第5話アサヤ、美智子さんと連れ立ってヨークベニマルにでかける。
5 アサヤ、美智子さんと連れ立ってヨークベニマルにでかける。
長々と連なる大谷石の蔵。
壁面に『麻』と大きな文字が浮きでている。
元帝国繊維の倉庫群。
帝繊の景気がよかった頃には死可沼の街もいきいきとしていた。
倉庫の下の通称木島堀り。
運河沿いの薄暗い小道――『せせらぎ公園』をベニマルに向かう。
十時までヤッテいるから助かる。おりしも、あまり明るいとはいえない街灯をあびた運河にパシャっという水音がした。
さっと黒い影が水面をかすめる。
「いまのなに?」
「前にも見たことがある。イタチだろう」
「いつ見たの? わたしはじめて。この街にイタチがいるの?」
そう開き直られると、帝繊の全盛時代をなつかしんでいたアサヤは、歳月の流れが曖昧模糊となる。いつ見たのか、思いだせない。
「いつだったの、わたしきいていない。そんなことなかったわ。いまはじめて見た。狐かしら」
シラッといってのける。いくら周囲が山の舟形盆地の地形の街だからといって、北関東の北端にある田舎町に、狐が野生しているわけがない。
「あら常識にこだわっている。神戸で六甲から猪が下りてきて街をワガモノガオに歩きまわったり、川崎の川にイルカがいる時代なのよ」
これまた、古い話しをむしかえす。
そういえば、動植物界には外来種がはびこっている。従来種でもいったんは絶滅した鴇の人工孵化に成功したニュースをテレビでみたのはいつの頃だったろう。野に放って、いまは繁殖させている。
「いや、黒だった。濃いねずみ色かな」
「いいえ、茶でした」
「街灯が暗いから茶に見えたのだろうが、黒だったよ。千曲川でミンクが大繁殖して川魚に甚大な被害がでているらしい。なんでもパブル期に付近で人工飼育していたものが野生化した」
「わたしミンクのコートほしかったな。夜会服にミンクのコートを羽織ってみたかった」
「ムリムリ。そんなことヤツガレに期待されてもダメダモンネ」
だいいち、こんな田舎町で夜会服をきて出席するようなパーティが催されることはない。
ここは、アメリカではないのだ。
仮に、あったとしても、小さな私塾の主宰者のアサヤが招待されるなんてことはない。地位も、名誉も、金もない。あるのは自尊心だけの、ヨレヨレの中年男だ。
「あら、いってみたかっただけよ、気にしないで」
「そういわれても……男はつらいよ」
といった具合に、動体視力からはじまった会話の齟齬は黒か茶色か、黒白がツカヌママ、ベニマルまでもつれこむこととなった。
あるは、あるは赤札半額。10時閉店間際半額見切り。
こっちらは、商人の出だから安物を買うのには引け目はない。
なにかすごく得をしたようで、ルンルン。ミイマのほうは、いま塾の時間が終わったのよ。と顔見知りのレジの子にいいわけをしている。
けっして、半額50%引きをネラッテきたことを悟られまいとする。
クロウしているんだな。かわいそうに。そんなことで見栄をはらなくてもいいのに……ミイマ。かわいいね。
アサヤのほうは、「寅さん」の柴又は帝釈天に参拝した小旅行を想いだす。そして柴又の駅前にあった寅さんの銅像。バカだバカだといわれても、ついつい故郷にもどってきてしまうという虎さん。ヤツガレもこの死可沼ではバカだ、変人だ、偏屈ジジイと罵られているのだろうな。すこしもさびしくはない。むしろ誇りとしている。
無洗米10キロ袋。ノンブランドのブレンドなので大特価2750円を買いこんだのでリックの重みはかなりのものだ。歩きだす。
「あなた、うなだれないで。顎あげて」
「なにが、ボウイズチンアップだぁ」
とは叫びだせなかった。ワイセツなジョークはきらいな純情無垢なミイマだ。
宵闇につつまれた街の底辺をただ黙々と二足歩行動物の悲哀をかみしめながら、トホホナ一日の終わり。――家路をいそぐ二人なのでありました。
というふうに……わが家にもどっておそい夕食をとれば、日本伝来のいまは準絶滅種の私小説家的日常がブジに終わり、また明日ということになるのだろうが、そうはいかなかった。
さきほど黒か茶色か、はたまた濃いねずみ色か、などと話が噛みあわず、狐かイタチに化かされたような、決着がつかなかった会話。「ミンクのコート欲しいわ」といわれて、「これはヤバイ」と会話を切りあげた倉庫群のあたりまでさしかかると。――ふたたび黒い影。
得体のしれない小動物と遭遇したのだから、警戒すればよかったのだ。
薄暗い木の下闇を迂回すればよかったのだ。
あれは予兆だったのだ。
気づくのが遅すぎた。
こんどは黒い人影だ。
いま、アサヤが目の前にしている黒い影は――なにか凄まじい凶悪な目的意識に突き動かされて行動する生きものだ。
人間の形態はとっているが、人間であるはずがない。形だけは人間だが、別の生きモノなのだ。背筋をムカデが這うような戦慄に襲われる。
「こわがらなくてもいい。おれたちがほしいのは美女の血だ。それも、ほんの少しでいい」
「あなたはだれよ」
気丈にもミイマが問いかける。返事はないものと思ったが、あった。
「おれのクランは『夜光』名は太郎」
「夜光族の太郎さん。覚えて置くわ」
ミイマは動じる気配もない。
血を欲しがる。
血を吸いたい。
ということは、正体がバレバレだ。
VAMPIRE。だ。
バンパイアは見る間に増殖した。
いや、はじめから数人いたのだろうが縦にならんであらわれたので、一人だけと誤解していたのだ。総毛立つような恐怖。殺気がシュワっと吹き寄せてくる。男たちから目もくらむような鬼気が発散されている。
けっして怯んでいない。むしろはしゃいでいるような声でミイマがいう。わがカミさんながら、たいした胆力だ。感心していると、
「リックおろすのよ! なにグズグズしてるの」
むしょうに闘争的な発言に鞭うたれる。リックを背中からおろして臨戦態勢にはいれというのか。身軽になって逃げましょうというのか。……おかしな指示が聞えてきた。
「米をばらまいて」
「せっかく安くかってきた米だ。一粒の米もむだにしたくない」
「なにグチグチってるの。あいては吸血鬼よ。お米をばらまきなさい」
雪のふるごとく米をまき散らす。
おどろいたことに吸血鬼は予想外の行動にでた。
舗道に撒かれた米をカギ爪でひとつぶ、ひとつぶ拾い集めているのだ。
ポリポリたべている。だれもが、おなじような行動パターンをとっている。
落ち穂拾いの絵にあるような屈みかたではない。キャッチャーのようにストンと腰をおとして、前屈みの姿勢でポリポリ米を噛んでいるのがコッケイだ。
「なにぐずぐずしているの、この間にアイツラをマイテ、逃げるのよ」
「これは、黄泉比良坂ですね」
茫洋たる声で話しかける夫は、まだこの場の緊迫した状態を理解していない。
黄泉比良坂を逃げかえるときに、男神イザナギが女神イザナミにブドウの種をまいて逃げきった神話を思いだす。
「話しはあとで、いいから。逃げるのよ」
だいぶ軽くなったリックを背負い直す。
逃げ出そうと一歩足をふみだした。
ニカット吸血鬼のフゾロイナ乱杭歯が目の前に迫ってくる。
「バアカ。遊んでやったのがわからないのか。こんなことではごまかされないんだよ」
乱杭歯のすきまから吐きだされる息がものすごく臭い。吸血鬼の歯がふぞろいなのは、シソウノウロウだからだ。とオカシナことに気づいてアサヤは感心している。
「バカか。おまえのような、オジンの血を欲しがるわけがない。おれたちが飲みたいのは美女の新鮮な血だ」
悪臭に取り囲まれた。
この汚濁にみちた臭いをかいでいるとからだの動きが緩慢なものとなる。
それこそやつらの狙いなのだ。
まず臭いでアタックしてくる。
この場所そのものが邪悪な汚穢まみれなのだ。
からだが思うように動かない。
「吸血鬼の鬼目。猫が鼠をイスクメルのと同じ効果があるのよ。ああいいにおいだこと。バラのにおいだわ」
この悪臭をバラの芳香と思えといわれても、いくら思想モウロウの、中年でも、それはムリというものだ。バラときいて、吸血鬼の群れが一歩後退りする。
「女、なにか知ってるな」
「知らないわよ。なにいってるのかしら」
ミイマのネライはほかにあった。時間をかせいでいた。後ろ手ではやくこの場を去れと合図している。そんなことができるはずがない。ミイマを置いて敵に後ろを見せるくらいなら戦いを選ぶ。
「なにイキガッテいるのよ、はやく逃げなさい」
いらいらして、ミイマがついに声にだしてアサヤに命じる。
「おれたちがバラのトゲにいやな記憶があるのをどうして知っている。おれたちがなんでも、細かく数え上げる習癖のあるのも知っている。なぜだ」
「あらそんなの、だれでも知っているわ。映画からの知識よ」
ミイマが焦っている。1オクターブさらに声が高くなった感じだ。
吸血鬼にかんする知識はおれの専売特許だと思っていたアサヤにはおどろくことばかりだ。
「バラのにおい。バラにとりかこまれている。いいにおいだこと。これが天国の芳香なのかしらね」
「女、やはりおまえおかしいぞ、さっきからいうことがいちいちおかしい。わが一族のなかでも古い世代のもののみが有する記憶だ」
吸血鬼は天国の庭園で園丁をしていた。薔薇のトゲで血をながした。それをすすった。神に見咎められて堕天使となったのだ。
そんな古い記憶がミイマにあるなんてアサヤも信じられない。
吸血鬼はおそってこない。なにがそんなに吸血鬼をタメラワセテいるのか。
「わたしは比良坂にも天国にもいた記憶がある。その場に存在していた臨場感があるといったらどうするのよ」
「ゲェ。女、おまえ、どこの氏族〈クラン〉なのだ」
氏族を――じぶんの出身をきかれたら、応えない訳にはいかない。
吸血鬼界の不文律の掟だ。
「アメリカは南部、jazzの都、ニューオーリンズの支配階級――ヴェントルーが父よ」
妻の美智子が初めて明かす、家系の秘密だ。アサヤはもしやと思ったことがない訳ではなかった。しかし、その事実をきいて驚嘆した。バンパイアであることをみずから明かさなければ逃げきれない。それほどの敵なのだ。コイツラは。
「ゲェツ。ヴェントル――最高位階級のクインーなのか」
ほかの吸血鬼もたじろぐ。
「クインーか? そうなのか」
異口同音に吸血鬼がのけ反りながら叫ぶ。
アサヤにもさてこそ、と合点のいくことが多々これまでにもあった。
結婚20年にして、その疑問が氷解するとは……。
いつになっても若々しく美貌を保っているミイマを見つめる。
おれたちが、飲みたいのは『美女の新鮮な血だ』などとさきほど吸血鬼がホザイテいた。アサヤが娘をつれていると思ったのだ。
老けてみえるように、あなたに合わせているのよ……とジョークを交えて、まいにち丹念にケショウする。
それはまさに儀式のように神聖な行為だ。その時間が異様に長い。日焼けどめクリームを顔といわず手といわずたっぷりと塗る。それでもいくら誘っても美容に悪いからと太陽の照っているうちは散歩にでない。
夕暮れてから好きなバラの手入もするくらいだ。
長いこと、オカシナ行動があった。
わたしの母親の葬儀の日など男体颪のふく真冬でも、パラソルをさして葬祭場にでかけた。街の語り草となっている。
車からおりて、数歩。それでもパラソルで影をつくった下を歩いた……。さすがアメリカ育ちのご婦人はちちがいますね、などと皮肉くられたものだ。
紫外線への警戒は度を越していた。
リックは米をだいぶばらまいたので軽くなった。
ヤツラはシーンとしてしまった。追いかけてこない。
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