番外編

瀬戸さん

1. ティコ・ティコ

「この曲、瀬戸君な感じ」


「ほんと? どこが」


「明るくて軽やかなところ」


 でも、せわしない感じにも聴こえる。


「……俺、こんなに落ち着きない?」


 結衣は何も答えずに笑い、メニューを開いた。



 あれは大学三年の頃、初めて結衣と入った喫茶店。かかっていた曲は『ティコ・ティコ』、ブラジル音楽だ。あの時は、商社に就職して中南米関係の仕事をするようになるとは思ってもみなかった。


「あのさ」


「何?」


「高林君がフランスに転勤するんだ」


「あら」


「俺も来年あたり、ブラジルに行くことになると思うんだけど。結衣、一緒に来て。結婚しよう」


 これで何回目だろう。大学を卒業して十年。ことあるごとにプロポーズしてきた。けれど結衣の返事はいつも、「今はまだ考えられない。ごめん」。


 仕事が忙しいから、製菓学校に通うから、転職したばかりだから、もっと和菓子職人として学ばなくてはならないから……その時々のもっともらしい理由で断られ続けてきた。そうこうしているうちに三十を超え、あっという間に三十三になり、いつまで待たせるんだと、俺は世の中の女性の気持ちがよくわかる男になってしまった。


「いいよ」


「……えっ?」


「だから、いいよ」


「結衣、ちゃんと話聞いてた?」


「聞いてたよ。ごめんね、今までずっと断り続けて。待っていてくれてありがとう」


 結衣は穏やかに微笑むと、その華奢な腕を俺の首に絡め、唇を重ねてきた。結衣はこういうところがある。大人しそうに見えて実は主導権を握るタイプだ。彼女が三姉妹の長女で俺が三人兄弟の末っ子というのも、二人の関係に影響しているかも知れない。


 それにしても、まさかプロポーズを受け入れてくれるとは――いや、今OKしてくれなかったらこの先どうするんだっていう感じだが――こんなにあっさりいい返事をもらえるなら、もっときちんとプロポーズすれば良かった。ちなみに今はピロートーク的な状況だ。


「ブラジルには三年くらい駐在するけど。結衣、仕事どうする?」


「今のお店は辞めてついていく。戻ってきたら開業しようかな。小さな工房だけ借りて、オーダーメイドの和菓子を作るの。瀬戸君がたっぷり時間をくれたから色々準備できたよ。ありがとう」


 そうだったのか。結衣は自分のことは何でも一人で決められる。自立している。



 それに引き換え飯倉さんは頼りなかった。一言でいうなら優柔不断。高林君の代わりのドラマーとしてKSJCに入ってもらうために皆で勧誘したところ、興味がありそうなそぶりを見せはするものの、なかなかうんと言わない。ついに三田村君がきつい一言をかました。


「俺、苦手です。こういうはっきりしないタイプ。入ってからも面倒くさそう」


 内心、三田村君の意見に賛成だった。飯倉さんは幼い印象で、はたしてKSJCでうまくやっていけるのか心配だった。


 ところが飯倉さんは、あっという間にKSJCになじんだ。彼女の演奏技術は確かだったのだ。女性らしい――と言っては差別かも知れないが――細やかな配慮のある、落ち着いたドラムを叩いてくれた。彼女のおかげで、俺たちの演奏は高林君がいた頃より安定した(高林君が下手だったわけではない。時々、調子に乗りすぎていただけだ)。


 そのうち飯倉さんは実家を出て、三田村君と同じシェアハウスで暮らし始めた。ずいぶん思い切ったことをするなと思った。


 夏目先生と三田村君の様子がおかしくなったのはその頃からだ。二人とも明らかに飯倉さんを意識するようになった。正直意外だった。それなりにモテるのに、なにも二人そろって飯倉さんを好きになることもないだろうに。



 俺は、三田村君が有利だろうと思っていた。冷たいようでいて包容力があるのを知っていたからだ。そばで過ごしたら絶対に三田村君を好きになる。


 だが予想は見事に裏切られ、飯倉さんと付き合ったのは夏目先生だった。三人とも表面上は態度を変えないので気付くのに時間がかかったが、十二月のライブの終演後、夏目先生と飯倉さんが舞台袖でキスをしているのを振り向きざまに目撃してしまった。


 思わず立ち止まった。すると一緒に歩いていた三田村君も立ち止まり、こちらを向いた。しまった、と思ったときには遅かった。


「……見たよね……」


「……」


 三田村君は、黙って頷いた。



 この日つばめで打ち上げをした後、俺は三田村君と飲んだ。三田村君はとつとつとこれまでの経緯を語り、何度も「なんだか納得がいかない。いい感じだと思っていたのに」と繰り返した。


 確かに三田村君のいう通りだ。二人が過ごした土曜日は、とても居心地がよさそうだった。一緒に買い出し、食事、料理、チェスに連弾。まるで恋人同士じゃないか。それなのに飯倉さんはある日突然「夏目先生とお付き合いを始めたんです」と宣言したそうで、三田村君が受けたショックを想像すると胸が痛んだ。


 でもまだ逆転のチャンスはある。二人は結婚したわけではないのだ。


「とっちゃえば?」


 本当に好きなら、それくらいやればいい。だが三田村君は何も答えなかった。



(続く)


――――――――――――――

Abreu: Tico Tico / Barenboim · Berliner Philharmoniker

https://youtu.be/v_ZnJCMQqwo?list=PL0-g9V4B-03Lnl9awgx3L2qSKHrFdXrcc


『瀬戸さん』の楽曲はこちらにまとめてあります。

◇https://www.youtube.com/playlist?list=PL0-g9V4B-03Lnl9awgx3L2qSKHrFdXrcc

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