一条が芹沢たちの待つカフェに向かって歩いていると、後ろから鍋島がやってきて彼女に追いつき、肩を並べた。

「悪かった」

「そんなひと言じゃ済まされないわ。あの後わたしがどんなに必死で取り繕ったと思ってるの。いくら穏やかなあの男だって、さすがに不信感ありありだったわよ」

 一条は前を見たまま強く言った。

「ごめん、ほんまに謝るよ」

「信用できないわね」

「二度とこんなアホはやらへん」

「信用できないって、言ってるのよ」

「一条……」

 一条は立ち止まると、大きく溜め息をついてここでようやく鍋島に振り返った。

「はっきり訊いていい?」

「え、ああ」

「あなたいったいどうしたいの?」

「どうって、もちろん中大路さんを探し出して──」

「違う、そこじゃない」

 一条は顔をしかめて首を振った。「わたしの訊いてるのは、鍋島くんが最終的にどういう結果を望んでるのかってことよ。あなたの本音を知りたいの」

「本音?」

「ええ。野々村さんと中大路さんをもとのさやに戻す気があるのかってこと」

 鍋島は微かに眉間に皺を寄せた。「当たり前やろ」

「どうかしら。気付いてないだけじゃない?」

「何に」

「自分の深層心理によ」

「どういう意味や」

「わたしの思うに、あなたは心の奥の奥で、野々村さんがこんな身勝手な男のもとに嫁ぐのはどうかと思ってるわ」

「そんなこと──」

「いいのよ、そこを非難してるんじゃないの。だって、結婚式の五日前に婚約者の目の前から何も言わずに姿を消すなんて、常識じゃあり得ないわ。事情を調べてみたら、少し前から何かを思い悩んでいた様子だったって男の部下は言う。しかもその原因が、どうやら同窓会で元恋人に会ったのがきっかけらしいなんて。何から何までルール違反もいいとこ。鍋島くんじゃなくても、誰だってこの男はノーよ」

「でもそれは──」

「そう、分かってる。このテのことはもう何度も話に出て、その都度わたしたちはそれぞれに納得したわよね。その上で、たとえどんなに受け容れ難い真実があるにしても、とにかく今は男を見つけ出すことが先決だって、そこもちゃんと確認した。だけど本当のところ、あなただけは違うんでしょ」

 一条は強い眼差しで鍋島を見た。鍋島はその視線をまっすぐに捉え、一瞬たりとも外さずにゆっくりと肩で息をした。

「……俺が、真澄にあいつとの結婚を思いとどまらせたいと思ってるとでも言うんか」

「違う?」

「俺が望んでるのは真澄の幸せだけや」

「そうでしょうとも。それはつまり、自分のそばにいることだって無意識に思ってるのよ」

「そんなわけないやろ」

「自分で気づいてないだけよ」

「……おまえに、俺の何が分かるんや」

「あなたと野々村さん、そして三上さんの間に何があったかを、わたしがほとんど知らないから? そんなの知らなくったって、ちゃんと分かるわ」

 一条は鼻白んだ。「結局あなたは、野々村さんに今のままでいて欲しいのよね。あなたにとってもそれが一番安心ってわけ」

「いい加減に──」

「非難はしてないって言ってるでしょ」

 言葉とは裏腹に、一条は鍋島を睨み付けた。

「俺には麗子がいてるんやぞ」

「もちろんよ。あなたには三上さんへの大きな愛情がある。そしてそれと同じくらい、野々村さんに強く同情もしてるわ」

「………………」

「そう、愛情じゃなくて同情。思い上がったわがままだけど、それもあなたらしいと言えばあなたらしいわ。だけど、そのひとりよがりの同情が今、わたしたちを邪魔してる。わたしはそれが我慢ならないって言ってるのよ」

 鍋島は相変わらず黙ったままだった。一条は続けた。

「貴志と過ごすつもりだった時間がどうなったってわたしは文句言うつもりはない。また来ればいいことだもの。だけど、罪深い同情心だけはたっぷりと両手に溢れさせてダラダラとこぼしているくせに、覚悟という器には何も入ってない。だからいちいち狼狽うろたえる。自分でも分かっているのに認めようとはしないし、わたしたちに悟られまいとも思うから身勝手な行動に走る。そんな“不良品刑事”とは組めないわ。リコールが妥当だって、あなたがわたしでも思うはずよ」

「……反論はできひん。だけど、全部認めたわけやない」

「どうでもいいわよ」

 一条は腕を組むと、今度は呆れたように鍋島を一瞥した。

「わたしと貴志を呼んだのはあなたよ、鍋島くん。バッジも手錠も拳銃も持ってないし、そんなものがなくてもわたしはあなたの友達のつもりだから、協力は惜しまないわ。だけどあなたは友達としてじゃなく、警察官としてのわたしと貴志の協力を必要としたはずよね。それなのに、肝心のあなたはド素人。これは違うわよ、絶対に」

 鍋島は小さく頷いた。

「時間が無いんだから、悠長は言ってらんないんだけど、こればっかりはあなた次第よ。同情を友情に変える決心がついたら、今度こそ腹を括ってそれを証明してよ」

「そのつもりや」

「じゃあカフェにはあなたが行って。三上さんと一緒に野々村さんを自宅に送ってあげてちょうだい。覚悟がまだできそうにないのなら、二人には浅野から聞き出した話はしないでいいからね。わたしは電話で貴志を呼び出して、彼のマンションに戻るわ。今後のこともあるから、後で落ち合うなり、連絡をとるなりしましょう」

「分かった」

「分かったら、行って」

 一条に促され、鍋島は彼女をその場に置いて歩き出した。

 その姿を見送り、スマートフォンを取り出そうとバッグに手を伸ばしたところで、鍋島が振り返った。

「そうや。聞き忘れるとこやった」

「何?」

 一条は自信たっぷりの表情で鍋島を見た。

「浅野とは、あの後どういう話になった」

 一条はほっとしたような溜め息をつき、口元に少しだけ笑みをたたえて言った。

「そこの確認を忘れてしまうほど、骨抜きではないようね」

「どうにかな」と鍋島も自嘲気味に口の端っこだけで笑った。

「一応、元カノの名前だけは訊きだしたわ。それ以上は今日のところは危険だと思ったから深追いはしてない」

「ありがとう。助かったよ」

 そう言って歩き始めた鍋島の背中に、一条がまた声をかけた。

「そうだ、わたしにもあと一つ、言っておきたいことがあった」

 鍋島は立ち止まった。さんざん言いたい放題に言われてすっかり無抵抗になった心は、何でも受け容れる用意ができていた。

 向き直った鍋島に、一条は穏やかな口調で言った。

「……いいこと。相手の愛情が自分にだけ注がれてることが分かっているにしろ、好きな男が自分以外の女のことを気にかけてるって事実に対して平気な女なんて、どこにもいないのよ」

 鍋島はしばらくのあいだ一条のこの言葉を咀嚼していたようだが、やがて静かに頷いた。

「麗子のことやな」

「当たり前じゃない」

 一条はこくんと頷き、ここでようやく可憐な笑顔になると悪戯っぽく続けた。

「そんな状態で、ずっと貴志に相手をさせてていいの? 早く行かないと危ないわよ」

「ヤバいかも」

 鍋島もやっと白い歯を見せた。




 夜になって、暗くなってから帰ってこようと思っていたが、夕方の五時にはとっぷりと日が暮れて、空では星が瞬いていた。当たり前の話だ。あと四日で、何とかって言う、一年のうちで一番昼が短い時期がやってくるのだから、暗くなるのも早い。

 遊歩道をゆっくりと自転車を漕いで、マンションがはっきりと見える距離まで戻ってきた。あいつのベランダのすぐ下にある外灯脇に、大人が五人ほどかたまりを作って立っていた。

 そばまで行って、自転車にまたがったまま停まった。かたまりの一人が振り返ってこちらを見たが、すぐに首を戻した。

 何かに誘われるように、遊歩道の土手を右に下ったところの道路に目をやった。

 マンションの広い玄関前に、パトカーが二台と、警察車両のワゴン車が一台、それと救急車が停まっていた。

 すぐにベランダを見上げた。あいつの部屋に明かりはついていなかった。代わりに、隣のリビングらしき部屋には皓々と電気がついていて、慌ただしく動き回る数人の姿がカーテン越しに見えた。

 どう見ても、普通じゃない状況というやつだ。

 どす黒い不安が押し寄せてきて潰されそうになったので、気がついたらかたまりに向かって訊いていた。 

「なんかあったんスか」

「よく分からへんのやけどね。家庭内暴力みたいよ」

「家庭内暴力?」

 返ってきた答えがあまりにとぼけた言葉だったので、一瞬、拍子抜けして自転車のハンドルに突っ伏した。

 ところがそのとき、かたまりに向かって一人の中年男が近づいてきて、しゃがれた声をひそめて言った。

「……あそこの部屋のご主人が、奥さんに刺されたらしい。意識がないって」

「ええっ?!」

 答えた中年男に向かって、思わず声を上げた。かたまりの大人たちは驚いた顔でこちらに振り返ったが、すぐにもとに戻し、自分たちで顔をつきあわせて話し始めた。

「奥さん、アル中やて」

「確か、テレビ局かなんかで働いてるんと違うの」

「ダンナはちょっとは有名なシェフやろ。愛人がいたって」

「痴話喧嘩の果ての刃傷沙汰か。ようある話やがな」

「それで、奥さんは?」

 もともとひそひそと聞き取りにくい声同士の会話だったのが、その内容が立ち入ったものになるにつれますます霧の中に包まれるような小声になっていった。耳を必死でそばだてた。

「パトカーに乗せられてはったから、捕まったんやないかな。せやけど、ぐでんぐでんやったで」

「そんなんで、人を刺せるもんやの」

「さあ。憎しみが強かったら、何でもできるやろ」


 ゆっくりと自転車を漕ぎ出した。かたまりの会話が首筋の後ろあたりで遠くなっていくのを聞きながら、ペダルに置いた足を強く踏み込んだ。

 スラックスのポケットから携帯電話を取り出して、震える指になんとか言うことを聞かせ、メールを打ち始めた。

 あいつが家にいないことだけを祈った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る