第4話
私の足は、それほど速くない。遅くもないけれど、リレーの選手に選ばれることもある多香美とは比べものにならない。最初から賭けにならない賭けだった。
つまらない授業と委員会の仕事をなんとか終えた放課後。
多香美は、私の財布から消えたお金と引き換えに手に入れたアイスに齧り付いていた。
一号店の前、目の前に広がる深い青。
委員会が思いのほか長引いた結果、私たち三人は浜辺へと降りる階段に座り、沈みつつある夕日を見ていた。そう、朝から一人増えて三人。私と多香美は、毎日一緒に学校へ行って一緒に帰る。そこに、今日は一人加わっていた。
私が食べているアイスは、その三人目が奢ってくれたものだ。
亜利沙ちゃんと同じく、私の幼馴染みだ。と言っても、家が少し離れていることもあって亜利沙ちゃんほど親密な間柄ではない。いや、今は亜利沙ちゃんよりも親しいのかもしれない。顔を合わせると百香が近寄ってくるせいで、昔に比べてよく話をする。
「美味しい?」
アイスのスポンサーが問いかけてくる。
私は、海よりも明るい色をしたアイスにぱくりと齧り付いてから返事をした。
「うん、美味しい」
「私のお金で買ったアイスだもん。美味しくないわけがないよね。これは、感謝しないとだね。うん」
五月蠅い。というよりも、鬱陶しい。百香は昔から恩着せがましいところがあって、それは今も変わらない。
放っておいたらさらに恩着せがましい台詞を投げかけられそうだったから、私はアイスを右隣にいる百香の目の前に突き出した。
「食べる?」
「いらない。可愛さを維持するために、ダイエット中だから」
それならばと残りのアイスにかぷりと齧り付くと、左隣の多香美から情け容赦のない言葉が飛んできた。
「景山先輩、うざい。そういうのなしで」
「えー、ひどい。今の厳しすぎじゃない?」
ダイエットが本当かどうかわからないが、百香自身はアイスを食べていないから、多香美の言葉に厳しいと反論するのもわかる。
「厳しくない。丁度良いくらいでしょ」
多香美はぴしゃりと言い切ってアイスを食べきると、すくっと立ち上がった。
「ゴミ、捨ててくる。里穂のもかして」
多香美の視線の先には、アイスが消え、ただの棒になってしまったものが握られた私の手があった。多香美は私の返事を待たずにゴミを奪うと、コンビニに向かって駆け出す。
湿った風が多香美を追いかける。
靴についた砂が立てるざりっという音が遠ざかっていく。
多香美が戻ってくる前に、百香が言った。
「高校、どこにいくか決めた?」
「まだ」
「そっか」
少しばかり沈黙が続いて、多香美が戻ってくる。
それを待っていたかのように、百香が口を開いた。
「うちおいでよ、うち。勉強さえやってれば、うるさく言われないし、良い学校だよ」
「百香、私の成績知ってるよね」
「うん、知ってる。無理そうだよね」
「ほんっと、そういうところ嫌い」
わざとらしい笑顔を貼り付けた百香をにらみつけると、くすくすと笑われた。
真面目さをアピールするように、几帳面に結ばれた百香の胸元のリボンが風に揺れる。肩にかかるくらいの髪も一緒に揺れていた。
「多香美は?うちの高校、もう少し頑張れば受かるんじゃない」
百香が多香美に問いかける。
「山高でいい。景山先輩とは、離れてるくらいが丁度良いし」
「なかなか辛辣な意見だね」
そんなことを言いながらも、百香は多香美の言葉を気にしていないようで、にこにこと笑いながら言葉を続ける。
「里穂。多香美と一緒に山高行けば」
放たれた言葉に、辛辣なのは百香の方だと私は思う。嫌われているわけではなく、好かれているということはわかる。からかわれているのだということもわかっているけれど、眉間に皺が寄る。
「それも無理って、わかって言ってるよね」
「無理じゃないよ。無理だって思ってるだけ。今からでも、真面目にやれば大丈夫でしょ」
「無理」
私は、きっぱりすっきり断言する。
今の成績では受けたいと言っても先生が許してくれなさそうだし、これから真面目に勉強を続ける自信もないから、もう一度「無理だからね」と念を押した。
けれど、百香は諦めなかった。
「無理だって思うから、出来ないんだよ。少し頑張ったら?」
「頑張っても落ちたらどうするの?」
「諦める」
「無責任」
「私のことじゃないからねぇ」
のんびりとした百香の声が波の音に混じって消える。
朝は夏のような暑さだったのに、今は衣替えをしたセーラー服が丁度良いくらいの気温になっている。
太陽は、海に沈んでしまっていた。
「もう少し要領良くやりなよ。良い高校に入っておけば、後から潰しがきくしさ」
百香の手がふんわりと私の頭を撫でる。
優しく髪に触れる手が少し重たく感じて、ため息とともに膝に顔を埋めた。
「百香は神経質なくせに、人のことになると適当すぎるんだよ」
ぼそりと呟くと、多香美が同意する。
「ほんと、適当。でも、里穂は適当くらいでいいと思う。景山先輩までいくとあれだけど」
景山先輩。
多香美は百香のことも昔は名前で呼んでいたのに、いつからかそう呼ぶようになった。
頭を撫でる百香の手が止まる。
重みが消えて顔を上げると、いつもと変わらない砂浜と海が目に映る。見飽きた風景だった。
「亜利沙と同じ高校に行くつもりだと思ってた」
ぽつり、と百香が言った。
亜利沙ちゃんと同じ高校へ行く。
何度も頭に浮かべたことがある未来は、相変わらず楽しそうには見えなかった。
亜利沙ちゃんと同じ中学に入って、少しは縮まると思った距離はまったく縮まらなかった。また、同じことが起こる。そう思うと、憂鬱になった。
学校でときどき会って話して、一緒に遊んで。
亜利沙ちゃんの口から、知らない人の名前が出ることが増えて。
中学に入ったばかりの頃、亜利沙ちゃんがなんだか遠くへいってしまったような気がした。
同じ高校に行けば、亜利沙ちゃんと会うことは増えるけれど、それはただ増えるだけだ。きっと、今よりももっと亜利沙ちゃんを遠くに感じる。私は、鬱蒼とした森の中に迷い込んだような気持ちを打ち消すように尋ねた。
「百香は?」
「私?」
「百香だって受験生のくせに。自分はどこに行くの」
「東京」
鬱々とした気持ちになるような百香の言葉から逃げ出すためにした問いに返ってきたのは、思いがけないものだった。
「東大、は無理にしても、百香様の頭脳ならそこそこ良いところに行けるから」
その言葉に、羨ましいというよりもずるいという言葉が先に浮かんだ。
百香の成績は知らないけれど、通っている高校から考えれば、そこそこ良いところに行けるというのは嘘じゃない。この町から早く抜け出したいという、私が叶えられない望みを叶えるだけの力が百香にあるのは間違いなかった。
こんなとき、百香になんて言えばいいのかわからない。素直にずるいと言うのは、違うような気がする。
私が百香に返す言葉を探していると、それまで黙っていた多香美から風に消えてしまいそうな声が聞こえた。
「県内の大学行くって言ってなかった?」
「そんなこと言ったっけ?」
多香美の掠れた声を聞き逃すことなく、不自然にも聞こえる明るい声で百香が言った。けれど、多香美は口を閉じたまま開こうとはしなかった。
「あ、私、そろそろ帰らないと。今日、宿題いっぱいあるから」
百香は取って付けたようにそう言うと、すくっと立ち上がった。
ぱんぱんと軽くスカートを払い、足元に置いてあった鞄を手に取る。そして、「ばいばい」と付け足して私たちの前から姿を消した。
私は百香がいた隙間を埋めるように座り直し、思ったことを口に出す。
「百香と何かあった?」
「何もない。私の記憶がおかしいだけかも」
多香美はそう言うと、大きく息を吐き出した。体中の空気を吐き出そうとするように長く吐いた息は、薄暗い空間に溶け込んでいく。
重苦しいとまではいかないけれど、それなりの重さを持ってしまった空気を変えるように多香美が言葉を続けた。
「私も、里穂は草野先輩と同じ高校行くと思ってた。里穂、草野先輩のこと好きだし」
どくん、と心臓が鳴る。
多香美の言葉は間違っていないけれど、正しくはない。私の亜利沙ちゃんへの想いは、きっと多香美が考えているようなものではない。
もし、私の気持ちを正しく多香美に伝えたら、どんな言葉が返ってくるんだろう。
多香美から他の誰かに伝わることはないだろうし、言ってしまってもいいんじゃないかとも思う。思うけれど、やっぱり怖かった。
退屈しのぎの噂話にはぴったりな話題だ。何かの間違いで他の誰かが知ってしまったら、学校でつまらないことを言われるに決まっているし、亜利沙ちゃん本人にもすぐに伝わってしまいそうだった。
「昔から二人が並んで歩いてると絵になるっていうか、入り込めない感じがしてちょっと羨ましかった。ほんと、姉妹みたいだった」
黙っている私のかわりに多香美が言葉を続け、小さく笑う。
そして、うっすらと月が浮かぶ空に向かってえいっと腕を思いっきり伸ばすと、あーあ、と気の抜けた声を出した。
「……学校、地元が嫌なら親に言ってみたら?」
腕をゆっくりと下ろした多香美が言った。
「無理だと思う」
「草野先輩と同じ高校は?」
「……行きたいけど、行きたくない」
「なにそれ」
「自分でもわかんない」
いつでも相反する気持ちがあって、ふらふらと軸が定まらない。亜利沙ちゃんの側にいると、嬉しいと苦しいが混ざり合ってどうしていいかわからなくなる。側にいたいけれど、逃げ出したくなる。
「私は、里穂と一緒だと嬉しいけどね」
多香美から眉間を突かれ、自分で眉間を撫でてみると皺が寄っていた。私は寄っていた皺を二本の指で伸ばし、多香美に尋ねる。
「多香美も、私が山高行けると思う?」
「やればできるんじゃない。里穂、やる気がないだけだから。それに、本当に山高行くなら勉強教える」
「ちょっと考えてみる」
多香美の声が優しくて、考えるつもりもないのにそう答えた。
一人じゃ真面目に勉強なんてできないけれど、多香美と一緒ならなんとかなるかもしれない。好きでもない勉強も、頑張れそうな気がする。
でも、山高に行ってどうするんだろう。
浮かんだ疑問は口には出さなかった。
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