第二章 二日目/十二月十九日

Ⅰ.恒例行事


 翌朝、西天満にしてんま署二階にある刑事部屋に先に姿を現したのは、普段より三十分以上も早く家を出てきた鍋島だった。

「──なんや、えらい早いな」

 刑事課長の植田うえだ匡彦まさひこ警部は、間仕切り戸を入ってきた鍋島の姿を見つけると言った。それから目の前に置いた新聞を右手に取り、左手の甲で叩くと、

「また夫婦喧嘩や」

 と吐き捨て、ポンと投げるように自分のデスクに戻した。

 早く来たのに文句を言われているみたいで面白くなかったが、鍋島は黙って課長のデスクまで行くと新聞を取り上げて目を落とした。

「ヨメはんが留置場で一泊しとる。相方が来たら話を聞け」

 鍋島は小さく頷くと、新聞を持ったままコーヒーメーカーのところへ行ってコーヒーを入れ、自分の席に着いた。

 カップを口元に運びながら深い緑のチェック柄のマウンテンパーカーを脱いで椅子の背に掛けた。席に着き、新聞を広げると、ゆっくりと息を吐いて記事を見た。


『アルコール依存症の妻 夫を包丁で刺す?』


 それほど大きな記事ではなかったが、比較的凶悪な事件の少ない今朝の三面記事の中では目を引く見出しだった。

 現場は管内でも比較的閑静なエリアで、ここ一、二年ほどで広い川沿いの桜並木に寄り添うように次々と高級マンションが建ち並び始めた、人気のウォーターフロントの一画にあった。

 酒に溺れ、呑まれたあげくの物騒な夫婦喧嘩か。あんな高そうなマンションに住んどいて、やってることは、下町のオバハンオッサンと同じやないか。新聞から顔を上げ、鍋島は一つ大きな欠伸をした。

 昨夜はやっぱり眠れなかった。麗子がそばにいてくれたのに、一日掛けてたっぷりと打ちのめされた気持ちはそうあっさりとは立ち直ってはくれなかった。それで、冷えきった心がそうさせたのか、温もりをふさぼるように麗子のことを抱いた。明け方になってようやくうつらうつらとしたものの、少し意識が戻ると、結局はそのままベッドを出てシャワーを浴び、二人分の朝食を作って、眠っている麗子に置き手紙を残して出てきたのだった。


『──ごめん、仕事に行く。朝食は作ってあるから。

   ゆうべはありがとう。

   オレはいろいろ間違ってるけど、麗子がすべてです──』


 あんなことを書いて、麗子に心配をかけるだけだったかなと思った。


 そこへ芹沢が出勤してきた。白地にモノトーンのシンプルなフォトプリントが施された長袖Tシャツの肩に黒のライダースジャケットを引っかけ、ボトムは細めのブラックジーンズ、黒のレザーバイカーブーツと、自分にとっての愛車は昔も今もこれからも、SUZUKIのST250だと断言するだけのバイク愛好者らしい着こなしをしていた。いつものようにサマになった仕草で同僚に挨拶をしながらまっすぐに自分のデスクまでやってくると、すっきりと片づいた机に無造作にジャケットを置き、黙って鍋島を見下ろした。

「……あ、昨日は悪かっ──」

 鍋島が言いかけたのを無視して、芹沢は両手で覆い被さるようにして鍋島の胸ぐらを掴むと、ものすごい勢いでひきずり上げ、即座に力の入った右ストレートを彼の顔面に見舞った。相手に一切の抵抗を許さない素早さだった。

 鍋島は自分の椅子と共に机の幅一つ分以上後ろにすっ飛んだ。左手が反射的にデスクの端を掴もうとして、置いてあったコーヒーカップを小指の先で掠め、カップはコーヒーを撒き散らしながら床に落ちた。その音と、鍋島と椅子の両方がひっくり返る音で、部屋にいた刑事たちは一斉に彼らを見た。

「っりざわぁーーっっっ!!!」

 課長が怒鳴りながらデスクを叩き、飛び上がらんばかりに立ち上がった。

「ええ加減にせんかこの悪たれが!」

 しかし芹沢は完全無視で、ひっくり返っている鍋島をも見ることなく、悠然と自分の席に着いた。

 鍋島はしばらくのあいだ起きあがれなかった。もちろん、空手三段の芹沢に喰らった強烈な正拳突きが顔面に大ダメージを与えていたからだが、相方のいろいろな思いのこもった怒りが、何よりその胸にこたえていたのだった。

「文句あるか」

 芹沢はようやく口を開いた。両手を胸の前で合わせてポキポキと関節を鳴らすと、足許に転がったカップに一瞥をくれながら言った。

「何か言いやがったら、次はボッコボコにしてやっから」

「……言わへんよ」

 鍋島は床に伸びたまま、ぼそりと呟いた。

「終わったか」

 そう声を掛けたのは、彼らと同じ一係の島崎しまざき良樹よしき巡査部長だった。各班に二人ずついる主任の一人だ。鍋島の頭の後ろに立ち、長身の背中を少し屈ませて二人を交互に見ている。憎みようのない飄々とした笑顔が、人柄の良さを表していた。

「──ったく……中学生かおまえは」

 島崎は苦笑しながら芹沢を見た。

 芹沢はふんと鼻で笑った。「どっかの警部もそう言ってました」

 島崎は満面の笑顔で頷いた。「早よう大人ンなれよ」

 それから島崎は鍋島のそばにひざまずき、彼の腕を掴んで自分の肩に回した。

「立てるか」

「……ええ、大丈夫です」

 鍋島はゆっくりと身体を起こし、島崎に支えられながら立ち上がった。

「……痛っ……」

「顎、ハズれてるん違うか」

 島崎は倒れた椅子を起こして鍋島を座らせると、落ちていたカップを拾った。

「あ、主任、俺がやります」

 鍋島は慌てて島崎からカップを取り上げた。そして椅子の脚元に零れたコーヒーを拭こうと腰を上げた。

「ええよ、おまえは座っとけ」島崎が言った。

「いや、俺の粗相そそうですから」

 そう言ってしゃがみ込んだとき、課長の声が命令してきた。

「芹沢にやらせろ」

 島崎と鍋島はデスクの課長に振り返った。隣の芹沢も課長に顔を向けていた。

「聞こえたな。それは芹沢の粗相や」

 課長は静かに、しかし有無を言わさぬ威圧感たっぷりの声で言うと、三人の顔を一通り見据えて手元の書類に戻った。

 芹沢は黙って立ち上がった。面白くなさそうに口元を歪め、刑事部屋の隅っこに押しやられるようにして佇んでいる掃除用具用のロッカーに向かうと、モップを手にして戻ってきた。

「ほら、どけよ──主任も、もういいですよ」

「よっしゃ、任せたよ日直クン」

 島崎は無邪気に言うと自分のデスクに戻っていった。

 芹沢が黙々と、しかし憤懣やるかたなしという様子で片づけている傍らで、鍋島は口の中を血の味でいっぱいにしながらただぼんやりと座っていた。正直なところ、殴られて目が覚めるどころか、逆に睡魔が襲ってきていた。

「──あいつが」

 ズルズルとモップを動かしながら、芹沢がぽつりと言った。

「──え、えっ──」

 鍋島ははっとして芹沢に振り返った。

「謝ってた。おまえに言い過ぎたって」

「え、ああ、いや──」

 鍋島は言うと、同時に出そうになった欠伸を押し殺した。

「そんなことないよ。警部は間違ってへん」

「俺は謝らねえからな。何度でも殴ってやるぜ」

「……分かってる」鍋島は小さく頷いた。

 しばらくすると芹沢は手を止め、モップをぽんと放り投げると腕を組んでその場にしゃがみ込んだ。

「なあ、鍋島」

 芹沢は床を見つめたままで言った。

「うん?」

「俺はおまえが嫌いだよ」

 芹沢は言うとなぜか溜め息をついた。「偽善者のくせに、ときどき本気で他人の心配をしやがる。挙げ句に自分を追いつめて、それでまた誰かに迷惑掛けて落ち込んで──」

 芹沢は鍋島に振り返った。「面倒臭ぇくそったれだ」

「……ああ」

「だけどよ」

 そこで芹沢は立ち上がり、ふて腐れた顔で鍋島を見下ろした。

「みんな、おまえを放っとけねえんだ」

 その言葉で鍋島は俯いた。 

「何でかってぇと、おまえって野郎の駄目さだけじゃなくて、誰にも真似できねえ暑苦しい優しさが分かってるからさ。俺も含めたみんなが」

 鍋島は黙って頷いた。

「だから、いい加減シャキッとしろよな」

「ああ」

「じゃあまず、何からやれって?」

「マル被(被疑者)の取り調べ。女やて」

 鍋島はデスクの新聞を指さした。芹沢はちらりと一瞥をくれると、

「新聞記事で引き継ぎ済ませようって? ご丁寧なこった」

 と溜め息をついて手に取った。

 そしてしばらく目を落としていたが、その後顔を上げて刑事部屋を見渡した。

香代かよちゃんか」鍋島が言った。

「ああ。女の取り調べなんだろ。女の同席者が要る」

 そして芹沢は間仕切り戸の前に現れた一人の婦人警官を見つけると、立ち上がってにっこりと微笑み、手招きをした。

 ところがその直後、彼は呟いていた。

「──あ、何だかやな予感──」

 鍋島も廊下に振り返った。そして納得したように頷くと、芹沢を見上げてふんと笑った。

「おまえは、つくづくその容姿がめんどくさいんやな」

「……うるせえよ。僻むんじゃねえ」

 芹沢は恨めしそうに吐き捨てた。



 マンションのメインエントランスを出たところで、一条はバッグの中でスマートフォンが振動しているのに気付いた。

「──はい」

《一条さん? 野々村です》

「あ、おはようございます」

 一条は立ち止まった。「少しは落ち着きましたか?」

《ええ、昨日よりは。とにかくもう、この状況を受け容れるしかないって。悲しんだり、不安がったりしてる時間はないんやって思うことに、だいぶ慣れてきたってところ》

「ご両親にはどんな──」

《寛隆さんが、急な出張でしばらく京都を離れることになったって説明したら、不満げやったけど、一応は納得したみたい。中大路さんのご両親には、津田さんから同じ内容で連絡が行ってると思う》

「……そう言うしかないでしょうね」

 と一条は溜め息をついた。「今日一日しかご協力できないけど、何とか頑張ってみるわ」

《そのことなんやけど……あたしは、今日は一条さんについて行かへん方がええのかな》

 少し探るように真澄の口調に、一条は彼女が昨日の浅野との面会で何かが分かったのだと敏感に感じ取ったのだろうかと思った。昨夜鍋島と電話をした際、彼女には浅野の口から出た中大路の元恋人の件については話していないとのことだったので、もしも何かを察したのだとしたら、さすがは婚約者と言うべきか。

「絶対にダメってわけじゃないんだけど……正直なところ、野々村さんには別の役割を担って欲しいと思ってるの」

《別の役割?》

「ええ。つまり……両家のご両親のケア、とでも言うべきかしら。あなたにしか出来ないことよ。結婚式を間近に控えて、新郎とまったく連絡が取れないとなると、今日、明日くらいは大丈夫でも、明後日あたりからはさすがに何らかの疑念を抱かれるはずよ。特に中大路さんのご両親の場合、息子だからね。そこをあなたにフォローしてもらいたいの。ただ、結局は嘘を突き通すってことだから、かなりしんどいとは思うんだけど」

 一条は慎重に言葉を選んで言った。

《分かった》

 真澄は力強い口調で言った。確かに、現実を受け容れる覚悟はしているようだ。

《そしたら、ひとつ一条さんに情報を提供しとくね》

「情報?」

《うん。昨日の浅野って人との話からはあんまり成果がなかったみたいやし……実はゆうべ、もう一人披露宴に招待してる同級生がいるのを思い出したから、その人に当たってみたらどうかと思って》

「それは助かるわ。是非教えて」

 一条はバッグから手帳を取り出した。

《えっとね、池波涼子いけなみりょうこさん。私の手元にある招待客の資料からは、自宅の住所しか分からへんのやけど、そこから何とか連絡つくかな》

「自宅は京都?」

《ううん、大阪。ただ、前に寛隆さんから聞いた話の記憶をたどった限りでは、独り暮らしやったと思う。大阪の証券会社でディーラーをやってはるとかで、出身地は近畿圏とは別の地域やったんと違うかな》

「分かった。番号案内で分からなかったら、会社なり本人の連絡先なり、大阪のことなんだからあの二人に調べさせるわ」

 そして一条は真澄から住所を聞き取り、手帳をバッグにしまった。

《──あの、それからね、一条さん》

「はい?」

《あたしのせいで一条さんに迷惑掛けてるのに、こんなことを言うのは間違ってるって分かってるんやけど……》

「迷惑だなんて思ってないわ。何でも遠慮なく言って」

《……勝ちゃんのこと、悪く思わんといてね》

「鍋島くんを? わたしが?」

《悪くって言うか、その──》

 一条は笑顔になった。「大丈夫よ。鍋島くんのことは、わたしなりにちゃんと分かってるつもりだから」

《ごめん。余計なことやったね》

「いいのよ。野々村さんの気持ちだって分かってるつもり」

《……ありがとう……じゃ、よろしくね》

「何か分かったら連絡するわ」

 電話を切った一条は、なんとなく気恥ずかしい気分で芹沢の電話番号を呼び出した。


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