無垢と逆心

胤田一成

第1話

 健速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)の供述

ここに八百萬の神共(とも)に議(はか)りて、速須佐之男命(ハヤスノヲノミコト)に千位(ちくら)の置戸(おきど)を負(おほ)せ、また鬚を切り、手足の爪を抜かしめて、神逐(かみや)らひ逐らひき。



 畏み申し上げます。

 どうかもう一度、姉君に謁見を願いたいと存じ上げます。たしかにこの事件の首謀者はこの俺に相違ございません。しかし、この度の沙汰には異論があるのでございます。

 幸か不幸か、俺は生まれた時分から鼻がようございます。この度の沙汰に乗じて、俺をこの国から未来永劫、放逐しようと御姦計を巡らせておられてる方々がいらっしゃるということは初めから承知して致しております。―いや、ここで誰とは申し上げません。しかし、そういう方々の腹の底には決まって泥が溜まっております。俺にはそういった煮え立つ泥の臭いが醜悪この上ないものに思えてならないのでございます。

 重ねて申し上げます。姉君にもう一度、拝見願いたいと存じ上げます。

 ここにいる誰よりも聡く、お優しい御方にお会いしたいのでございます。さすればこの度の沙汰に至らないところがあるということが自明となるでしょう。全体、この俺がどのような罪を犯したというのか、全く存じ上げかねます。姉君に不遜を働いたというなら、それは姉君御自身が御判断なさるべきことと存じ上げます。―失礼を承知で申し上げます。これは他ならぬ姉弟の問題ではないでしょうか。あなた方の出る幕ではない。

 姉君は聡く、お優しい御方でございます。いつしか姉君の御営田の畔を埋めてしまったことも、新嘗祭の御神殿に反吐を撒き散らしてしまったことも、姉君はその真意をいち早くお察しになり、この俺に恩赦を下さいました。あなた方はどうか。俺の上っ面の行為ばかりに囚われて、その真意を見定めようとしたことがおありでしょうか。

 俺の不遜を責め立てるならそれもよろしかろう。しかし、ここにお集まりの方々でこの度の事件で姉君に不遜を働かなかったものが一人としていらっしゃるでしょうか。

 姉君の御真意から御自ら岩屋戸に篭りなさったその時、姉君御自身の御気色を心から案じた者がここにいらっしゃるとは到底思えませぬ。そればかりか甘言を要して姉君をお部屋から引きずり出し、あまつさえその細腕に手を掛けるなど言語道断ではありますまいか。

 この度の沙汰、無論、責任は取るつもりでございます。しかし、あなた方も俺と同様、姉君に不遜を働いたという点では同罪でございます。

 重ね重ね、畏み申し上げます。今一度姉君のお顔を拝見させて頂きたい。そうして姉君の口からこの度の沙汰の処遇をお聞かせ頂きたく存じ上げます。


    


天照大御神(アマテラスオオミカミ)の告白

 ここに天照大御神(アマテラスオオミカミ)詔(の)りたまひしく、「然らば汝(いまし)の心の清く明(あか)きは何(いかに)にして知らむ。」とのりたまひしき。ここに速須佐之男命答へ白(まを)しく、「各(おのおの)誓(うけ)ひて生まむ。」とまをしき。



 ああ、私はかの弟を恐れているのです。

 私にはあの弟が何を考えているのか、まるっきり分からないのです。あの微笑の裏にいかなる感情が渦巻いているのか。何故私にそれほどまでに執着するのか。その真意がまるで見えて来ないのです。

 弟が父に勘当されたことは承知していました。そればかりか父から明け渡された海の国で善からぬことをしでかし、周囲に多大な悪業を齎したこと、この遠い国にあっても聞き及んでおりました。だからこそ遠くこの国にまで脚を運び、私に暇乞いをしたいと願っていると知ったとき、私の内心は、気は気ではありませんでした。

 一体どのような悪漢が、私の国へやって来るのか…。私は自ら弓を取り、国を守るために自らの弟でさえ、躊躇なく殺める覚悟でいたことをここに告白します。

 しかしどうでしょう。その日、私が目のあたりにしたのは髭も髪も伸ばし放題にし、連日の涙に目尻も赤く染めた捨て犬のような、あわれな一疋の男だったのです。その姿は落伍者でした。私が想定していた姿とはまるで違っていたのです。そればかりかその落伍者は私の姿を認めるや否や、五体を倒置して私に謝るのです。―すまない。すまない、と。私はまるで混乱してしまいました。

 しかし、私も一国の統治者として、そのような有様を鵜呑みにするわけにもいきません。そこで私は弟を試すことに、受誓の儀を行なうことにしたのです。その結果はあなた方もご存じの通りです。かの落伍者の身の潔白が証されただけでした。私は混乱に混乱を重ねてしまいました。我が弟は海の国で父に勘当されるような乱暴狼藉を働いておりながら、その心は誰の目から見ても明らかに澄み切っていたのですから―。

 ああ、私は怖いのです。あの男の微笑が。言動が。挙動が。あの男の身の清廉さが証明されながら、悪魔のような所業を平然とやってのける私への妄信ぶりが。

 事実、あの男は私のために殺人にすら手を染めたのです。ああ、可哀想な大気都比賣―。私はあの時の凄惨な光景を生涯かけて忘れることはできないでしょう。そうして、あの男はそれほどまでに残酷な所業をしでかしておきながら、私に微笑みかけてきたのです。あの時、あの男が私に言い放った言葉は今でも覚えています。あの男はこう言いました。


 聡く、お優しい姉君よ。俺は今、この汚らわしい女を殺めました。いつぞやの御神殿を反吐で汚してしまったことへの謝罪とお受け止め下さい、と。


 ああ、私は混乱しています。とにかく恐ろしいのです。あの男の屈託のない微笑の裏にあるものが分からず、ただただ恐ろしいのです。願わくば、弟の処遇については金輪際、関わり合いたくありません。ここまでお話したらもうお分かりでしょう。私はあの男が恐ろしくてたまらないのです。




    櫛名田比賣(クシナダヒメ)の述懐

 ここに速須佐之男命、その老父に詔(の)りたまひしく、「この汝が女(むすめ)をば吾(あれ)に奉らむや。」とのりたまひしに、「恐(かしこ)けれども御名を覺(し)らず。」と答へ白(まを)しき。ここに答へ詔(の)りたまひしく、「吾は天照御大神の同母弟(いろせ)なり。故(かれ)今、天(あめ)より降りましつ。」とのりたまひき。



 あの御方は英雄でございます。そして、どこまでも可哀想な御方でございます。

 あの御方はこの鳥髪の地に下られて直に私の境遇を我が身のことのように嘆いてくださいました。そして、フフフ…。今でも忘れることができません。あの御方が私の境遇に一通り耳を傾けた後にした事といったら、フフフフフ…。

 あの御方は私の老父母を厳しく叱責し始めたのでございます。お前たちは高志の方より来る怪物の言いなりに数多の乙女をみすみす食らわせてきたのか、と。それでも血を分けた親子か、と。

 お恥ずかしながら、私は目から鱗が落ちたような心持ちで、あの御方が激昂して拳を一心不乱に振るう姿をただ、眺めているばかりでございました。フフフフフフフ。

 確かに私たち一族はとうの昔に破滅しておりました。一年、また一年を越す度に身内を殺めることから目を背けて過ごしていたのでございます。あの御方が激昂なさったのはそこでございます。何故、高志の怪物と戦おうとしないのか―、自らの境遇に甘んじていられるのか。何故、可愛い我が子を幾人も化け物に食わせて黙っているのかと。いっそのこと心中するのもそれもよかろう。ただ、今の御老父からはその臭いがせぬ。とどのつまり、自らの命可愛さに娘の命を捧げ、情けばかりの涙を流すことでその埋め合わせをしようとしているだけだ。俺にはお前たちのその姿は欺瞞にしか見えぬのだ。

 「欺瞞」。私はその言葉を聞くや否や、はっとさせられました。その一語を耳にした途端、これまで幾度と繰り返された老父母との悲しい光景も、彼らが流した多くの涙も味気ないものに思えてきたのでございます。それと同時に、この御方の激する姿の裏に、途方もない純真さ―無垢なるものを感じ取ったのでございます。

 ああ、この御方は世間というものを知らぬ赤子と同じだ。自らを信じて止まず、道理に適わないことと相見えても決して折れるということを知らぬ御方なのだと。

 世間を知らぬということは大変不幸なことでございます。この御方は幾度、世間と闘い、そうして、矢折り、弓ついえたのでございましょう。この御方のおっしゃることは正しいのです。この御方がお考えになられることは間違っていないのです。ただし、世間はそれを許してはくれないのでしょう。或いは世間がそれを認めてはくれないのでしょう。

 私はいまでもこの御方の無垢なる寝顔をそっと見る度、静かにその悲しみを思わずにはいられません。私はこの孤独な英雄を心から愛しております。しかしながら、私の愛をもってしても、この御方の傷つきやすい繊細な御心を癒すことはできないでしょう。この御方は存分に身を委ねられることのできる存在を欲しているように見えるのでございます。

 無論、あの御方が私にそのようなことを打ち明けたことはございません。しかし、あの寂しげな横顔、ことに触れて時折見せるあの物憂げな御気色を見つけるにつけて、私の英雄はどこかへ、ふと消え去ってしまうのではないか。御自身が無垢でいられる場所を、求めていらっしゃるのではないかと、密かに不安を思わずにはいられないのです。私は私の可哀想な英雄を心の底からお慕い申し上げております―しかし、今は、今だけはかの御子は私のものであり、この私もかの御子のものでございます。私の不安がいずれ的中しても、今だけはこのささやかな幸福を噛みしめていたいのでございます。

 あの日、私が高志の方より這いずり回って来る八岐大蛇に食らわれるであろうその晩に、あの御方は爛爛と輝く瞳で父母を睨みつけ、こう名乗りました。

 我が名は天照大御神の同母弟なり、と。

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