3. ポル・ウナ・カベサ
振り返っては何度も悔やむ――そんな出来事が、誰にでも一つや二つ、あるだろう。俺の場合は、以前組んでいたバンドのメジャーデビューの誘いを断ったことだった。
そのバンドはKSJCとよく似ていて、自分たちがいいと思う曲を男五人のブラスで演奏していた。結成したのは高校二年の時。演奏技術はそこそこだったが、メンバーの容姿が整っていたのが功を奏し、人気が出た。
レコード会社が声をかけてきたのは、大学二年の時。俺は有頂天になった。世間に自分の力が認められた気がし、将来がバラ色に輝いているように思えた。
だがデビューするにあたり、プロダクションが条件を付けてきた。それは、「ボーカルに女の子を加え、オリジナルの楽曲を演奏すること」
言っておくが、俺たちのバンドはブラスのみでボーカルはいない。プロダクションの要求は、俺たち本来のスタイルと大きく異なる。だが違和感を覚えつつもメジャーデビューという魅力には抗えず、俺たちは条件を飲んだ。
自分の判断が間違っていたことを痛感したのは、渡された楽譜を見た時だ。
あざとすぎる。
そう思った。作詞作曲を担当したのは、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったシンガーソングライター。だが彼の作った曲は「こうすれば大衆受けするだろう」という計算が透けて見え、何の魅力もなかった。
こんな曲でデビューするなんて――しかも舌足らずの甘ったるい女性ボーカルのバックとして――はっきり言ってごめんだった。ダサすぎる。やっぱり嫌だ。
「この話は断ろう」
俺は提案した。その結果、デビューする・しない、でメンバーは派手に揉め、バンドは解散に至った。数か月後、俺たちの代わりに似たようなバンドがデビューし、例の曲はヒットした。奴らの音楽を聞くたびに、むかついた。
もっと何かやりようがあったのではないか。デビューしてヒット曲さえ出してしまえば、あとは自分たちの音楽性を前面に出した活動をすることができたのではないか。そんなことを繰り返し考えた。
だが、悶々としていても時間はどんどん過ぎて行く。結衣と出会い、就職し、猛烈に働いているうちに、当時のことをあまり思い出さなくなった。後悔は日常の慌ただしさの中に埋没していった。
そんな時、転機が訪れた。KSJCに誘われたのだ。練習をのぞきに行ってみると、メンバーの演奏技術、編曲ともに学生時代のバンドとは段違いで、その豊かな音楽性に圧倒された。
KSJCでなら、俺が理想とするブラスが演れる。
そう確信した。
「――その後の展開は、夏目先生もご存じの通りです」
俺が自分語りを終えると、隣で聞いていた夏目先生は、やや戸惑ったような笑みを浮かべた。
午後六時、雑居ビルの七階にある隠れ家的なバーのカウンター。夏目先生と俺は、黒田社長を待っている。俺たちが明日のラジオ収録を最後にKSJCから抜けるので、これまでのお礼にと食事に誘ってくれたのだ。
他に客はおらず、店主の曽野さんは俺たちにビールを出すとバックヤードに引っ込んだ。スピーカーから流れるのはバイオリンがメインの静かな音楽。知らない曲だ。
「その話のポイントって、自分の主義を曲げなければいつか報われることもある、ということですか?」
誠実な夏目先生は、俺の話の意図をくみ取ろうとしてくれている。だが俺は、はっきりした返事ができなかった。
「……どうだったかな。自分で話していてよくわからなくなりました」
本当にそうだった。夏目先生を励ますために話したつもりが、的外れだった気がしていた。
「もしかして僕が飯倉さんと別れたこと、結衣さんから聞きました?」
「……はい」
「それで励まそうと?」
バレたか。
「すみません。そんな感じです。本当は自分の失恋話を披露できたら良かったんですけど。失恋したこと、ないんですよ」
「え?」
「ちゃんと付き合ったのって、結衣だけなので」
「瀬戸さん、それ、すごく意外です」
夏目先生が笑った。
「そうですよね。遊んでそうに見えるってよく言われます」
だが俺は結衣に一途で、そういうのは一切なしだ。
「別れた原因、もしかしてこの間の連弾、関係ありますか」
思い切ってきいてみた。余計な事をしてしまったかと気になっていた。もしそうだったら夏目先生に謝りたい。謝って済むものではないかも知れないが。
「関係ないと思います」
夏目先生は即答した。
「飯倉さんと最後に話した時、『バーンスタインの音楽を聴いていたら三田村君のことが好きみたいだと気付いた』と。連弾のことは何も」
「……バーンスタイン?」
「三田村君と二人でコンサートに行ったそうです」
それから夏目先生は、淡々と飯倉さんとのことを話した。二人の間にあった出来事の要点だけをかいつまんで。飯倉さんに十分すぎるほど配慮して、余計な事は一切言わずに。
でも何となくわかった。
夏目先生にとっての「振り返っては何度も悔やむ」は、飯倉さんにキス以上のことをしなかったことだ。できなかったのだろう。飯倉さんよりずっと先に、彼女の本当の気持ちに気付いていたから。
曲が終わり、訪れた一瞬の静寂。そして少しの間の後、次の曲が始まった。『ポル・ウナ・カベサ』 失恋の曲だ。よりによってこんな時に。俺が気まずそうにしたのを察知してか、夏目先生が言った。
「この曲、競馬用語の『首一つの差で』という意味のタイトルで、オリジナルは恋の駆け引きに負けた男を表現した歌なんですよね」
夏目先生の視線は空になったビールのグラスに向けられていた。
「思い上がった言い方かもしれませんけど、僕が身を引くような真似をしなければ、飯倉さんとはまだ続いていたんじゃないかな。でもそれはできなかった。そこが、瀬戸さんのさっきの話と一致するように思います。違和感を無視できなかった。諦めたら絶対後悔するような、もう二度とない巡りあわせやチャンスだったかもしれないのに」
俺は何も言えなかった。
(続く)
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Nicola Benedetti - Tango - Por Una Cabeza
https://youtu.be/mOY2NQdFHuc
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