4. オール・ザ・シングス・ユー・アー

『ポル・ウナ・カベサ』が終わり、岡本さんがカウンターに戻ってきた。


「グラス、空きましたね。先ほど黒田社長からお電話頂きまして、あと三十分ほど遅れるからお詫びにいいお酒を出してお待ち頂くように、と承りました」


「いいお酒?」


「はい。特にご指定はないので、大体のお好みをおっしゃって頂ければ私がお選びしますが。いかがですか?」


「……夏目先生、何か飲みたいもの、あります?」


「特には」


 それならここは岡本さんに任せるのがいいだろう。黒田社長との付き合いも長いし、ちょうど良いものを選んでくれるはずだ。夏目先生も俺も、酒は強くてなんでも飲める。


「じゃあ、すみませんがお任せしていいですか」


「かしこまりました」


 岡本さんは再びバックヤードに下がり、少しして、ウィスキーのボトルを手に戻ってきた。琥珀色の美しい液体で満たされたクリスタルのボトルが、そっとカウンターの上に置かれる。


 これは――。


 出された酒は国産のブレンデッド・ウィスキー。三十年もので、年間数千本しか生産されずほとんど市場に出回らない。価格は700mlで確か、十二万五千円。単純計算してシングル一杯六千円くらいだ。この店で飲んだら、一体いくらだ? 


 そして銘柄は、『響』――三田村君と、名前も年も同じだ。カウンターの上で異様な存在感を放つそのボトル。思わず夏目先生を見ると、彼は「あはは」と笑った。そこ、笑うところ? と思ったが、俺もつられて笑ってしまった。


「こちらでよろしいでしょうか?」


「いいのかな。すごく高いものですよね」


 夏目先生がきくと、岡本さんは黙って頷いた。


「俺たちがこれを飲んでも社長的に問題なし、と岡本さんは思うわけですね?」


「はい」


 茶目っ気のある笑顔。


「じゃあ、いいかな。夏目先生が嫌じゃなければ」


「大丈夫です」


 夏目先生はまだ笑っていた。


 俺たちはカシューナッツとアーモンドをつまみながら、「響三十年」をゆっくり楽しんだ。華やかな香りとまろやかな口当たり。さすがに旨い。強いアルコールで気持ちがほぐれ、夏目先生と俺は饒舌になった。話題はもちろん音楽のことだ。


 他に客がいなかったので、岡本さんも会話に入ってきた。五十代後半の岡本さん

はジャズに造詣が深い。


「お二人の楽器はサックスとトロンボーンですよね。私、最近気に入っている動画があるんですよ」


 岡本さんが差し出したタブレットには、テッド・ナッシュが彼の父親と共演する画像が映っていた。曲は『オール・ザ・シングス・ユー・アー』


 ビッグバンドでの演奏だが、冒頭部分の三十秒ほどが父子の二人だけ、トロンボーンとサックスのデュオ。笑顔の二人。楽しそうな雰囲気が画面ごしに伝わってくる。


「いいですね、この曲」


「ええ」


「夏目先生、せっかくだから明日、ミズモリさんのラジオでこの曲、演りませんか?」


 俺が誘うと、夏目先生は少し考えた後で「いいですね」と答えた。


 KSJCは明日の夕方、ミズモリケントの「音楽の時間」に出演する。俺たち二人はそこでサプライズ演奏をすることになっていた。ミズモリケントが声をかけてくれたのだ。曲は、KSJCのレパートリーの中からサックスとトロンボーンが目立つのを選んであった。


 でもそれより『オール・ザ・シングス・ユー・アー』を演奏する方が楽しいに決まっている。KSJCのレパートリーにはない曲だから、みんなをもっと驚かせることができる。せっかくサプライズをやるならこっちの方がいい。


「でも練習、どうします? 今夜はもう時間がありませんよ。明日も僕は直前まで仕事ですし」


「ぶっつけ本番でどうですか」


「ほんとに?」


「ええ。スリルがあって、楽しいと思いませんか?」


 俺が言うと、夏目先生はまた笑った。


「失敗したらどうします?」


「さあ。その時考えればいいですよ。笑ってごまかすとか。でも大丈夫だと思います。きっと上手く演れる」


「わかりました、この曲でいきましょう」


 交渉成立だ。


「岡本さん、教えてくれてありがとうございました。タブレット、もう少しお借りしていていいですか? 曲を頭に入れたいんですけど」


「もちろん。どうぞ。私はまた奥におりますので」


 受け取ったタブレットを夏目先生と自分の間に置き、俺は『オール・ザ・シングス・ユー・アー』を再生した。


 カウンターで二人、グラスを傾けながら動画に集中する。サックスのパート、トロンボーンのパート。それぞれの音を覚える。そうしてから、俺たちもアドリブで演奏できるよう、イメージを膨らませていく。

 何度も冒頭部分を繰り返した。ウイスキーの香りと音楽に包まれて、俺たちは黒田社長が来るまで、完全に没頭していた。



(了)


(この後の番外編もあり、こちらにリンクを貼っておきます。その後の夏目先生です。https://kakuyomu.jp/works/1177354054889266011


――――――――――――


Jazz at Lincoln Center Opening

https://youtu.be/g2BDlwb-uVY

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