第56話 晴れた日は良いことが
ここに入ると言ってシグルトが示したのは巨木にあいた大きな
「かくれんぼか? 引きこもりか? どっちにしろ、いい年した大人がやることじゃないぜ、おっさん」
「……うれっしいなあ。てめえの減らず口を二度と聞かずにすむと思うと」
頬をひくつかせながらもシグルトは手短に説明してくれた。いわく、この
「おれを放りこんだあとで閉じるつもりだったんだろうが」
しかし、弟子の望みは叶わなかった。なおかつ、術をかけた当人がいなくなったことで、仮止めの力もゆるみはじめているらしい。
「このままだといずれ蓋がはずれて、向こうのやつらがうじゃうじゃ溢れ出てくるだろうな」
「なんか、やばそうだな」
「おお、てめえの頭でもそんくらいは理解できるか」
「うるせえよ」
もとはと言えば、これも後先考えずに術士を始末した中年魔術師のせいではなかろうかとアレンは考えたが、口には出さなかった。
師と弟子との間にどんな思いがあって、どうやって最期を迎えたのか、自分は何ひとつ知らないし、見ていない。ならば自分がえらそうに論評する資格はないのだろう。だから、かわりにべつのことを問うた。
「で? あんたがどうにかしてくれんのか?」
「どうにかすんのはてめえだ」
シグルトはアレンの腰の剣を指さした。
「おれが向こうへ行ったら、そいつを木に突き立てろ。入り口ごと岩にしちまえ」
簡単だろう、と言い捨てて背中を向けたシグルトを、アレンはとっさに呼び止めた。
「ちょっと待て、おっさん! さっきと全然変わってないだろ!」
入り口をふさいだら、この男は帰ってこられないではないか。あせるアレンとは対照的に、ふりむいたシグルトの顔は平静そのものだった。
「大違いだ。直接手を下さずに済むじゃねえか」
「殴るぞ」
いっそ絶望すら覚えながらアレンは拳をかためた。この男のまわりには見えない壁でもそびえているのだろうか。どれだけ必死に訴えても、こちらの声はまるでとどかない――
「アレン」
アレンはぽかんとした。本当に、腰が抜けるほど驚いたのだ。聞き違いではない。たったいま、この男は自分の名を呼んだ。
呆然と立ちすくむアレンを、魔術師は感情の読みとれない眼でながめ、ふっと口元をゆがめた。
笑うように、
そのとき、自分が何を思ったのかはわからない。何かを叫んだ気もするが、それはおそらく意味をなさない悲鳴のようなものだったのだろう。何もわからないまま、アレンはただ衝動的に地を蹴った。
木の
――溺れる。
幼い頃、湖に落ちて死にかけたことがある。そのときの感覚がいちばん近かった。どちらが上でどちらが下か、自分が沈んでいるのか浮き上がっているのかもわからない。胸に大量の水が流れこんだように息がつまる。苦しさにもがけばもがくほど、身体の自由は失われていく。
ああ、これは死ぬ。するりと、冷えた思いが胸にすべりこんできた。その証拠に、いくつもの顔が頭の中を駆けめぐる。
両親と兄たち。故郷の
「――シグルト!」
名を叫んだ瞬間、視界がひらけた。だが、そこに色はなかった。
黒のようで黒でない。無数の光がちらついているようで、しかし一片の光もとらえることができない。ちょうど
だから、アレンが「見えた」と思ったのは錯覚だったのだろう。こちらに向かって伸ばされた手を、右手でつかんだと思ったのも、もしかしたら幻覚のうちだったのかもしれない。
身体が引きずられる。あちら側へ、向こう側へ。意思をもった水草に巻きつかれ、
だが、ひとたびつかんだ手を離す気はさらさらなかった。なぜって、さっき聞いてしまったから。あの魔術師が告げた言葉を。
頼む、と。あの男はたしかにそう言った。
よろしい、頼まれてやる。ただし――
「高くつくからな!」
身をよじって左手で剣の柄をつかんだ。手首もひじも、とっくに固まっている。だが、まだ指は言うことをきく。肩も、かろうじてまだまわる。それだけ動けば充分だ。
使えるところをすべて使って、アレンはエルシルドを引き抜き、投げ落とした。
虚空がはじけた。
色のない世界で、たしかに冴えた光を見たと思った。その記憶を最後に、アレンの意識は白く塗りつぶされた。
その日、いつものように東の地平に姿をあらわした太陽は、仰ぎ見る者の目にどこか特別なもののように映った。
山間の砦で、今まさに打ち破られようとしている扉を押さえていた団員たちは、白い光に眼を
昏倒から覚めて部下を殴り倒そうとしていた皇女は、まばゆい朝日に眼を細めた。身のうちに不思議と深い安堵が広がるのを感じながら。
洞窟の入り口から顔をだした老賢者は、まぶしさに耐えきれず手で顔を覆った。涙を流すのは、じつに百年ぶりだった。
イリヤの街で夜どおし病人の介抱をしていたエドガーは、窓のすきまから射しこむ光でうたた寝から覚めた。目の前で横たわる老人の顔は相変わらず黒ずんでいるものの、その表情は昨夜よりずっと安らいで見えた。
エドガーはかたい椅子から腰を上げ、身体のあちこちをのばしながら狭い室内を見わたした。眠りにおちる前は側にいたはずの弟の姿がない。さてどこへ行ったのかと家の外にでたエドガーは、清浄な光を浴びてたたずむ弟の姿を見つけた。
「フラン」
めずらしい光景だ、とエドガーは思った。朝が弱い弟と、真新しい太陽のとり合わせというものは。
「いい日になりそうだね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます