブル席で、二人で一つの鍋をつつきながら焼酎やハイボールを代わる代わる試し、淡々と胃袋を満たした。週末になれば予約無しで席を確保するのは厳しいという人気の店だったが、そんな評判の料理でも、今夜の彼らにとっては、文字通り砂を噛むような晩餐だった。
「──やりきれんわ」
芋焼酎のロックを呷った鍋島が、吐き出した息と共に言った。「子供が絡む事件は、つくづく自分の無力さを思い知らされる」
「いつものことさ」
皿に一切れ残ったチヂミをつつきながら、芹沢が力なく答えた。
「そうや。いつものことや」
「今回に限らず、俺たちのリミットはいつだってここまでだ」
「ああ」
「仕事でやってる以上、どんな立場だろうとそこには必ず限界がある」
芹沢は通りかかった店員に空になったグラスを掲げておかわりを求めた。店員は伝票に注文を書き足し、空いた皿を引いて去っていった。
芹沢は続けた。
「弁護士だって、児相(児童相談所)の人間だって俺たちと同じさ。結局、権限なんてもんに関係なく、とことん寄り添ってやれるのは本当は親だけなんだ」
「せやな」
「なんだよ。そっちから話振ってきて、その愛想の無さは」
芹沢は鍋島に不満げな一瞥をくれた。「ふざけやがって」
「そんなんやない……要するに脱力感や」
鍋島は長いため息をついた。
芹沢はふんと鼻を鳴らすと、最後のチヂミを口に放り込み、気を取り直したように言った。
「とにかく、俺たちがどんなに悔いようと一段落ついたんだ。明日から切り替えるしかねえ」
鍋島は黙って頷いた。
「あと二日で花婿探し出さねえと──」
芹沢はそこで言葉を切ると、ジャケットのポケットから震える携帯電話を取り出した。「何やら呼ばれてる」
「仕事場か」
「……みちるだ」芹沢は電話を耳に当てた。「もしもし」
このとき、それまでずっと曇っていた芹沢の表情が、微かだったが柔らぎ、華やいだのを鍋島は見逃さなかった。これまで何度か、芹沢の携帯電話が彼と“付き合いのある”女性からの着信を受けたときに居合わせたことがあったが、芹沢がこんなに弾んだ表情をしたのを見たことはなかった。
なるほど、一条みちるという女性の魅力は、もしかしたらこの男を変えるかもしれない。かなり楽観的な希望ではあると分かっていたが、それでも鍋島はそう思った。
《──何か進展あった?》一条が訊いた。
「いや、何も……って言うか、本業の方が忙しくて手が回らねえんだ」
《アル中妻の夫襲撃事件?》
「よく知ってんな」芹沢はちょっと迷惑そうに眉をひそめた。
《昨日新聞で見たの。たまたまよ》
「ふうん……まあでもひと息ついたから、これから宝捜しを再開する」
《そう。で、今どこにいるの?》
「……あのな。こんな状態で何を疑ってる?」
《そういう意味じゃないわ》
「じゃどういう意味だよ」
《……別に特別な意味はないけど……》
一条の声に些か戸惑いのニュアンスが生まれた。《もう家に帰ってるのかな、と思って》
「まだ。メシ食ってる」
《どこで?》
「……とことん聞かなきゃ納得できねえんだな」
芹沢は呆れてため息をついた。「キタのもつ鍋屋。前に行ったことあったろ」
《シメの麺が美味しかったとこ》
「そう。そこ」
《一人で?》
「……鍋島と。代わるか?」
芹沢は上目遣いで鍋島を見た。鍋島は苦笑して焼酎を飲んだ。
《いいわよ。疑ってるわけじゃないって言ってるじゃない》
「どうだかな」
《じゃ、食事の邪魔しちゃ悪いから切るわ。また連絡する》
「オイオイ。そっちで何か分かったんじゃないのか?」
《……そのうち説明する》
「そのうちって──」芹沢は眉根を寄せた。「そんな余裕がどこにあんだよ。あと二日だぜ」
《分かってるわよ。けどあたしだってそうそう暇じゃないのよ》
「そりゃそうだろうけど」
《とにかく、そっちの食事が終わった頃にまた連絡するわ……って言うか、そっちから連絡することになると思うけど》
「……なんだよそれ」
芹沢はふざけてるのかと言わんばかりの不敵な笑みを浮かべた。「何の冗談だ?」
《今はそれだけ。とにかく忙しいから切るわ。じゃあね》
「おいちょっと──」
電話は切れた。芹沢は狐につままれたような顔で鍋島を見た。
「なんやて?」鍋島が訊いた。
「分からん。まったく」芹沢は携帯電話をしまいながら首を捻った。「けどやたら意味深だった」
「要注意やな。そういうときの一条は」鍋島はにやりとした。
「分かってる。痛いほど」
「喋ってる間に、何かを確認されたんと違うか」
「何を」芹沢は韓国海苔をかじった。
「はっきり分からんけど──」鍋島も首を傾げた。「女関係?」
「俺が浮気してるって?」
「いまさら訊き返すな」
「してねえから」と芹沢は口元を歪めた。「そんな暇がどこにある」
「俺に言うな。弁解は一条にしろ」
「弁解なんかじゃねえ」
「どうでもええ。俺は関係ない」
チッ、と芹沢は舌打ちして耳の後ろを掻いた。「めんどくせ」
鍋島は鍋の中で赤く染まったシメのインスタントラーメンをほぐしながら、芹沢のそんな様子を見て言った。
「……可愛いと思ってんのやろ?」
「おまえには関係ねえんだろ」
「そうや。でもちょっとは興味がある」
「野次馬め」
「おまえらにやない。遠距離恋愛ってのに興味がな」
「それも立派な野次馬だ」
そらそうやな、と鍋島が笑って、それからしばらく二人はまた黙々と箸を進めた。
「──あの、すいません」
どこからか声がして、二人は顔を上げた。
すると、鍋島の斜め後ろの通路に、彼らとほぼ同世代と見受けられる、華奢な体つきをした一人の男が立っていた。
芹沢はこのとき、男が自分にとって招かれざる客であることを、直感的かつ確信的に悟ったのだった。
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