桜花一片に願いを

前編

 駅のコンビニで栄養ドリンクを買って急いで出ようとしたその時、印象的な歌が流れ、思わず足を止めた。https://youtu.be/TQ8WlA2GXbk


 この歌みたいな失恋をした男性ひとを、私は知っている。


 土曜早朝、東京駅。かすかな湿気を含んだ風がホームを吹き抜けていく。五月中旬。梅雨入り前の爽やかな時期。

 新幹線乗り場には楽しそうな様子の家族連れが目立ち、スーツ姿の自分は周囲から浮いている。


「あら? 瑠璃さん?」


 声をかけられ振り向くと、吉岡先生が笑顔で立っていた。四十代半ばの女医さんで、小児科の開業医。私が新卒の頃の営業先だったのだが、現在もたまに情報交換をしている。


「もしかして、これから京都の学会?」


「そうです」


「土曜日なのに大変ね」


「いえ。MRの仕事に必要なことですから」


 医療分野の学会に積極的に出席することは、医学の最新動向を知るのに有用だし、医師との人脈づくりに役立つこともある。こうやって地道な努力を重ねて、私は去年、入社八年目にして営業成績全国一位の座を掴んだ。


「先生も学会ですか?」


「ううん、今回は出ないわ。これから夫の実家。浜松なの」


 吉岡先生が視線を向けた先には、売店で駅弁を買うご主人と息子さんの姿があった。


 実は私も、今回は出席するつもりはなかった。でも直前に気が変わった。発表者一覧に、夏目先生の名前を見つけたからだ。



 

 十六の時に初めて付き合った人は、五歳年上だった。大学の時の彼は八歳年上。社会人になってからは、十歳くらいは離れた人ばかり。

 最初の相手が年上だったせいか、同年代の男はどうしても頼りなく見えてしまう。


 夏目先生は、たしか今年三十三歳だ。三つしか離れていない。私の好みとは違う。なのにどうして私は、京都まで来て、学会会場の後ろの席でこっそり夏目先生の発表を聞いてしまったのだろう。


 活発な質疑応答が続く会場を、目立たないように後にした。そして人混みを避けながらホテルのロビーを抜け、中庭に出てベンチに座った。見上げると、葉が日の光に透けている。


(あんなに忙しそうだったのに、よく学会発表の準備までこなしたな)


 夏目先生は、三月まで都内の大学病院の循環器内科に勤務していた。その激務ぶりは、MRという職業柄、容易に想像できる。緊急の呼び出しが夜間や休日問わずにあったはずだ。


 さらに夏目先生は企業の嘱託医もこなし、その企業の社員で構成されるブラスジャズのバンドでも活動するという(私が夏目先生と知り合ったのは、このバンドに親友の花音かのんが勧誘されたのがきっかけだ)、いつ眠っているのかわからないような生活を送っていた。だが会えばいつも穏やかで感じが良く、疲れた顔は見せず、私は内心「すごいな」と尊敬していた。


 そんな夏目先生が花音のことを好きになったのは、去年の秋ごろだ。


 それを知った時、嬉しかった。


 引っ込み思案で優柔不断なところのある花音の良さを分かってくれるなんて。なんていい人なんだと、私の中での夏目先生評はさらに上昇した。私は密かに夏目先生を応援し、煮え切らない花音をけしかけてみたりもした。


 花音によると夏目先生は意外と押しが強く、それもあって、二人はうまくいったように見えた。年末にはかなりいい感じだったと思う。


 それなのに、花音は夏目先生と別れてしまった――桜の蕾が膨らみかけた頃に。



(続く)

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