第55話 大事なことほど忘れがち

 ひとを殺してはいけない。たいていの人間が共有しているその原則には、ときに例外がある。


 たとえば何かを、誰かを守るとき。


 アレンには他人の命を奪った経験がない。守るより守られることのほうが多かったので。それは幸せなことだと理解しつつ、必要なときは剣を抜くことをためらわない人間でありたいと願っていた。


 だけど、と。先ほどから霧がかかったようなアレンの頭の中で、ひとつの疑問が出口を求めてさまよっていた。


 いまが本当にその「必要なとき」なのか、と。


「……ほかに手はないのかよ。ギル爺ならなんとか……」

「無理だ」


 シグルトは冷ややかな眼差しを、アレンの首元から頭を出している小鳥に向ける。


「できるならとっくにやってる。だろ?」


 ピイ、と悲しげに使い魔は鳴いて、アレンの外套にもぐりこんだ。


「もう一回寝るとか」

「勘弁しろ。先送りはもうたくさんだ。だいいち、術をかけるだけの力も残ってねえ」


 アレンの記憶違いでなければ、それは初めて聞く魔術師の弱音だった。


「こいつは人殺しじゃない」


 アレンの心中を見すかしたようにシグルトは語りかける。


「怪物退治さ。王子は宝剣の力を借りて化け物を倒し、民を救いましたとさ……」

「やめろよ」


 アレンは力なく首をふった。本当に、この男は趣味が悪い。


「冗談でも言うな、そんなこと」

「じゃあ、これならどうだ。おれをらなきゃ、おまえが死ぬぞ」


 それ、とシグルトはアレンの左腕を指さす。


「ずいぶん広がったじゃないか。次は右手か、それとも足かな。そのうち目も濁ってくる。そしたら、あとは早いぜ。最後は全身の肉が固まって呼吸いきが止まる」


 魔術師の一言一言が、見えないくさびとなってアレンの身に打ちこまれる。まるで呪詛のように。


「おまえがそこで楽になったとしても、まわりにとっちゃ、また新しい災難のはじまりだ。あの姫さんの奮闘も、いつまでつづくかな。最初に地図から消えるのはナヴァールか、アングレーシアか、それともおまえの大事な……」

「黙れ」


 自分の声がひどく弱々しいものに聴こえた。両手で耳をふさぎたかったが、片方の手はなまりのように重く垂れさがったままだった。


「黙ってほしけりゃ、やることはひとつだ」


 色の薄い瞳にあやつられるように、アレンはふらふらと立ち上がった。右手が剣の柄にかかる。ゆっくりと抜き放たれた刀身に映った顔は、見知らぬ他人のようだった。


 ――ちがう。


 本当に知らない男だ。黒い髪、黒い瞳。初めて見る、しかしどこか懐かしい面差し。


 どこかで会ったかと眼をこらしたときには、すでに男の顔は消えていた。かわりに、なじみの顔がこちらを見返している。その瞬間、アレンの頭の中の霧がすっと晴れた。


「だめだ」


 アレンはひとたび抜いた宝剣をさやにもどした。


「できねえよ」


 似たようなことは前にもあった。エリノアール姫の寝室で。あのときの自分の選択が正しかったのかは、いまだにわからない。だが、悔いてもいない。ならば、少なくとも間違いではなかったのだろう。いまと同じように。


「……この」


 苦りきった声がシグルトの口からもれる。


「ガキが。甘ったれてんじゃねえよ。なんだってそう意気地がねえんだ。あいつと同じ……」

「おい」


 アレンの眉が跳ね上がった。


「いまなんつった」

「意気地なしだって言ったんだ。おまえもあいつも、ふだんは威勢がいいくせに、肝心なときに使えねえ……」


 みなまで言わせず、アレンは魔術師に飛びかかった。ふりあげた拳をシグルトの頭にたたきつける。ごっと鈍い音がして魔術師が前のめりに倒れた。


「ふざけんな!」


 じんじんする右手をにぎりしめてアレンは叫んだ。


「好き勝手言いやがって! 意気地がないとか、そういうことじゃないだろ! そいつは、その……」


 目もくらむような怒りに声がつまる。息を整えるのももどかしく、アレンはひと息に叫んだ。


「あんたの友達だったんだろうが!」


 その騎士とやらが、どんな人物だったのかは知らない。だが、この男にあんな頼みごとをされるくらいには親しい間柄だったはずだ。それを、たとえ口先だけだろうとさげすむ真似をする魔術師が許せなかった。


「ためらって……できなくて当然だろうが! 友達だったら……っ!」


 足をしたたかに蹴られ、アレンは地面にころがった。


「だったらどうした」


 ぞっとするほど冷たい声がふってくる。


「友達だの家族だの、だったらなんだってんだ。てめえの身内さえ無事なら他はどうでもいいってか? それとも、できねえから他をあたれってか?」

「そうじゃない、そうじゃなくて……」


 アレンは乱暴に頭をふった。さっきから言いたいことの半分も口にできていない。少しはひとの気持ちを考えろとか、簡単にあきらめるなとか、浴びせてやりたい台詞は山ほどあったが、なによりもまずぶつけてやりたい言葉は、そのどれとも違っていた。


「だああああっ! もう!」


 跳ね起きた勢いそのまま、アレンはシグルトの胸倉をつかみ、あらんかぎりの声で叫んだ。


「助けてくれって言え!!」

 

 完全に虚をつかれたように、青灰の眼が見開かれる。


「なんで、あんたは! なんでもかんでもひとりで片づけようとすんだよ!」


 ひとりで秘密をかかえて、ひとりで決めて、その結論を他人に強要する。これしか道はないのだと、まことしやかに語ってみせる。そんなものはまやかしだとアレンは思う。


 道がひとつしかないわけではない。この男が見つけられないだけだ。現に、百年前はちゃんと他の道を選べたではないか。


「困ってんなら、ちゃんと話せ。最初から、全部」


 そこまで言ったところで急にひざの力が抜けた。怒りすぎた反動だろう。しがみつくような格好になったアレンの手を、シグルトは邪険にふりはらう。


「話してどうする。どうせ行き着く先は同じだろ」

「またそれかよ」


 ああもうこいつ本当に面倒くさい、とアレンは天を仰いだ。


 天才だと常々自慢しているこの男なら、他人の手を借りなくても自分で幕引きくらいできるだろう。それをしないのはなぜだ。死にたくないから、救われたいと願っているからではないのか。「どうせ」の裏側で、ひねくれ者が声をたてずに叫んでいる。どうか助けてくれと。そう思えて仕方なかった。


「とりあえず、ちょっと待て。考えるから」

「てめえの頭じゃ百年どころか千年たっても答えが出そうにねえな」


 いつもの憎まれ口が返ってきたことにアレンがほっとした、そのときだった。


 風が吹いた。冷たく、湿った、身のうちをざわめかせるような風が。


 シグルトの顔から表情が抜け落ちた。アレンが声をかけるより先に、魔術師は背後の巨木をふりかえる。


「……喜べ」


 しばしの沈黙の後、シグルトは平板な声で告げた。


「てめえの仕事が楽になったぞ」


 とてつもなく、嫌な予感がした。

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