第2話 つまらないせかいにさようなら(前編)

 あれから数ヶ月。梅雨が明け、じりじりと焼け付くような暑い日々が続いた。夏が本格化したと言わんばかりに暑さが俺の体を蝕む。

 最近では、目覚まし時計より先に、蝉の鳴き声で目が覚めてしまう。これが季節の変わり目か、と自分の老い……のようなものを感じるようになった。

 と、まあ、そんな感じで、俺の今の高校生活はと言うと……夏休み直前にして、遊ぶ相手は見つからずぼっちが確定。

 まあ、別に……毎年のことだったんだから気にしてない。気にしてはない、はず……。

 夏休みは学業や部活動、習い事や自分のやりたいことなどに励むためにあるんだ。浮かれてる暇なんて俺にはない。別に強がっているわけではない。本当に。

 周りのクラスメイトたちが、あれやこれやと夏休みの計画を着々と立てている。だが、そこに加わろうなんて勇気も根性も俺にはない。

 いつも通り、帰る準備をしようと鞄に教科書を詰め込み、肩に掛ける。しかしなぜだろうか、いつもよりはるかに鞄が重く感じた。


 玄関を抜けると焼き付けるような暑さが肌に照りつける。白は光を反射するというのに、ワイシャツを通り抜けてくる紫外線が腹が立つほど憎い。

 肌が焼ければ余計に幼く見えてしまうので、日焼け対策をしているのだが……そんなものは、天下の太陽様には効かないようだ。


「あっつー……」


 汗を拭い、手で首元を扇いだ。しかし、悲しいかな。風が吹いても、生ぬるい風しか来ないため余計に暑くなる。コンクリートから伝わる熱が俺の足元を焦がしている。

 真昼のオフィス街は、昼休み中のサラリーマンやOLでいっぱいだった。ごった返した人ごみの間をくぐり、ビルの窓から反射される太陽の光を直に浴びながら、この異常な暑さに愚痴を零していた。横断歩道で信号を待つ時間さえも嫌になる。普段は気にも留めない車の排気ガスですらも、鼻について嫌になった。

 今日は終業式しか無かったため、午前中で学校が終わった。早く家に帰れると喜んでいたが、それはとんでもない誤算だった。

 太陽が自分の頭上で、この暑さに苦しんでいる人間を面白がっているようにも感じる。首筋からたらりと流れる汗が鎖骨に流れ、胸元がべたついて仕方ない。

 …ともかく、早く家に帰ろう。帰らなければ死んでしまう。小学生の頃はよく、夏休みが始まる直前まで荷物を学校に置きっ放しにしていたが、

 さすがに今年の暑さはやばいと察して、少しずつ持ち帰っていて正解だったと思う。よくやった、過去の自分。

 そうだ、コンビニでアイスを買おう。それで家に帰るまで、俺の命を紡ごう……!額の汗をたらしながら、一人虚しく炎天の下で決意し、劈く蝉の声を背に、足早に帰路についた。


 明日から夏休みだ。できる事なら、今この瞬間から、平穏無事な生活を送らせてくださいと、俺は神様に強く願った……。



 * * *



「あっれー?! 君、この間の絵本作家くんじゃん!」

「……は?」


 その聞き覚えのある声に、俺は目を見開いて、持っていたぶどうジュースのグラスを落としそうになった。間一髪で防いだが、きっと手元を滑らせていたら、この真っ白いカーペットは瞬く間に、盛大な惨劇の現場になっていただろう。危なかった危なかった。


 ……って、そうじゃなくって。神様、俺は願ったじゃないですか。今日から平穏無事な生活を送りたいと。それなのに……。


「……な、なんで、貴方が、ここにいるんですか……?」

「やだなぁ、すーちゃん!こういう場所だからって、他人行儀になる必要は無いってー!俺らは同い年なんだし、気楽に行こうよ、気・楽・に・ー!!」

「は、はぁ……」


 俺の身長よりもはるかに上、身長180cm程あるような大きな影(俺にとっては、だが)……。彼、仁都如月は、酔っ払ったおじさんのように俺の肩を抱いた。俺の身長が低いからか、全体重が容赦なく圧し掛かってくる。これじゃまるで小学生と親戚のおじさんだ。


 以前見た学生服姿よりも、スーツ姿の仁都は悔しいほど格好良く見える。

 スラッとした手足が、高級そうなスーツの良さをうまい具合に引き立てている。広告か何かのモデルで使われていても全く違和感がない。ネクタイを整える動作一つだけでも様になって見える。そうか、勝ち組というのはこういうことなのだろう。

 俺も似たような服装のはずだが、こうも違うとどこか納得がいかない……。実際、俺のスーツ姿を見た姉貴が「何それ七五三じゃんー!!」とゲラゲラ意地悪そうに笑っていたのだから、余計に落ち込んでしまう。


 って、いやいや!そんなことよりも、だ。

 おかしいだろ、なぜ、仁都如月が【ここ】にいるのかだ。


 今日はあらゆる大手企業の上層部だけが集まるパーティーが行われている。上層部だけと言うが、その家族も集まるパーティーである。自慢でもなんでもないが、俺の家、雀宮家もいくつかの企業を取り扱っているため、こうやって毎月のように何かのパーティーに呼ばれることが多い。だが、呼ばれるからといって大金持ちというわけではない。一般家庭より、多少裕福に見えるだけである。別荘やジェット機を所有してるわけではないし、それは親父の趣味ではない。

 そもそも今日は親父が出張で出席できない代わりに、姉貴と出席しているだけだった。元々、出席さえしていればいいようなパーティーなのだ。適当に飯を食って、適当に終わるまで時間をつぶせばいい。しかし、そんな俺とは逆に、姉貴はイケメンエリートビジネスマンを捕らえるために参加している。

 さっきから上品な女性を演じる背後で、肉食の影がチラチラと見えている。おお、恐ろしい。

 そして、俺は、母親から姉貴の付き添いで行ってきてほしいという命令の下、ここにいる。


 だからこそなぜ彼がここにいるのか、それが疑問だった。まさか高校生で事業家、というわけではなさそうだ。もしそうならば、どこかのパーティーで会ってる筈だ。だとしたら、無難に考えれば、身内か誰かの付き添いだろう。


 第一印象だけで見れば、こういう場に全く縁が無さそうなタイプに見えるが……。本は表紙で判断してはいけないという言葉があるように、少ない情報で相手のことを決め付けるのは不躾すぎる。そう思いながら彼に若干の警戒心を抱いていると、彼は近くのテーブルからぶどうジュースのグラスを手に取り、指先で軽く回し、ふふっと笑った。


「俺ね、今日【知り合い】の付き添いで来たんだけどさー。ほんっとにこういうの堅苦しくてやだねぇ。こう、キラキラしてて華やかなの、俺には合わないや」


 遠くを見つめ、ポツリと呟いた。


「俺には……眩しすぎるよ」


 そう言った彼の視線は、その先のグラスの中に溶け込んでいた。それはどこか寂しそうに見えたが、俺の視線に気づいてか、すーちゃんは?と笑顔で尋ねてきた。えっと、と言葉を詰まらせながら、首の後ろを掻いた。


「まぁ、俺もこういうの好きじゃないし……」

 そういうと「だっよねー」と言って、壁沿いに置かれていた椅子にドカっと座った。

「はあー……付き添いとかほんとに面倒臭いよねー…。そういや、すーちゃんはどうしてここにいるの?」

「俺は……父親の代理で来た姉貴の付き添い」

「ほー! じゃあまた俺と同じなんだー!! 一緒だー!」

 乾杯だ! かんぱーい! とグラスを勢いよく俺のグラスに合わせてきた。カチンッと軽い音が鳴る。この世界で、この乾杯の音頭は小さな鈴の音のようにしか聞こえないだろう。これじゃまるで酔っ払ったおっさんだ。見た目がいいのにこれじゃあなぁ……。というか、この中身はほんとにジュースなんだろうか。


「俺らって案外、似たもの同士かもしれないね!すーちゃん」

 それは遠慮したいんですけど。というか、むしろねえよ。

「というか、こんなところで会えるなんて運命の再会?!みたいな」

 いやいや、そんなわけないだろ。

「もはや俺らは、運命の赤い糸で繋がっているのでは?!」

「……いや、それもないから。つーか赤い糸じゃないだろ?普通は」

「え?」

「あ」


 つい口を出してしまった。やらかしてしまったと一気に体から血の気が引いていく。別にツッコミを入れたかったわけではない。これは完全なる誘導だ。俺のせいじゃない。そう思いながら冷や汗をかいた。この間僅か二秒。返ってきた反応は意外なものだった。


「ぷっ、あはは!言うね、すーちゃん!見かけによらずさ!」

 あははとお腹を抱えるように笑い出す。それは馬鹿にしているわけでもなく、ただ単純に面白いと俺を笑っているのだ。なんだか張り詰めていた糸が切れるのと同時に、自分の中の羞恥心が表に出てきた。なんだよー、と怒ると、「いやあ、可愛いなって思っただけだよ」と目の涙を拭いながら言った。そこまで笑うことかよ!と反論すると奴には逆効果のようで、お腹痛い~なんてさらに笑い声をあげた。

 なんなんだよもう……。それからも、嫌々ながら話に付き合っていると、仁都は突然、「昔はさー」と話し出した。


「お金持ちっていいなーって思ってたけど、蓋を開けたらこう……なんて言うのかな、世界が違うっていうか場違いって感じでさー…。理想と現実ってこんなにも違うんだね」


 そう言うとグラスに口をつけて一気に飲み込んだ。どことなく切なく寂しそうな目元が、さっきまでの仁都じゃないように見えた。昔の俺と重なるようだった……。


「…俺は、昔からこういうのに出ることが多かったから慣れてるけど……。正直、俺自身も場違いだなってたまに思うよ」


 いつの間にか口を開いてはそんなことを言ってしまっていた。なんだか仁都と話していると不思議と喋ってしまうようだ。

 暗くて地味で無口……。愛想も無ければ、挨拶もろくにできないと、周囲から陰口を叩かれることが多かった。

 それは多分、今も変わらないと思う。俺を見る、この人たちの視線が嫌でも突き刺さる。

 それに全く痛みを感じないわけでもない。でも昔よりは痛みはあまり分からなくなった。

 親父の息子として、親父のために、家族のためにいろんなことをたくさん我慢した。

 それは、雀宮家の長男であり、跡取り息子でもあるから。

 だが、俺は親父の跡を継ぐつもりは無い。俺は親父ほど器用な人間じゃないし、むしろ不器用だからだ。

 俺にはどうしても、大勢の人間を相手にすることはできない。昔のことが頭を過って、それをこの人たちに重ねてしまうからだ。

 だから、そんな人たちの顔色を伺わなきゃいけないなんて、死んでもやりたくない。

 それは、高校生になった今でも変わらない。できる事なら、一刻も早くここから出て行きたい……。


 そう、遠くを見据えながら、昔のことを思い出していると、仁都はそんな俺をのぞき込むように見て言った。


「すーちゃん、今ここにいて、つまらない?」


 そう問いかける仁都の声に疑問を持つよりも先に、俺は俺自身に必要な言葉を見つけていた。



「……つまらない。今すぐ、ここを出たい」


 反抗期の、子供みたいな返事だった。こいつの口調が移ってしまったのかもしれない。

 初めてだった。姉貴の前以外で、自分の本音を曝け出したのは。

 すると、「おーれもっ!」と笑い、ぴょんと立ち上がった。


「…よしっ! んじゃあ、今から俺ん家でパーティーの仕切り直ししよ!」

「は…?はあ?!」


 それは、思っても見ないとんでもない提案だった!

 俺の返事も聞かず仁都は慣れた手つきでスマートフォンでポチポチと何かを打った後、

「じゃあ、行こうか!」と俺の手を引っ張った。


「わっ! お、おお、おいっ!」

「はぐれちゃダメだよ、すーちゃん!」


 俺が仁都の腕力に勝てるわけもなく、俺達はこのつまらない世界から雑多にまみれた町へと飛び出した……。

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仁都如月という男は。 ひきわり納豆 @hitoto07012

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