40.ライブの打ち上げを抜けだした帰り道
ライブの打ち上げを、夏目先生と私は途中で抜け出した。みんなと過ごすのは楽しい。でも二人きりの時間も必要だ。一月に入ってから慌ただしく、ほとんど一緒に過ごす時間がなかった。
タクシーで会社に戻ってトロンボーンとドラムスティックを置き、近くのバーで軽く飲んだ。
「今日、上手くいって良かったね」
「はい。これでやっとひと段落ですね」
ライブでの演奏を終えた今、ミズモリケントの『待ってて』は、二月下旬のリリースを待つばかりだ。萩岡係長が作ったKSJCの動画サイトでは、すでにベートーベンの楽譜が無料で公開されている。週明けに『十二月ライブ(音だけで画像はない)』、そして『好き』と『待ってて』のMVをアップすれば、私たちがすべきことは、もう何もない。
「ところでシェアハウス、三月までだよね。引越し先、決まった?」
「迷っているところです。予算的には、またシェアハウスに住めたら助かるんですけど。普通の賃貸より安いので」
「できれば、シェアハウスじゃない方がいい」
初めて聞く、夏目先生の不機嫌そうな声だった。
「どうしてですか?」
「他の男に手を出されないか心配」
「大丈夫ですよ、私は地味なので」
「……自分で思ってるほど地味じゃないし、モテると思う。MV撮った時すごくきれいだったし、萩岡係長にも大事にされてるし。三田……」
そこまで言って、夏目先生は黙った。
三田村君も、と言おうとしたんだろうな。
夏目先生は、付き合う前から三田村さんのことを気にしていて、今でもたまにその気配はある。三田村さんが聞いたらきっと笑うだろう。土曜日に一緒に過ごすのはとても楽しかったが、それはきっと、お互い恋愛感情がなかったからだ。だから三田村さんも私も、素に近い感じでいられたんだと思う。でも恋愛は、それとは別だ。
ほろ酔いで歩く、駅までの道。
夏目先生が隣にいることに、だいぶ慣れてきた。でも二人だけで過ごすのは週に数時間がせいぜいで、そのせいだろうか、夏目先生はキス以上のことは求めてこない。
もしかして、結婚するまでしない派だろうか? それだったら、私も諦めがつくというか、結婚してしまったらもう覚悟は決まると思う。いや、今の時代に結婚するまでしないなんて、あり得ないか――みんな実際のところ、どうしてるんだろう。それに二十九歳で未経験と知ったら、夏目先生はどう反応するだろう――こんなにクヨクヨ悩むくらいなら、もっと若いうちに済ませておくんだった。
「どうしたの?」
「はい?」
「深刻そうな顔で黙りこんで。飯倉さん、たまにそういう時あるよね。何か悩み事?」
ここで「処女なのでキスより先に進むのが悩ましいんです」と言えたらどんなに楽だろう。でもまだ誘われてもいないし。
「いえ、特に悩みはありませんよ」
とりあえず無難な答えを返した。
「それならいいけど」
信号が赤になり、私達は立ち止まった。周りに人はおらず、夏目先生は私に軽いキスをした。さっき飲んでいたウイスキーの味がした。
「明日土曜日だけど、予定ある?」
「何も」
久しぶりにデートのお誘いかな。
「じゃあ、これから部屋に来ない?」
「今、『明日』って」
「うん、明日は久しぶりに一日空いてるから、飯倉さんと一緒に過ごしたい。でもできれば、今からずっと一緒にいたい」
私が子どもっぽいはぐらかし方をしたにもかかわらず、夏目先生はきちんと説明してくれた。でも私は何も言えなかった。夏目先生は困ったような表情で答えを待っていたが、信号が青になり、「行こう」と私の手を軽く引いて横断歩道を渡った。
「意味、わからなかったかな」
歩きながら話す夏目先生は、いつもより少し早口だった。
「……わかります」
どうしよう。まさか今ここでこんなことになるとは、思ってもみなかった。
「あの、私、何も準備してなくて」
「大丈夫だよ。帰りにコンビニに寄れば大体そろうでしょ」
違うんです、夏目先生。歯ブラシとかメイク道具とか、そういうものではないんです。
「ごめん、急に。嫌だったら無理には」
夏目先生が諦めかけた。一瞬、ほっとした。でもすぐに違う考えがふつふつと沸き上がる。ずっとこのまま、同じところで悩み続けて足踏みするの? さっき思ったばかりじゃない。「もっと若いうちに済ませておくんだった」って。
「夏目先生」
「ん?」
この先、今日より若い日はない。夏目先生みたいに素敵な人に、好きだと言ってもらえる可能性もほとんどない。だったら――。
「嫌じゃないです。これからお部屋、伺っていいですか?」
不安そうだった夏目先生の表情が、笑顔に変わった。
夏目先生となら、きっと大丈夫。信じてやってみるしかない。
(続く)
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