電話を切り、振り返った一条に芹沢は少しだけ首を傾げて彼女の言葉を待った。

「OKよ。一日だけもらえた」

 芹沢は微笑んで、胸の前で組んでいた両手を解いて軽く広げた。

 一条は一瞬だけ泣きべそをかいたような顔になって、キッチンカウンターの椅子から立ち上がると、ソファの芹沢に向かって歩み寄り、その腕に身体を預けた。

 芹沢はしっかりと一条を抱きとめ、両手を彼女の背中で合わせるとぐっと引き寄せた。それに合わせるかのように、一条は全身を包んでいた緊張という衣を脱ぎ捨てて芹沢に身を委ね、目を閉じてふうっと息を吐いた。

「……疲れたな」

 一条の頭に頬を寄せて、芹沢は囁くように言った。

「大丈夫よ」

 言葉とは裏腹に、一条は芹沢の腕の中で冬眠中の小動物のように丸くなり、やがてぽつりと呟いた。

「……追いつめちゃったかな」

「鍋島のことか」

 一条はうん、と頷いた。「気持ちは分かるんだけど……何しろ今回は時間がないから、ついわたしも焦ってて。おまけに、三上さんの気持ちを考えたらって思う部分もあって、何だか頭に来て、思ったこと全部ぶちまけちゃった。たぶん……言わなくてもいいことまで」

「……しょうがねえな、あいつ」

 芹沢は苦笑した。だが実のところは鍋島に対して呆れているのではなく、一条の素直な反省ぶりが可愛くて、思わず笑みを漏らしたのだった。

「鍋島くんに謝らなきゃ」

「いいよ、俺から言っとく」

「だめよ、人に謝らせるなんて卑怯だわ。それに──」

 一条は言うと芹沢を見上げた。「あなたが言うと喧嘩になっちゃう」

「ならねえよ。中坊じゃあるまいし」

「あなたたち、二人でいると中学生みたいなものよ」と一条は微笑した。

 芹沢も小さく笑ったが、すぐに真顔に戻った。

「明日から、その中坊二人は戦力にならねえけど」

「分かってる、精一杯やるわ。たった一日でどれだけのことが出来るか分からないけど」

「従姉妹同士の二人も、協力するって言ってたけど──実際にどこまで協力を仰げばいいのか、考えもんだな」

「ええ。当事者や身内の強みは利用させてもらうべきだと思うけど、わたし自身も素人の身分で動かなきゃならないから、正直、彼女たちの存在が負担になる場合だってあると思うし」

 一条は短く溜め息をついた。「だけど無駄な時間は使えない。必要なときだけ頼ることにして、あとは一人で頑張るしかないわ。そのあたりのことは明日、彼女たちに正直に話してみる」

「ごめんな」

「どうして貴志が謝るの?」

「そばに居てやれないから」

 包み込むような芹沢の言葉で、一条は芹沢の背中に回した両腕に少し力を入れた。

「……慣れてるもの」

「慣れさせちゃ駄目なんだよな」

「今さら遅いわよ」

 一条はふふっ、と笑うと顔を上げて芹沢を見た。

「そんな気持ちがあるなら、言葉だけじゃなくて態度で示してよね」

「分かったよ」

 芹沢は目を閉じて頷いた。柔らかに口元を緩め、やがて開いた瞳はまっすぐに一条を見つめていた。深い森の梢を渡る真新しい風のように涼やかなその眼差しには、今日一日孤軍奮闘と言ってもいいような活躍をした恋人に対する労いと愛おしさの情が滲み出ていた。

 そして芹沢は一条の頬に口元を近付けると、

「えっと……何回目だっけ」

 と囁いてそのままその白い肌にキスをして、それから絹のように滑らかな唇にもキスをした。

 しっとりとした口づけを終えると、一条は再び芹沢の胸に頭を預け、やがて静かに言った。

「……ねえ」

「うん?」

「貴志は、急にいなくなったりしない?」

「何だそれ」

「あなたは、中大路さんみたいなことはしないかって訊いてるの」

「俺が、昔の女に気持ちを引き戻されるってか?」

「うん……まあ、そう」

「それはねえなぁ」

「ホントかしら」

 一条は笑いながら言ったが、その表情は少しだけ暗かった。

 それを読み取っていたのかいないのか、逆に芹沢は明るい声で言った。

「だって俺の場合、未練を残そうにもいっぱいいすぎて──」

「何よ、そういうこと?」

 芹沢が全部言い終わらないうちに、一条は怒って顔を上げた。

 すると、今度は芹沢が彼女に続きの言葉を言わせないとするかのように素早く引き寄せ、強く抱きしめた。

「そんな心配しなくていいよ」

 一条の華奢な肩を撫でながら、芹沢は言った。「俺はいなくなったりしないから」

「……本当?」

 そう訊いた一条の声には、どこか怯えたような深刻さが込められていた。

「ああ。ずっとそばにいる。離れてるけど、気持ちは変わらない」

「約束よ」

 一条は安心したように言うと、ゆっくりと顔を上げた。

「──じゃあ、十二回目」




 自宅マンションの寝室で、鍋島はずっと眠れないでいた。

 隣で静かに寝息を立てている麗子を、立て肘で起きあがった姿勢で眺めながら、帰り道の車中を思い出していた。

 麗子には、浅野に会って聞きだした話を伝えた。明日から仕事に戻らなければならない鍋島にとって、この一件において麗子は真澄のことだけでなく、あらゆる面からサポートしてもらう上で重要な存在だ。だからこの件に関してはすべて知っておいてもらう必要があると思ったし、何より、彼自身にとっても彼女は誰よりも心の支えであったからだ。

 そして、浅野とのやりとりの結果として、彼が一条に手厳しい非難を受けたことも麗子には話した。ただ、一条が最後に麗子の気持ちを代弁するつもりで言ったひとことについては話さなかった。

 話さなかったと言うより、話せなかったのだ。

 すると麗子も、カフェで芹沢が語っていたことを話してきた。


「──あいつは自分の気持ちが三上サンにあると気づいて、それを貫こうと決めた。つまりそれは、野々村さんのことを、どんな形にしろこれからずっと見守っていくことでもあるんだって、そのときに胸に刻んだんじゃねえかって、俺は考えてるんだ──」


 それを聞いた鍋島は、自分という人間がますます情けなくなった。

 こんなにも駄目な人間で──周りのみんなに支えられて──それでもまだ性懲りもなくウジウジして──


 ──そんな俺に、何ができる?


 度を超した駄目っぷりに、悔しくて涙が出そうになった。

 勢いにまかせて仰向けになると、左手の甲を額に当て、ぎゅっと唇を噛んだ。喉の奥が熱くなった。

「……勝也?」

 眠っていたはずの麗子に呼ばれて、鍋島ははっと我に返った。

「え、ああ……」

「どうしたの?」

 麗子は驚いたような表情で鍋島の顔を覗き込んできた。

「何でもないよ」

「何でもないって、そんな暗い顔で言ったって──」

 麗子は言葉を切った。

「どうした?」

「勝也……」

 麗子は哀しい顔をすると、重い溜め息をついて言った。

「……苦しんでるのね」

「……大丈夫や」

 鍋島は精一杯の造り笑顔を浮かべた。

「隠さなくていいわ」

 そして麗子は鍋島の頬にそっと手を添えた。その温もりが彼の肌にじんわりと染み込んでいくのをじっと確かめながら、やがて彼女は聖母のように優しい声で囁いた。

「我慢もしなくていいのよ」

 その言葉に、鍋島の心は一気に熱くなり、今日一日で味わったあらゆる想いが堰を切って溢れ出た。

「……麗子」

 鍋島は搾り出すように言うと麗子の胸に顔を埋めた。涙こそ出なかったが、泣きたい気持ちで傷だらけの心が押し潰されそうだった。

「……泣きそう?……」麗子が言った。

「……いや」

 鍋島は小さく首を振った。

「男の子だからって、泣いちゃいけないなんてことはないわ」

「……うん」

「大丈夫よ。こうやって、ずっとあなたのそばにいるから」


 ──そうなんや。俺には麗子がいてくれる。せやから、もうこれ以上何一つ迷ったらあかんのや。何ができるなんて悩むあいだに、一つでも、たった一歩でも、真澄が予定通り結婚式を挙げられるよう、俺は前に進まなあかんのや──


 鍋島は顔を上げると、ようやく穏やかな表情になった。

「ありがとう」

「当然のことよ」と麗子は微笑んだ。「あたしの役目だもの」

 鍋島はほっとした気持ちを噛みしめるように唇を結び、それから少しだけ戸惑いの表情を見せると、ちょっとだけはにかんだ笑顔で言った。

「……愛してるよ」

「あたしもよ」

 麗子も満たされた笑顔になって、彼の首に両手を回した。

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