ターンオーバーXオーバーターン

流雲

やべぇ全然1万字に収まらねえ。そうだ、未完OKだから1万字に収まるだけ収めて未完にしよう!

 あの日不運に選ばれた少女は今や、事件屋見習いとして天国への階段マルドゥックで、交差する空白スポット・オブ・スポットで、新しい人生の階段を昇り始めていた。

 卵の殻をつつき破り、初めて世界に生まれ落ちた“雛”のように。

 炎に焼かれた不死鳥フェニックスが、新しい命に生まれ変わるように。

 あの人のそばにいるために――


「よし、これで事件は解決だ。お疲れさん。いやぁ、仕事がこんなに早く片付いてくれて嬉しい限りだ。」

 法務局への報告書の提出を終え、帰りすがらの廊下でドクターが2人の仕事仲間へにこやかに告げた。

「委任事件担当補佐官の仕事も、もう慣れたものだな。全く君の成長には目を見張るばかりだ」

 チョーカーに変身ターンしているウフコックが労をねぎらうように相棒に語りかけた。

「子供の成長ってのは早いものさ」

ドクターが茶化しながら、隣を歩く少女の方を見遣った。

「ふふ、ありがとう。2人がいつもそばにいてくれるおかげ。でもまだまだ。早く正式な担当官になってもっとあなたたちの役に立てるようになりたい」

バロットは元気な声で答えた。周りにある何らに干渉スナークすることなく自らの喉で。その少女本来の声で。


 “彼女の事件”が解決した後、ドクターは二次事件の手続きで忙しい合間を縫ってバロットの声帯を再生させてくれた。

「君の事件が解決したおかげで報酬はたんまりもらえたからね。オフィスの設備も保険で新調出来たし、高価な生体部品も使い放題。これぞ充実した人生サニー・サイド・アップさ」などと嘯きながら。――いや半分くらいは本当に楽しんでいたのかもしれない。

 ともあれ、その優しいマッドサイエンティストは少女に声を取り戻させてくれた。


 そんなドクターが少し真面目な顔になり少女に語った。

「我々の役に立つことが君の有用性ってわけだ。しかし、僕としては君には“普通の少女”として幸せになってもらいたいという気持ちもやっぱりあるんだ」

 先ほどの成長を喜んでくれていた言葉とは違う、“子供扱い”をされていると感じたバロットが少しムッとしたが、ドクターは構わず続けた。

「というわけで、せっかく早めに仕事が終わったんだ。事後の処理は僕の方でやっておくから、今日は少し遊びに行ってくるといいよ」

 話が思わぬ方向へ転がり困惑するバロットに、ドクターはニヤリと笑いながら1枚のチラシフライヤーを手渡した。

「そこの受付のところに並んでたんだ。確か、こういうの好きだったろ?」

 それはまるで年頃の娘に慎重ながらも雑に接する男親のようなぶっきらぼうさだ。

 手渡されたチラシには市内にある博物館ミュージアムの名前と螺旋の殻の化石が描かれていた。

「『アンモナイト展』……か。いいんじゃないか?良い仕事を成すためには休息も重要だ」

クリスタルの中からチラシを覗き込んだウフコックもバロットへ暇を勧めた。

 自分の好きなものを覚えていてくれる、認めてくれている、そんなことが単純に嬉しかった。

 しかし、まだまだ半人前の私が自分だけ遊びに行っていていいのか? と迷い、返答に窮していると、その様子を見兼ねたドクターがある名案を思い付いた。

「そうだ、どうせだからお前も一緒に行って来いウフコック。デートだ、デート。しっかりエスコートしてやれよ」

 ドクターの名案にウフコックが大層慌てた。

「ドドド……ドクタぁ?! 何を言っているんだ突然!」

 しかし、すぐにウフコックはいたいけな少女の気持ちを嗅ぎ取った。

――(行きたい!)

 そこには肉声も電子干渉もなかったが、バロットの気持ちは皆に伝わっていた。

 少女の眩しい笑顔の前には万能道具存在も無力だった。




 博物館の入り口では天国への階段マルドゥック螺旋の殻の化石アンモナイトとが重なり合い、混ざり合ったようなデザインのウェルカムゲートが出迎えてくれた。

 まるで、この化石はこの都市と志を同じくする者――限りない上昇志向をもって昇る者――であると祝福しているかのようだった。――あるいは、この都市が化石すら呑み込もうとしているのか。そんな風に思いながらバロットはゲートをくぐった。

 館内には無数の化石が――その実物が――並んでいた。立体映像ホログラフで手軽にどんな物でもその形状をつぶさに見ることのできる時代でも、やはりその目で実物を見るという経験は何事にも代えがたいらしく、平日だというのに博物館はそれなりの客入りだった。勿論、バロットもその一人である。部屋に取り付けたイジェクト・ポスターでアンモナイトの姿は毎日のように見ている。それでも目の前に並ぶ実物に心がときめくのを抑えられずにいた。同時に心から感謝した。仕事が早く終わったことに、ドクターの気遣いに、そして今も優しく見守っていてくれるウフコックに。


 世界中で発掘されたアンモナイトがその生息域ごとに分けられ、その特徴や他地域に生息する種との違いなどが解説されていた。同時期にはこんな生物も生きていたのだ、とアンモナイト以外の化石が一緒に並べられていることもあった。

 バロットは人波をするりするりと抜けて館内を歩いていった。決して人にぶつかるようなことはない。展示物への興味を無くした子供が急に駆け出しても、バロットはその動きを容易に感覚し最低限の動きで、そっと衝突を避けることが出来た。母親が「ごめんなさい」と小さな声で謝りながら子供を追いかけて行った。

 きっとあの子は後で叱られてしまうのだろう。そんなことが無性に微笑ましく思えて、何となく子供に向かって小さく手を振ってみた。それに気付いた子供が無邪気に大きく手を振り返したところで母親にその手を掴まれた。


 バロットは内部構造の解説のために輪切りにされたアンモナイトに見入っていた。解説文によると、殻の中はいくつもの気室と呼ばれる小部屋に仕切られており、そこに空気を閉じ込め浮力を得ることで海中を不自由なく動いていたのだという。この構造こそが貝類との決定的な違いであり、アンモナイトがタコやイカなどの頭足類の仲間に近いのであると。綺麗な渦を巻いた殻に見惚れる彼女にさらなる解説が、首に巻いているチョーカーから与えられた。

『アンモナイトは対数螺旋という非常に数学的な渦を巻いて中心から外へと成長していく。殻の開口部が少しずつ大きくなり、少しずつ中心点から離れていき、少しずつ下方にズレていくことで綺麗な螺旋を描くんだ。この拡大率・離心率・移動率という3つのパラメータを使った数学的な式で見事にその形を表すことが出来るそうだ』

――へえ、アンモナイトってそんなに賢いの?

 厳かな館内の空気を壊さないようバロットとウフコックは声を出さずに会話していた。

『無論、アンモナイトが数学を理解して己の成長を決定しているわけではない。あくまで人間が自然の中に法則を見出し、理解しやすくするために数式化しただけだ』

――よかった。アンモナイトより頭が悪かったらどうしようかと思ってた。

『もう少しアンモナイトの気持ちに沿った解釈もあるらしい。つまり、どのくらいの大きさで、どのくらい折り曲がり、どのくらい捻りを加えるのかという3つの志向を環境と照らし合わせながら己の成長を選択するのだ、と』

――分かったような分からないような……。それにしても随分と詳しいのね?

『博物館まで来る自動運転タクシーの中でナビの回線ネットサービスにアクセスして調べておいた。君の叔父上から丁重にエスコートするよう仰せつかっているのでね』

――ふふふ、ナビの隣でナビに変身して何かしてると思ったらそんなことしてたのね。ありがとう、おかげでとっても素敵なデートだわ。

 バロットはわざとらしく大袈裟に感謝の言葉を贈った。

『ご満足頂けているようで光栄です、レディ。さ、次の展示へ参りましょう。足元の段差に気を付けて』

 ウフコックもわざとらしく大袈裟に返した。

 段差への注意などバロットには全くもって不要なものだが、それが尚更おかしくってバロットはケラケラと笑った。クリスタルの中のウフコックが口に人差し指を当てウィンクしながらそっと囁いた。

『館内ではお静かに』

バロットは余計に笑いそうになったが、すんでのところで噴き出すのを堪えて真面目そうな顔を取り繕った。


 今度はとある山脈の斜面からしか産出しないという“宝石化したアンモナイト”が展示されていた。アンモライトという名称らしい。アンモライトは見る角度によって刻々と色を変えるとても美しい宝石だった。ウフコックが解説をくれる。鉱物が豊富な山脈の地層の中で眠るうちに、表面に鉱物が付着し、大地からの圧力を受け、何千万年もの長い時間をかけて宝石と化すのだという。

 生きていたものが死してのち綺麗な宝石となる。そんなことを思ったバロットは少し笑った。そして、「綺麗だった……」と小さな声で呟いて、その展示コーナーを離れていった。

 アンモライトは刻々と色を変えていた。カメレオンのように。あのサングラスのように。少女を見送るように――


 次の展示コーナーで目に飛び込んできたのは異様としか言いようのない物体だった。殻が螺旋を巻かずに、うねうねと右へ左へ曲がりくねったアンモナイト。“異常巻きアンモナイト”と呼ばれる一群だそうだ。極東の島々でよく産出されるらしいその異様なアンモナイトにバロットの目は釘付けになっていた。普通ならば内に巻いているはずの殻が、幾何学的な軌跡を描きながら外へ外へ広がっていく。バロットはこの異様な物体を直接肌で感じてみた。――もちろん展示物には手を触れずに。

その形状を3Dスキャンするように念入りに感覚していった。この古生物は何かに苦しみ、のたうち回り、そこから逃げ出そうとしていたのではないか、そんなことを感じた。

 そうして今度は、なぜそうなってしまったのかに思案を巡らせた。病気? 突然変異?奇形? ――狂っているの?

 そんな考えがふと湧いた時に、ウフコックが優しく教えてくれた。

『なかなかに理解のしがたい形状から“異常巻き”という名が付いてしまったが、これは異常などではなく、環境に適応し進化した結果の姿なんだ』

――進化? 一体どんな環境で過ごしたらこんな形に?

『それはまだよく分かっていないらしいのだが……』

 ウフコックは苦笑いしながら解説を始めた。

『学者たちも初めてこの化石が発見された時は突然変異や奇形種だと考えたらしいのだが、その後同じ形をした化石が新たに見つかり、この種はこういう形の種なのだと認識されたそうだ。さらに形状のシミュレーション解析が行われた結果、この殻は決して乱雑に組み上がったものではなく、非常に規則的に形成されていることが分かった。先ほど話した成長を選択する3つの志向は覚えているか?』

――拡大と折れ曲がりとって奴?それから……あと、何だっけ?

『捻りだ。この捻りがポイントなんだ。“異常巻き”ではない多くの種ではこの捻りは常に一定方向だ。最適な形となるために少しずつ上下へ向きの変更は行うが、180度向きを変えることはない。だから螺旋を描いて丸まっていく。ところがこの“異常巻き”は一定量の成長をしたところで、この捻りが180度“反転”し反対方向へと成長していく。そしてまた一定量成長すると、もう1度捻りが“反転”する。これを繰り返すことで、彼らはこの一見不可思議な、だがとても理知的な形状の殻を手に入れるんだ』

――“生命の神秘”って奴?

 バロットは改めて異常巻きアンモナイトを見つめた。

『しかし、彼らが何故そんな進化を選択したのか、そこがよく分かっていないんだ。アンモナイトがどんな気持ちで“反転”することを選択したのか』

 少し冗談めかして言った。

『右に左に成長方向を変えることで浮力の向きを調整し、体の向きを常に一定方向に保とうとした結果なのだろうと推測されているが、ただ何故このような形状になることを選択したのか、選択せざるを得なかったのか。そこにはぽっかりと空白が広がっているというわけだ』

 バロットは博物館の入り口で出迎えてくれたウェルカムゲートのことを思い出していた。

 天国への階段マルドゥックで交差する空白は螺旋を描き天へと昇る。螺旋の殻アンモナイトは空白に交差し、螺旋を描くことを拒み“異常”に巻いた。

 彼らは一体何を選択したのか? 何故こんな選択したのか? ――狂っているの?

またそんな考えが浮かんだ。同時にウフコックの言葉を思い出した――それは“異常”ではない。

 バロットの中で思考の渦がグルグルと螺旋を巻いたが、専門家にすら分かっていないことを少女に理解出来ようはずもなかった。




 ディナータイムの前には元死体安置所モルグに帰ってきた少女はリビングでお土産を広げていた。このリビングは隠れ処の修繕の際、バロットたっての希望で生活空間を拡張して造ったリビングだ。3人はここで家族のように一緒に食事を摂り、チームとして作戦会議を行い、友人のように他愛ない会話を楽しんでいた。

 バロットはドクターに買ってきたお土産を手渡した。螺旋の殻アンモナイト浮き彫りレリーフのついたネクタイピンだ。

 土産物屋ミュージアムショップでこのネクタイピンを選んだ時、「少し自分の趣味に走り過ぎじゃない?」とウフコックに相談したが、「どうせあいつは公的な正装スーツには無頓着だ。君の好みのもので構わないさ。君の選んでくれたものなら喜んで受け取るよ」と言われたのだが、はたしてドクターは喜んで受け取ってくれた。

 2人は深いところで通じ合っている、そんな気がして少し嫉妬したが、今は自分もその仲間なのだ、と思い直して心を落ち着けた。そうしながら今度は自分のお土産の包みを開けた。

 イジェクト・ポスター用のメモリーカードだ。バロットはカードを手で弄びながら少しつまみ食いをした。そっと指で触れ干渉スナークし、内部データを視覚情報として感覚した。

 カードの中に収められているのは今日見てきた螺旋の殻たちだ。バロットの網膜に螺旋が巻いては消えていく。輪切りにされたアンモナイトやアンモライト、そして――異常巻きアンモナイト。

 バロットの目はまたこの異様な物体に釘付けになった。螺旋を巻くことを拒んだ螺旋の殻に。

 またバロットの頭の中で思考の渦が螺旋を描きかけたが、答えの出ない疑問を繰り返した少女の脳は既に疲れ果てていた。思考は螺旋を描けず宙を舞った。少女の脳は螺旋を描くことを拒み、一つの選択をした。

「夕飯の前にシャワー浴びてくる」

 少女らしい無垢な選択だった。

「俺も少し自室で休むよ」

 ウフコックも選択した。

「僕はまだ事務処理が残ってるんだ」

 ドクターは選択を余儀なくされた。


 ちなみにウフコックへのお土産は無い。

 土産物屋でバロットは「貴方へも何かプレゼントしたい」と相談したが、「俺は物への執着はないし、必要な物は自分で造り出してまう。だから、その気持ちだけで十分だ」と言われてしまった。それでも何か贈りたいと頭を捻ったが、考えれば考えるほどその言葉は遠慮などではなく純然たる事実なのだ、という真理に辿り着いてしまう。結局、心からの感謝の言葉とギュッと抱きしめることがウフコックへの贈り物となった。


 流れる湯と共に銀色の粉が排水口へと吸い込まれていく

 昏い穴にキラキラと光が渦を巻いていく様はさながら宇宙のようだった。

 この小さな恒星の正体は代謝性の金属繊維。バロットに移植された人工皮膚ライタイトだ。彼女の成長によって、古くなった繊維は代謝し皮膚表面へと浮いてくる。

 つまり、この光こそが彼女の成長の証なのだ。最近では毎日、このように銀の粉を熱いシャワーで流している。銀の粉を流す度に、それだけ一人前に近付いているのだという気持ちになり嬉しくなる。バロットはこのシャワータイムが――女性の嗜みという以上に楽しみな時間だった。

 成長期の少女の足元で小さな宇宙は螺旋を描くことを拒まず闇へと消えていった。


 シャワーから上がり、メンテナンス用スキンケアクリームを全身に塗っている時だった。オフィス内が俄かに騒がしいのが感覚された。一体どうしたのかとバロットは元死体安置所内を探ってみた。

 今やバロットは屋外で感覚範囲を50m以上延ばしても目眩を起こすようなことはなくなっていた。しかし、感覚神経を急激に変化させるのは身体への負担となってしまうため、少しずつ伸ばしていこうというウフコックの提案によって、以前より少しだけ伸ばした半径18mに普段は設定していた。

 その制限リミットを超えて感覚の触手を伸ばしていく。屋内ならば屋外より負担も少なく、より広範囲を感覚出来る。元死体安置所全体を丸ごと感覚することは、今のバロットには造作もないことだった。――勿論、普段はそんなことはしない。制限を掛けられているからでもあるが、それだけではない。覗き呼ばわりは嫌だからである。

 とはいえ、今はどうにも様子がおかしい。胸騒ぎのするバロットは躊躇わず感覚を広げていった。伸ばした触手がついにドクターとウフコックを感覚した。ラボへと続く廊下をドクターが必死に走っている。その手にはウフコックが抱きかかえられていた。さらに細やかに感覚してみる。どうにもウフコックはドクターの手の中でピクリとも動いていない様子だった。

 バロットは全身から血の気が引くのを感じた。先程シャワーで洗い流した銀の粉のように、全ての血液が流れ出てしまったようだった。そのまま目眩を起こして倒れそうになる身体を必死に操作スナークしてバロットは部屋を飛び出した。


 バロットがラボに駆け込んだ時、ウフコックは円筒形の水槽の中にいた。澄んだ青い液体で満たされたその水槽にバロットは見覚えがあった。定期的なメンテナンスのために入っているところを何度か見た。そして、あの時も入っていた。――私があの人を酷く傷付けてしまった時も。

「大丈夫だ、大丈夫。こいつのメンテナンスは僕の仕事だ。それが僕の有用性の一つだ」

 ドクターが言い聞かせるように言った。それは息急き切って入ってきたバロットを安心させるための言葉だったが、同時に自分に言い聞かせているようでもあった。

 その言葉を聞いて少し落ち着きを取り戻したバロットは、自分が一糸まとわぬ姿のままだったことに今更気付いた。

 バロットは入り口脇のハンガーラックに掛けてあった予備の白衣を拝借して羽織った。

 そうして、水槽へとゆっくり歩み寄りながらドクターに訪ねた。

「何があったの?」

「分からない。今日の事件の事務処理の話でこいつの部屋まで行ったが、ノックしても返事がない。おかしいと思って隙間から覗いてみたら息も絶え絶えで倒れていた。慌てて電子ロックを強制解除して中に入ったが、ちょっと身体を調べてみても原因がさっぱり分からない。それで急いでここまで連れてきたんだ」

 流暢に説明しながらもドクターの顔は水槽に繋がった情報端末の方を向いたまま、忙しなく端末を叩き、電子眼鏡テク・グラスには止めどなく情報が流れている。

 これ以上ドクターの邪魔をしてはいけないと、もっと訊きたいことはあったがそれらを飲み込み、バロットはそっと水槽を覗き込んだ。

 金色のネズミが丸くなって浮いていた。

「ウフコック……」

 小さな声で問い掛けてみたが、反応は無かった。代わりにドクターの呟きが聞こえてきた。

生命兆候バイタルは正常、しかし意識レベルは0ポイント消失状態、識域野への質疑も応答レスポンス無し。何だってんだ一体。本当に煮え切らない奴だよ、お前は!」

 そんなドクターの呟きを聞いて、居ても立っても居られなくなったバロットは、自分にも何かできることはないか、相棒としていつも一緒にいる自分だからこそ、ドクターが気付かない何かに気付けないか、そう考えて静かに眠る相棒を感覚してみた。

 ドクターの邪魔にならないように、慎重に、緻密に、丹念に。

「なんだ、この反応は? ……金属繊維?」

 ドクターの声に驚き、バロットは感覚の触手を引っ込めた。何か自分が邪魔をしてしまったのか? そう思って身をすくませたが、お構いなしにドクターの呟きが続いた。

「いや、そうじゃない。この反応は内側からだ。生命兆候バイタルは依然正常値、だが、意識レベルは3ポイント昏睡状態に回復、識域野への質疑には応答レスポンスは未だないが、反応は示した。こちらの問い掛けが届いたということか? いや、少し違う、何に反応した……電子干渉? いや……やはり、金属繊維か?」

 戸惑うバロットを余所にドクターは何か得心したように言った。

「そういうことなら、きっとこれで――。バロット、こいつに干渉スナークしてみてくれないか?」

 今度は明確にバロットへ向けられた言葉だった。

 突然水を向けられたバロットは驚き困惑し、またあの時のことを思い出してしまった。――あの人が私の手から必死に逃げ出そうとしていた時のことを。

「いいの? 私は……」

 そう言い掛けバロットは泣きそうになっていた

「大丈夫だ。僕がそばにいる。こいつはどうやら君の存在に反応しているようでね。眠れる王子様はお姫様のキスで目覚めたいらしい」

 真面目な顔でそんなことを言ういつも通りのドクターに背中を押された気分だった。

「分かった。やってみる」

 バロットは涙を堪えて、決意を湛えた。私がこの人を救う。

――なんで私なの?

 少女の胸にそんな問いはもう無かった。


 バロットは水槽の前に膝を突き、両掌を添え、そっと額をガラスに付けた。それはまるで神に祈るような姿勢だった。

「よし、いいぞ。やってくれ」

 ドクターの合図でバロットはウフコックの中身へと触手を伸ばし電子撹拌スナークした。

 先程以上に、慎重に、精密に、緻密に、丹念に、念入りに。

――ウフコック? ねえ、ウフコック。お願い、私のそばにいて。

「よしよしよしよし。その調子だ。意識レベルは8ポイント朦朧状態まで回復、識域野への質疑にも応答レスポンスが返ってきた。生命兆候バイタルは正常値のまま。ようし、そのまま口づけしてやれ」

 一層の思いを載せてバロットは語り掛けた。

――ウフコック、目を覚まして。絶対尻尾を摘まんだりしないから。お願い、私にそばにいさせて。

『さっきからガンガンうるせえな、人の頭ン中で喚くんじゃねえよ。この淫売女<ビッチ>が』

 ウフコックの声がした。確かにウフコックの声だ。――ウフコックの声なの?これが?

 間違いなく声はウフコックのものだった。しかし、その言葉は到底ウフコックのものでは有り得ない汚らしい言葉だった。あの紳士的で穏やかで落ち着いた渋みのある相棒の言葉ではない。

 一体何が起きたのか? 分からない。あまりに突然の出来事にバロットの頭の中が真っ白になっていく。頭の中で空白が交差していく。

 ドクターにはこの声は届いていなかったらしく、相変わらず端末を叩きながら「よし、いいぞ。意識が回復した」などとただただ喜んでいる。

 次の瞬間、ぐにゃりとウフコックが内側から反転ターンした。

「ん? どうしたんだい、バロット? 何かに変身ターンさせる必要はないよ?」

「違う……私じゃない……」

 先ほどのパニックで感覚の触手は既にウフコックを手放していた。

 ウフコックの内側から何かドロドロとしたものが溢れ出した。

「じゃあ、これはウフコックが自ら? おい、どうした、ウフコック? 今は安静にしていろ」

 ウフコックからの答えは無い。

 内側から溢れていたドロドロした透明な――微かに白銀に光る――粘液が金色のネズミを覆い尽くした。

「おい、ウフコック? 何をしている? おい!」

 ドクターが叫ぶように問いただしたが、相変わらず返答はない。各種計器の数値を確認するが、どれも正常値を示している。

 水槽の中で粘液が卵の形にまとまり始めた。卵の中心で金色のネズミが丸まっていた。丸い黄身を白身が抱く――その姿はまさしく卵だった。


 その様子を茫然と見ていたバロットはその場でペタリと尻餅を突いた。

――何? 何が起こっているの? 分からない。分からない。私のせい? ウフコック、ウフコック、

「ウフコック!」

 声に出して叫んだ瞬間、ガシャンと水槽が割れた。

 ザバァっと大きな音を立てて水槽を満たしていた液体が流れ出た。水槽の目の前でへたり込んでいたバロットは頭からその液体を浴びた。幸いガラス片で怪我をするようなことはなかったが、バロットの意識は自分の身体のことよりも、液体と一緒に水槽から零れ落ちたネズミの方へと向いていた。

「ウフコック、無事なの? ねえ!」

 濡れた白衣が肢体に纏わりつくのも構わず、水槽の下に出来た水溜りの中を探した。そこには1匹のネズミが丸まっていた。――銀色の毛並みを持つネズミが。

「ウフ……コック?」

「チィッ、うるせえって言ってんだろ。喚くなこの糞餓鬼ィ」

銀色のネズミが起き上がりながら、答えた。ウフコックの声で。ウフコックの身体で。――ウフコックとは違う言葉で。ウフコックとは違う態度で。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ターンオーバーXオーバーターン 流雲 @nagmo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ