「──娘の逮捕状?」

 植田刑事課長は渋い表情で顔を上げた。

「分かってますよ。本人と西条の証言だけではそんなものは出ないってこと」

 デスクの前に立った芹沢の方は無表情で答えた。

「分かってるんなら、言うて来るな」

 課長は言うと手元の書類に視線を戻した。

「二人の証言に食い違いは見られません」

「綿密な打ち合わせをしとるのかも知れん」

「綿密な打ち合わせをしてまで、大の大人が中学生に冤罪を負わせる理由って何です?」

「それで平気な、卑怯な大人は腐るほどおるわ」

 課長は言うと、再び顔を上げて芹沢を見た。「今さら何のきれいごとや。おまえらしくもない」

「きれいごとを言ってて、こんな事件背負えますか」

 芹沢は眉根を寄せた。「やったのは娘です。これのどこがきれいごとだって言うんですか」

 そして芹沢は一係のデスクにちらりと視線を移した。

 そこでは鍋島が一人、脱力しきった姿勢で椅子に腰かけ、くうを眺めていた。

 その様子見た芹沢は、ついさっき西条の取り調べを終え、二人で部屋から出てきたときのことを思い出した。

 あのとき、鍋島が喉の奥から搾り出すような声で呟いた。

 

 ……弱いな。

 

 何のことだと問い質した芹沢に、鍋島は言った。


 ──俺のことや。ここ二、三日で、ボロボロになった。

   真澄のことだけやのうて、この事件でも……耐えきれへん。


 知ったことか、勝手に死んでろと思ったが、芹沢はそれを口にはできなかった。

 実際、今の鍋島は弱っている。

「……もうええ。話が脱線しとる」

 課長が小さく首を振った。「何と言おうと、今のままでは逮捕状フダは取れん」

「じゃあどうすりゃいいいんです」

 課長は顎に手を当てて少し考えていたが、やがて顔を上げると言った。

「管理会社から提出を受けた犯行時間前後の防犯カメラの映像に、娘は映ってなかったんか」

「ええ。階段を使って、駐車場とは出入口が違う自転車置き場から外に出たって言ってます」

「そこにカメラは?」

「あったんですが、提出を受けてませんでした」

「なんでや」

「一週間ほど前にカメラが故障して、修理中とかで。今付いてるカメラはどうやらダミーだったようです」芹沢は溜め息をついた。「こっちが要請しなかったんで、あえて話さなかったと」

「娘はそれを知ってたんか」

「いえ、知らなかったそうです。知ってたら西条も同じ方法で逃がしたはずですし、彼女自身も意識的にカメラを避けて、正体がバレないようにしたと言ってます。自転車置き場は普段から利用してたみたいだから、そのへんは要領良くやったつもりだと。結果的には無駄な努力でしたけど」

「なるほどな」

 課長は不満気だったが、一応は頷いた。「いずれにせよ、娘が犯行時間にマンションにいたという絶対的物証がない以上、娘の証言にもっと論理的、科学的整合性が要る」

被害者ガイシャの証言では?」芹沢が言った。

「危うさが残るな。身内である以上、あとで覆される恐れは拭えん。万全なものでないといかん」

「公判維持に耐えうるような、ですか」芹沢はふんと鼻を鳴らした。

 課長は芹沢を睨みつけた。「分かってんのやったら、さっさとそれを引き出してこい。あそこのボロ雑巾連れて」

「……分かりました」

 芹沢は踵を返し、自分のデスクに戻ってスーツのジャケットを羽織った。その様子を見て鍋島が立ち上がった。

 するとそのとき、彼らの脇を通った同じ一係の浜崎はまさき刑事が鍋島に声をかけてきた。

「何やおまえ。やる気ないんか」

「何がですか」

 鍋島は弱々しいながらも、明らかな敵意のこもった口調で浜崎に反応した。

「やめとけ。今は時間がねえ」

 芹沢がポケットに車の鍵をしまいながら鍋島に言った。

「だとよ」

 浜崎は笑いながら鍋島に顔を近づけた。階級は二人より低い巡査長だったが、年上であることは一目瞭然で分かった。

 ところが鍋島は浜崎の胸倉を掴もうとした。その瞬間、芹沢がその腕を後ろから制し、振り返らせて自分の前に引き寄せた。

「……時間がねえって言ってるだろ」芹沢は鍋島を睨みつけた。「無駄に愚行を繰り返して、結果京都のお嬢さんを泣かせて、それでてめえはまた一人で落ちるつもりか。もううんざりだ」

「………………」鍋島は顔を背けた。

「俺だって、こんな事件ヤマは得意じゃねえ。だけど──」

 芹沢はそこで言葉を切った。ゆっくりと鍋島の腕を離し、短い溜め息をついて静かに背を向けた。「……もういい」

 鍋島は黙ったままだった。

「……俺はクリスマスに女に逢いに行く。一日たりとも先延ばしにするつもりはねえからな」

「……分かってる」

「いや分かってねえ。だからもう、てめえみてえなヘタレの偽善野郎とは喋りたくねえ」

 芹沢は吐き捨てると、椅子に掛けたコートを掴んで間仕切り戸に向かった。

 こうして二人は刑事部屋を出ていった。

 その様子を見ていた浜崎は、バツが悪そうに頭を掻いて自分の席に戻った。射るような視線を感じて顔を上げると、課長が自分を睨みつけていた。

「……若手いびりなんて、恥かしぃないんか」

 課長は忌々しそうに呟き、手元に眼を落した。



 深見哲は昼前に面会したときよりも少しは容態が回復し、意識もそこそこの間隔で鮮明になってきていた。

 妻の春子の姿はすでになく、担当の看護師に訊ねると、午後には仕事だと言って帰って行ったとのことだった。

「少し話をしてもいいですか」

 芹沢が、いつもの一級品の微笑で看護師に訊いた。

「先生に訊いてみないと……」

 二十歳そこそこの看護師は頬を染めて芹沢から視線を外し、ナースステーションから外の廊下を見渡した。

「……困ったわ。先生、どちらにいらしたのかしら」

「あいにく僕ら、時間がないんだけど」

 芹沢は言うと看護師の目線の先に回り込み、今度は何ともあどけない笑顔を彼女に見せた。

「少しだけ……ダメ?」

「でも、患者さんの負担が……」

「十五分──十分でもいいよ」

「……そのくらいなら」

「良かった」芹沢は白い歯を見せた。

「あの、先生には──」

「分かってる。ナイショだろ」芹沢は人差し指を唇に当てて軽くウィンクした。「予防衣、まだ必要?」

「いえ、もう大丈夫──」

 看護師は言いかけて、芹沢の着衣の汚れに目を止めた。

 芹沢は彼女の注意の対象に気づくと、小さく頷いて言った。

「やっぱ着た方がいいかな」

「……お願いします」

 芹沢は目を細めて頷き、看護師から予防衣を受け取ると、彼女がこののち三日間は思い出してはうっとりと余韻に浸って何も手につかなくなるような甘い笑顔を残して、ナースステーションを後にした。

 そして、いつものようにたちまち笑顔を引っ込め、廊下を歩きながら手にした予防衣を羽織ろうとしていると、正面に鍋島が現れた。

「面会許可、下りたんか」

「ああ。十分しか時間がねえ」

 芹沢は鍋島に彼の分の予防衣を差し出した。

「俺だけで行くわ」

「何で」芹沢は怪訝な目で鍋島を一瞥した。「おまえだけじゃアテになんねえな」

「琉斗がおまえを呼んでるらしい」

「琉斗が?」芹沢は立ち止まった。「医者が言ってんのか」

 鍋島は首を振った。「母親や。病室の前で会うた」

「……そういや来てたんだったな」

「意識ははっきりしてるそうや。容態もだいぶ落ち着いて、おまえに会いたいて言うてるって」

 鍋島は手を差し出し、芹沢の予防衣を受け取る仕草をした。

「とにかく行け。深見の証言は俺が必ず訊き出す」

「……十分だからな。ヘマすんなよ」

「分かってる」


 琉斗の病室の前まで来ると、ドアの脇の長椅子に座っていた母親が立ち上がり、不安げな表情で会釈してきた。

 芹沢は丁寧に頭を下げてそれに応え、歩み寄りながら懐から取り出した警察バッジを母親に示して穏やかな小声で言った。

「西天満署刑事課一係の芹沢です。息子さんが僕を呼んでるって」

「呼んでるというか……会いたいと言ってます」

「話せるんですか?」

「ええ。大丈夫です」

「そうですか」

 芹沢はドアを見つめながら頷き、母親に振り返った。

「お母さんはどうなさいます? 同席されたいとおっしゃるなら、僕は全然構いませんけど」

「え、いえあの、私はここで……刑事さんだけでどうぞ」 

 母親は戸惑って答えた。目の前に現れた刑事が、ほんの数時間前、突然自宅に押し掛けてきて、あんなにも乱暴な振る舞いをした男と同一人物とは思えなかったからだ。

「じゃあ、失礼します」

 芹沢はもう一度深く頭を下げると、ドアを開けて中に入った。


 狭い病室のベッドに、琉斗は横たわっていた。周りを囲む医療機器と身体をいくつものチューブで繋がれ、静かに目を閉じている。静まり返った部屋に流れる呼吸の音は一定で、確かに状態は安定しているようだった。

 芹沢がドアを閉めると、分かっていたかのように琉斗が目を開いた。

「……どうも」

 琉斗はしゃがれた小声で言った。

 芹沢は腕組みをしてドアの前に立ち、たっぷりと時間をかけて琉斗を見つめたあと、ふんと鼻を鳴らして口を開いた。

「何度も言ったろ。おまえに関わってる時間なんてねえって」

 琉斗は嬉しそうに頬を緩めた。「でも、来てくれた」

「自殺未遂のガキの頼みだって言われりゃ、断われっかよ」

「……謝りたかったから」

「謝って済む問題か」

 芹沢はベッド脇の椅子に腰を下ろすと、琉斗を眺めた。「で、どうなんだ」

「……なんとか」

「痛てえだろ」

「うん」

「な。しょせんはそれだけだ」芹沢は本気で迷惑そうな顔をした。「おまえのやったことなんか、何の意味もねえ」

「……どうせ」

「死んで詫びようとでも思ったか? 茜の親父に」

「そんなんやない」

「だろうな」と芹沢は鼻白んだ。「あそこで俺たちの話を聞いて、どうやら絶望的になったんだろうけどよ。それでおまえがてめえの腹を刺したって、何ひとつ元に戻るわけじゃねえ」

「分かってるよ」

「分かってたら、これを俺に詫びろ」

 そう言うと芹沢はジャケットを開いて見せた。「こんなに汚してくれやがってよ。高ぇスーツなのに」

「……ごめん」琉斗は困った顔をした。「クリーニング代、帰りにオカンにもらってよ」

「母ちゃんからもらえるわけねえだろ。退院したら、おまえがバイトして返せ」

 琉斗は溜め息をついた。「……厳しいな」

「あたりまえのことを言ってんだ」芹沢は真顔になった。「いいか。母親には心配かけるな」

 琉斗はうん、と頷いた。

「んじゃ俺は帰るぜ」芹沢は立ち上がった。

「え、もう?」

「無駄話してる暇ねえって言ってるだろ。思ったより元気そうだってのも分かったし、クリーニング代のことも言ったし、俺の用は済んだ」

 芹沢は晴れ晴れとした表情で言うと琉斗を見下ろした。

「それに……あんま長居してっと、おまえに余計なこと訊かれそうだしな」

 琉斗は深刻な顔で芹沢を見上げた。

「茜の親父さんを刺したんは、やっぱりうちの親父なんか。ほんで茜はそれを手伝ったって」

「俺に謝りたくて呼んだんだろ」

「えっ……うん」

「だったらそれ以上──」

「ううん、やっぱり知りたいんや。ほんまのことが」

 琉斗に真っ直ぐな眼で見据えられ、芹沢はその視線を逸らすことができなかった。そして自分も、彼と同じくらい揺るぎない眼差しで琉斗を見つめ返すと、静かに、そして噛みしめるように言った。

「深見を刺したのは茜だ」

「えっ──」琉斗は目を見開いた。「茜が……」

「おまえの親父さんは最初に深見を灰皿で殴っただけだ。茜に助太刀を頼んだわけでもねえ。あのが勝手にやったんだ」

 琉斗は目を泳がせた。「そのくらい親父さんを憎んでたってことなんか……?」

「さあ。本人もまだよく分かってねえみてえだぜ」

「……分かってないって……なんでや」

 琉斗は溜息とともに吐き出すと、がっくりと項垂れた。

「おまえが知りたいって言ったんだ」

「分かってるよ。教えてくれてありがとう」

「じゃあな」

 そう言うと芹沢はドアに向かった。引き戸の取っ手を握ったとき、琉斗がううっ、と呻くのが聞こえた。

「何でこんなことに……」

 琉斗が搾り出すように言った。

「……現実を受け止めろ。それしかねえ」

 芹沢は琉斗に背を向けたまま言うと、静かにその場を後にした。

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