55.週末に(その2)
「……さん、飯倉さん」
私を呼ぶ三田村さんの声とドアをノックする音で目を覚ました時、室内はすでに暗かった。
えっ、今何時?
慌ててスタンドの明かりをつけて時計を見ると、七時。最後に時計を見たのが三時過ぎだった。四時間近く昼寝をしてしまった。
まずい、三田村さんとの約束をすっぽかして見事に寝過ごした。本を読んでいたはずが、いつの間にかブランケットにくるまって眠ってしまった。
「起きてる? 夕食できたけど」
私は飛び起きた。
ダイニングのテーブルには、美味しそうに盛り付けられたビーフシチューが用意されていた。それにバゲットと、赤ワインがグラス半分くらい。
「……すみません」
「いいよ別に。疲れてたんじゃないの」
三田村さんは気にする様子もなく、シチューを食べ始めた。私もつられてスプーンを口に運ぶ。
「……美味しいですね、これ。お肉がスプーンで切れる……」
「そうだね。ネットのレシピ通りだけど。ワインほとんど使っちゃって、飲む分が足りなくなった」
今ならきけるかも知れない。
「三田村さん。好きな……」
「好きな?」
「ワインは?」
「オーストラリア産のシラー」
またきけなかった。それにしても三田村さんは、何をきいてもちゃんと答えられてすごい。
夕食後、悶々とした気持ちで部屋に引き上げた。せっかく三田村さんと一日過ごせたのに、肝心なことはきけずじまい。しかも長いお昼寝までして、もったいない時間の使い方をした。
ああ。また来週の土曜日まで待たなくてはならないのか。いや、明日の日曜日だって、ちょっと質問する時間くらいはある。日曜がダメなら平日だって、三田村さんの帰宅を待てばチャンスはある。落ち着け、私。
しばらくして私は、お水を飲もうとキッチンに降りた。ドアを開けると、三田村さんが缶ビールを冷蔵庫から出したところで、目が合った。シャワーを浴びた後なのだろう。髪が少し濡れている。
きくなら今だ。今度こそ本気でそう思った。これ以上、うじうじもやもやしたくない。
「三田村さん。好きな人はいますか?」
するっと出た。自分の言葉じゃないみたいに聞こえた。だけど、どんな答えが返ってくるのかと考えると、言ってしまってから心臓がバクバクした。
一瞬驚いた表情になった後、三田村さんは笑った。すごく楽しそうに。
「朝から何回も繰り返した『三田村さんは、好きな』って質問、それだったの?」
「……そうです」
「いるよ。今、目の前に」
私達はそれぞれ缶ビールを手に、ラウンジのソファに落ち着いた。今までは一人がけのソファにそれぞれ座っていたけれど、今日は三人掛けのソファに並んで収まった。
私達はしばらく黙ってニュースを観ていたが、やがて画面がCMに切り替わり、三田村さんが少し非難めいた口調で言った。
「俺たち、けっこういい雰囲気だったよね? 毎週土曜日、一緒に過ごして。それなのに急に、夏目先生と付き合ってるって言いだすから驚いた」
「すみません……。まさかそういうふうに思っていたとは」
三田村さんはいつもそっけないので、全く気付かなかった。
「好きでもない相手と一日中一緒にいるって、俺はないから」
「じゃあどうして、何も言ってくれなかったんですか?」
「三十にもなって『好き』とか『付き合って下さい』とか、かっこ悪い」
「言わなくちゃ、わからないじゃないですか」
三田村さんは小さくため息をついた。
「そんなことないと思うけど」
「じゃあ三田村さんは、何がどうなったら、『好き』で『付き合っている』ことになるんですか」
「それは――」
三田村さんは、私が持っていたビールの缶を取るとローテーブルに置き、ふわっと私に覆いかぶさった。そして唇をそっと重ねた。でもそれは一瞬だけで、すぐに私から離れた。
「こういうことをしたら」
いたずらっぽく笑う三田村さんは、たまらなく魅力的だった。
「三田村さん」
例の申告も、今しておこう。
「何?」
「私、経験ないんですけど。っていうのは、男の人と最後までしたことがないということですけど」
三田村さんは不思議そうな顔をした。そりゃそうだろうな。少なくとも、夏目先生とはしたと思っていただろうから。
「……へえ。そうなんだ。ちょっとびっくり。俺は経験済み」
「あの……経験なしって、重くないですか?」
「全然。むしろ嬉しい。他の男と比べられずに済むし。責任は感じるけど。……それにしても夏目先生、よく手を出さなかったね。何度かそういう機会、あったでしょ?」
私はこれまでのことを話した。三田村さんは黙って聞いていたが、最後に言った。
「夏目先生、誠実だな。何もしないで帰してくれて。なかなかできないと思う」
そして三田村さんは、私を強く抱きしめた。細身だと思っていたけれどその胸は意外にしっかりしていて、私の背中や髪に触れる手は、とても優しかった。
(続く)
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