第12話 入逢の鐘もきこえず春の暮れ 芭蕉

12 入逢の鐘もきこえず春の暮れ 芭蕉

 

 川上啓介は栃木新聞の社旗がはためいているシビックを新死可沼駅前に停めた。

昼近いので、観光客やゴルフ客もなく、ロータリーには春の午後のものうい大気かただよっていた。リックを背負って先輩の黒元哲也がこちらへ歩いてくる。どうやら、このところ事故が多発して遅れがちな日光行の電車は定時に到着した。


「黒元さん」

 声を掛ける。ところが、黒元はギグッと立ち止まっている。動かない。なにが彼の足を止めさせたのか。彼の視線の先に啓介も目線を合わせた。


 駅前の広い歩道の片隅に男が立っていた。なんの変哲もない男だ。ただ、田舎町にはそぐはない縁の広いシャレタ特注品らしいストローハットをかぶっていた。

 男はなにをするでもなく、駅前広場を臨んだ歩道に立っていた。直立不動の姿勢。まるで、塑像のようだ。通行人に声をかけるわけでもなく、ロータリーにたむろする客まちのタクシー運転手がおしゃべりするのを眺めている風情だった。


「あれ以来、はじめての帰省ですね」

「そういうことになる」

「やはり忘れられませんか」

「妹だからな」

 啓介はセンパイへの礼儀としてフッタ話題だった。黒元はあまり触れたくない話題なのだろう。

「なにを黒元さん見ていたのですか」

「気づかなかったのか」

 黒元は先輩記者というよりも、いまはすっかりルポライターになりきっていた。それも廃墟ハンターの顔だ。

「センパイ、たくましくなった感じですね」

「少林寺の道場にかよっているから」

 照れくさそうに黒元はいった。それでも酔拳のカマエを見せる。あいかわらずオチャメだ。


「駅前にいた男、影がなかった」


 そしてボソリとつづけた。

 あとのことばは独り語とのように聞こえた。


「ソレッテ、どういうことですか」

「啓介よ。きょうは、〈鐘つかぬ里は何をか春の暮れ〉とか〈入逢いの鐘もきこえず春の暮れ〉という奥の細道の曽良『徘徊書留』が気になって死可沼にきた。チエンソーカービングで芭蕉と曽良の木彫があるのも見たかった。ところが、ラッキだった。駅前で影のない男をみたからな」

「だから、それは黒元センパイどういうことですか。鐘つかぬ里、入逢の鐘もきこえず、どこが気になるのですか。ぼくにもわかるように説明してください。廃墟のほうはどうするのですか。いちおう、それらしい場所を探して置きましたが――」

 

 啓介は戸惑いながらも黒元に訊いた。


「鬼だよ。いまでいう吸血鬼だよ」


 あまりにも、唐突な、ゲームの世界のようなことばに啓介はついていけない。


「ヤフーの『廃墟検索地図』では例弊使街道の『明神ホテル』しかでていませんが、センパイのためにそのほか赤い屋根の家とか、赤いツタ壁の家をみつけておきましたよ」


「心配するな。むだにはならない。それどころかうれしいよ。両方がつながったんだ。芭蕉の発句には、夕暮れても鐘のつけない里の人の事情が隠されていた。いいか、啓介よくきけ。この辺一帯は、むかしから、鬼の、吸血鬼のホンバだった。夜になるのが恐かったのだ。太陽が沈んだ。闇が訪れる。夜を知らせる鐘なんかつけなかった。なにしろ夜行性の鬼がいたのだから」


「『陸奥の、安達の原の黒塚に、鬼こもれりと聞くはまことか』は、勅撰和歌集『拾遺和歌集』に採録された平兼盛(たいらのかねもり)の作品で、奥深い安達ヶ原の黒塚にさる高貴な女性たちが住んでいるのを知り、その人たちにあてて、『安達ヶ原には鬼が住んでいると聞くが、それはほんとうか』と詠い送ったもですよね。センパイ、ここでいう『鬼』とは美女の例えなのです」


「さすが国学院の国文科だ。啓介」

 美女がいれば吸血鬼がいる。

「いや、これも検索しといたんです」

「まあいい。それじゃ、宇治拾遺物語はどうだ。巻13の10『慈覚大師、纐纈城に入り行く事』……」

「しりません」

「慈覚大師はここ下野の生まれだ。中国の血ぞめの纐纈、赤い絞り染めの布の話だが、これは吸血鬼の所業だ。人の血を絞り、血で布を赤くそめていた。その作業に従事していた彼らが、大師の帰国のさい、ひそかについてきて、この辺に移住してきた。だからこのあたりは昔から、吸血鬼がらみの話がたえないのだ。上田秋成の『青頭巾』の話しもあるだろう」

「絵空物語とばかりはいえませんね。センパイの口からきくと、スゴクリアルです」

 

 啓介と黒元は車を路肩に停めた。車外にでた。死可沼市の郊外だ。春の日差しが暮れかけていた。黒元は田園地帯の黄色い菜の花畑を見渡した。南魔地区にある赤い屋根の廃墟を訪ねようというのだ。

 こんもりとした鎮守の森の脇にある。ぽつんと一軒だけ赤い屋根の家。

 まわりに他の家はない。太陽が照っているのだが、不気味なことにはその赤い屋根は日陰の中にある。森の大木の影になっているのだ。

 それほど遠くまで森の影が伸びているとは思えないのだが。外壁は黒色のサイディング。窓は極端に少ない。その窓も小さい。まるで、陽光の射しこむのを拒んでいるようだ。


「たしかに、雰囲気はある。廃墟としての恐さ、戦慄はそなえているな」

「明神の彩子ちゃん幼女殺人事件の犯人が五年も潜んでいた家です」

「それで、廃墟か」


 廃墟にはつきものの、誇張された恐怖はない。ただ、潜んでいただけときいたからだろうか。ところが、勝手口の扉からしのびこんでみると、様相は一変した。

 偏執的な凶暴な暴力の跡が残留していた。幼い彩子ちゃんの悲鳴がとびこんできた。黒元はおもわずタジタジとした。よろけた。ソノ足元はむしられた畳の部屋だ。畳のいたるところが毛羽だっている。


「これは、なんですか」

 啓介も気づいた。

「女の子がかきむしったのだ。犯人はここに潜んでいただけではない。ここが犯行現場だ」

「そんなことは警察で発表していません。犯人は明神から彩子ちゃんを連れ去って宇都宮の鬼怒川の河川敷で犯行に及んだ。そして放置した。そう新聞にもわたしがかきました」

「ちがうな。ここに何日か、監禁しておいた。彩子ちゃんの悲鳴が、暴行され、いたぶられていた光景が残っている」

「恐いこといわないでくださいよ」

「いや、おどしではない。廃墟ハンターのおれがそう感じるのだ」

 黒元の言葉に部屋が反応した。ビーと音をたてて横ゆれが起こる。

「はい、川上」

 部屋の震動と同時に携帯が着メロをかなでた。

「啓介。いまどこだ」

 デスクだ。

「黒元センパイといっしょです。死可沼の南魔地区にいます」

「ちょうどよかった。死可沼署で黒川の橋につるされていた女子中学生殺人事件を追っている。犯人はまだ死可沼に潜伏している可能性がでた。取材してくれ」

「ふふふふ、聞けたぞ、きけたぞ」

 ブキミナ声だ。耳もとでした。

 黒元と啓介の間に、奥の部屋のフスマを開けて、ふいに男が出現した。

 なにか、忌まわしい姿のものがでてきた。顔かたちは、どこといって、異形の部位はない。雰囲気が異様だ。

 フスマの奥の闇から男が現れただけで、あたりの空気が冷えた。ふいに冷却装置のスイッチがはいっちたような感じだ。あるいは、冷蔵庫を開けたときに、冷気が白い霧となって吹きだすのにも似た現象だった。


「吸血鬼だ。啓介、ユダンスルナ」


 油断するな、といわれても、どうすればいいのか、わからない。

 一瞬、逃げるということばが、脳裏をよぎった。

 男の掌底突きが啓介の顔面を襲った。カギ爪が不気味に光った。かろうじて、啓介は避けた。いや、避けられた訳ではなかった。黒元が男の足にケリをいれた。男がよろけたからだ。


「啓介。ニゲロ」


 逃げろといわれても啓介は動けない。金縛りにあった。いや、これが吸血鬼縛なのだ。両眼が赤く光っている。男の顔が変化する。皮膚の下で小さな虫があばれている。むくむくもりあがる。

 男の顔は怪異な風貌――vampireに変化していた。それが啓介には識別できないでいる。


「啓介。逃げろ」

 V男の手が啓介の腕をないだ。

 腕の肉が鉤爪で抉られた。

 啓介は激痛のあまり倒れる。

 苦鳴をあげつづける。


「ああ、うまい。ひさしぶりの削ぎたての生肉はうまい」


 クシャ、クシャと咀嚼音をたてて啓介の上腕部からもぎ取った肉をたべている。カギ爪で啓介の肉を抉ったV男が分厚い唇で啓介の肉を味わっている。肉からは赤い血。啓介はじぶんの肉がV男に食べられているのをみて顔面蒼白。


 赤い血のしたたる肉を食べている。白いだがふぞろいな歯でよく噛んでいる。食感をたのしんでいるようだ。ゴクリとツバをのみこむ。ようやく、男が普通の男ではないのに気づく。さらなる生肉をゲットしょうと二人のほうに、近寄ってくる。


 こんなの普通ではない。普通に見えて、普通でないモノが怖いのだ。コイツは人外魔境のモノだ。おどろきで体ががくがく震えている。やっと立っている。いまにも失神しそうだ。


「倒れたら、それこそ、完食されてしまう。逃げるんだ。這ってでもにげろ! 動け、一歩でもいい外に向かって動け。この廃墟からでるのだ。まだ、太陽は輝いている。陽光の下では、V男の動きは鈍くなる。まさか煙を上げて消えていくことはないだろうが。動きは制御される。うまくいけば、外までは追いかけてこない。逃げろ。啓介。外にでるんだ」


 廃墟ハンターの黒元は必殺の正面蹴りをV男に放つ。

 蹴りは股間をヒットした。

 V男は一歩引いただけだ。

 蹴りはまったく効果がない。

 キイテいない。

 V男がカギ爪で黒元の腕をなぐ。

 かろうじて、かわす。突きが鳩尾にくる。

 ダックしてかわす。息が上がる。


「啓介。早く逃げろ」


 やっとのことで声がでた。息が上がり、動悸が高まり、苦しい。恐怖で胸の鼓動が速くなる。このままでは、おれもやられる。啓介だけでも逃がしたい。なにが廃墟ハンターだ。たしかに、廃墟には人外魔境のものがデタ。幽霊にも遭遇している。キモは座っているつもりだった。からだも少林寺の道場で鍛えている。


 でもこれほど凶悪なV男ははじめてだ。

 V男の眼が赤く爛れたように光っている。

 二匹も獲物がマグレこんできた。

 労せずして食料が向こうからやってきたくらいに思っているのだ。啓介は自力では体を移動できないでいる。


「這ってでも、外にでろ。転がってでも逃げろ」


 V男は啓介の肉をクシャクシャ噛んでいる。歯をむきだし、ヨダレをたらしている。食感を楽しんでいる。眼は凶暴。赤い。その咀嚼音が呪音となって啓介をこの場に縛りつけている。痛みだけではない。動こう、逃げようとする気力をそいでいるのだ。

 一刻も早く、啓介を脱出させなければ。

 でも、独りではムリか。黒元はそう判断した。


「ぼくはもうダメです。センパイこそ、外へ、逃げてください」


 苦しい息の下から、啓介が声をふりしぼって訴える。腕の傷からは血が噴き出している。袖の裂けた布地からは血が滴って止まらない。


「ぼくを置いて、逃げてください」

 痛みのため失神しそうだ。血が指先からしたたっている。

「できるか、そんなこと」

 もうこうなったら、やることをやる。リスクは承知だ。黒元は啓介の無傷のほうの腕に手をかけて引きずった。啓介を抱き起こした。V男がすかさずカギ爪で襲ってくる。V男の牙が黒元のエリクビに迫る。臭い息を吐きかけられた。

 生肉を噛んだ。青臭く血生ぐさい口臭。

 麻酔効果がその臭いにはあるのか!

 黒元の動きが一瞬とまった。

 もうこれまでか。

 線がながれた。

 いや風をきる音がした。なにかV男にとんでいった。

 V男の胸元に突き刺さった。竹串だ。竹串が空気を切ってとぶ。

 V男のからだに突きささる。焼き鳥の串ではない。

 焼魚用の長く太いやつだ。

 V男の胸からけむりがでた。焼けただれている。

 生肉を噛むのをやめてキョトンとしている。

 啓介の腕の肉を抉った精気はV男から消えている。

 動けないでいる。


「串センボン」


 声がした。串がその宣言どおりピュと音をたててさらに何本もとぶ。

突きささる。竹串は死可沼の特産品だ。V男は倒れる。黒元の背後から迷彩服の男があらわれる。啓介を軽々と背負った。

 入口に向かって駆けだした。


「これでどうだ。まだ外は光がさしている」


 男はフスマとそのさきの縁側のガラス戸をつぎつぎと蹴倒した。それらのことを啓介を背負ったままやってのけた。黒元は唖然とした。男につづいて赤い屋根の廃墟の庭にとびだした。

 五年前に鬼怒川の河川敷に放置されていたのは、小学二年生の川俣彩子だった。その犯人がずっと隠れ住んでいた。今は廃墟と思っていたのにV男が潜んでいた。犠牲になるのはたえず幼女か少女だ。

 そしてこの廃墟にはV男がいた。廃墟というよりも空家だが。

 逮捕され終身刑に服している犯人の背後にV男がいたということか。単独犯ではなかったということか。V男はロリコンだ。犯人の影で若い血を飲んでいる。吸血鬼がらみの犯罪で共通しているのは、赤い血が流されているということだ。

 この推測に黒元は身震いした。春のうららなこの北関東の小都市にこのような怪異現象があらわれているとは、だれも気づいていない。

そしてその怪異を起こしている張本人が拍手をしている。


「はい、よくできました」

 

 さきほど串で倒されたV男ではなかった。

 黒元の推理をほめているのか。まだ拍手が鳴りやまない。

 黒元の声にださないことを理解がきるのか。 

 新死可沼の駅前に立っていた影のない男だった。

 迷彩服の男は啓介を庭に下した。拍手をしている男と迷彩服男が向かいあった。


「おまえが、羅刹か」

 羅刹。

 この男が。

 駅前で佇んでいた男は羅刹。

 羅刹だったのか。

 串を投げて彼らを救った迷彩服の男がいった『羅刹』ということばに、黒元は敏感に反応した。そのことばに、身震いした。


「おまえか。マヤ――裏通訳。見覚えがある。たしかに、世界陸上で、あのとき、会っている。ルーマニアのわれらの同族にし侵略者だった吸血鬼を全滅させた男。人外魔境の住人たるわれら夜の一族と闘う能力を有した男。エクスキュータ―のマヤ」


 啓介を背負って助けてくれた男、この男が裏通訳として東京で二十年前に開催された『世界陸上大会』で活躍したマヤなのか。

 この男がマヤなのか。いまとなってはレ―ジェント。壮絶な吸血鬼との戦いで死亡して、都市伝説となった男。マヤ。黒元はさすがに当時から記者をしていたので、マヤの名前だけはしっていた。その男がこの死可沼に隠棲して生きていた。


「そうだ」


 マヤは羅刹に応えている。


「ル―マニヤの吸血鬼を全滅させたレージントの男。それにしては若すぎるな」

「ジャスコの地下の廃墟で吸血鬼カーストの最下層、夜光族をおどしてききだしたこの廃墟――おまえに会えるとは――思わなかった。羅刹。」

 もし、羅刹さまが存在するとすればこの死可沼で魔界と繋がっている場所。「南魔地区」です。と夜光の太郎はいやいやながら教えてくれた。


「救急車をよんで、ケガニンを病院に搬送してもらうのだ」

「でも、助けてもらたのに、マヤさんを残していくわけには……」

「心配するな」

 

 伝説の裏通訳マヤがふりかえって黒元にいった。

「では……、じぶんが車でつれていきます」

「ケガニンは見捨てて逃げたらどうだ。そいつの血はまだ吸っていない。おれも、たまには血を吸ってみたい」

 羅刹が本音でいっているようで恐い。

 羅刹が余裕の笑みをうかべている。

 笑顔のほうがかえって凄みをます。



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