バス停の女

安良巻祐介

 

 毎夜遅くまで仕事をして、熱瓦斯を入れた厚ぼったい護謨風船のようになった頭を揺らしながら歩く帰り道、向かう駅の途中にあるバス停標識前に、今日も一人の女が立っている。

 近づくと、それは生身の女ではなく、木を削って作ったお立ち人形とわかる。

 さほど精巧な作りではない。赤いビニールを巻き付けただけの服、左右で長さの違う腕。目鼻口などは特に、子どもの書き散らしたラクガキのようだ。

 けれど、俺は、毎夜そばを過ぎる時、その木偶の坊に、挨拶をする。

「こんばんは」

 すると、

「こんばんは」

 標識からグルリ、と顔だけ動かして、そいつも挨拶を返してくる。砂利を零すような、ざきざきした声で。

 そこまでを見てから、俺は足早にその場を去る。

 たいてい、こちらを向いた女は続けて何かを喋っているが、その中身までは知った事ではない。

 女の後ろを、その日最後のバスが、排気ガスを噴き出しながら通り過ぎる。

 女は首を戻すけれど、もう後の祭りだ。

 俺も、その時には駅のエスカレイタアに足をかけている。

 走り去るバスを、女はただ黙って見送る。…

 最近ずっとこんな調子だ。

 何故、と問われれば困るけれど、俺にはぼんやりわかっている。

 あれを最終のバスに乗せてはならない。

 バスの通るとき、あれが標識を観ていれば、バスは停車し、あれが乗りこんでしまう。

 それは、駄目なのだ。

 それだけは、避けなければならない。

 あれが乗ったら何がどうなるのか、そもそも俺のこの思い込みは正しいのか、確かめるすべはないのだが、毎日、この時刻に合わせて、俺は仕事を上がる。

 今日もそうしたし、明日も同じことをするだろう。

 でも、その次は?

 さらにその次は、どうするか、わからない。

 俺が止めようと思わなくとも、意図せぬ何かが起こった時だって、この何という事はない習慣は終わる。

 そうしたらどうなるだろうか。

 あのバスに女が乗って、そして――。

 それを考えるのもまた、楽しいのだ。

 何も起きないかもしれない。でも、きっと、何かが起きる。

 可能性がある限り、想像はいつまでも育っていく。

 よくわからないものが見えるようになって、それと話せるようになったことで、おかしな話だが、日々に張り合いができた。

 何に対してかよくわからないけれど、感謝しても、しきれない。

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バス停の女 安良巻祐介 @aramaki88

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