41.夏目先生の部屋
いつも夏目先生とは会社の最寄り駅で別れるけれど、今日は少し先の駅まで歩いて一緒の電車に乗った。K大学前駅まで約二十分。夏目先生は病院からの呼び出しが頻繁なので、大学のすぐ近くに住んでいる。
「明日、何がしたい?」
……初体験の翌日に、元気に出歩く気持ちになれるかな。そう思いつつ、答えを探す。
「映画はどうですか?」
落ち着いて休めそうな気がする。暗いし。
「いいね。何か観たいのはある? 食事はどうしようか?」
映画や食事のことを話しながらも、私は心ここにあらず、だ。
一時間後、もしかしたら三十分後、または部屋に着いた直後からだったら十五分後くらいに、一大事が迫っている。
あれは一体どんなふうに始まるのだろう。どうしよう。どのタイミングで「未経験です」と申告すれば良いのだろうか。
ぐずぐず悩んでいるうちに、K大学前駅に着いてしまった。夏目先生は、まったく普段と変わらない。しいて言えば、少し嬉しそうには見える。私にとっては一大事だけど、経験のあるに違いない夏目先生にとっては、恋愛の通過点に過ぎないのだろう。
駅を出ると、交差点の向こうにK大学の正門が見えた。大学病院の他に、医学部・歯学部・薬学部・看護学部がここにあるそうだ。夏目先生の部屋は、駅から徒歩三分だった。
「きれいに片付いてるんですね」
玄関から眺める室内には無駄なものが何もなく、随分広く感じられた。
「そう? 上がって」
私は靴を脱ぎ、部屋に上がり、玄関に続くキッチンから室内を観察する。
聞いていた通りワンルームだが、ずいぶん広い。十八畳くらいあるんじゃないだろうか。
入ってすぐがキッチンで、小さめのダイニングテーブルと椅子が二脚が置いてある。右奥の窓際には大きめの机、その横の壁には本棚。専門書らしきものがぎっしり入っている。机の上にはパソコンと、広げたままの資料とノートが置いてあった。
ベッドは反対側の壁際。ダブルだろうか、私のより大きめで寝心地が良さそうに見えた。これからあそこで……と思うと、耳は熱くなったし、心臓がバクバクした。
「大丈夫?」
「はい?」
「ベッドを凝視して固まってるから」
「……」
夏目先生は、そっと私のコートを脱がせて、ハンガーにかけてくれた。
「座ったら?」
緊張で立ち尽くしている私に、夏目先生がダイニングテーブルの椅子を引いてくれた。
「ありがとうございます」
「何か飲む?」
「お水を」
喉がカラカラだ。
夏目先生は冷蔵庫からペットボトルを出し、食器棚から出したグラスに水を注いで私にくれた。そして私がグラスに口をつけるのを見ると、自分のコートを脱いで椅子の背にかけ、腕時計を外してテーブルに置いた。
「シャワー、浴びるよね?」
きた。ついに。
「……はい」
シャワーを浴びたら、もう後戻りはできないだろう。
どうしよう。
いや、そんなこと、部屋に来るって決めた時から分かりきっていたことだ。まずはシャワーだ。浴びに行かなくては――覚悟を決めて立ち上がったその時、足元に置いたバッグからメールの着信音が鳴った。
思わず屈み、スマホを取り出す。メールの主は三田村さんだった。
『伝えるのを忘れてた。土日は実家に戻るから。一応連絡』
時刻を見ると、十一時過ぎだ。私がシェアハウスにいないのに気付いているのだろうか? この文面からだとわからない。それにもし気付いていたとしても、三田村さんは私がどこにいるか、詮索する気はなさそうだ。
「急ぎの要件?」
「いえ。三田村さんからです。土日は実家に帰ると。気を遣って連絡をくれたようです」
「そう」
「シャワー、お借りしますね。タオルは」
どこですか?
ときこうと思った時、強く抱きしめられて唇を塞がれた。
「ちょっ…シャワー……」
「いいよ、そんなの」
このまま? それは困る!
もがいたが、夏目先生の腕の力が思いのほか強く、逃れられない。嫌ではないのだが、私は身じろぎした。
「……」
夏目先生は構わずキスを続ける。これまでと全然違う、私の唇を貪るかのような口づけ。そうされるうちに、全身から徐々に力が抜け立っていられなくなった。気持ちがいいから? それとも極度に緊張したせい? でも夏目先生は慣れた感じで、私の背中を支えるようにしてベッドに押し倒した。
初めて感じる男の人の重み。処女だと伝えるタイミングは全くない。嵐のように事は進む。この様子だと夏目先生は、私も経験があると思っていそうだ。どうしよう。一瞬冷静になってはみたものの、今度は首筋や胸元を吸われ、また私は動揺した。夏目先生のシャツに、しがみつくしかできない。
そのうち夏目先生が片手で無造作にネクタイをほどき、私のシャツのボタンを外し始めた。その仕方がずいぶん性急で、いつもの夏目先生とは別人のようだった。私は驚いて夏目先生の顔を見ようとした。その弾みで、二人の唇が離れた。
「ごめん、大丈夫?」
夏目先生の目には切羽詰まったような、不安の色があった。
「……はい」
「続けていい?」
許しを請うような声。
「……」
私は思わず頷いた。
こんなに求められたら、だめなんて言えない。夏目先生はきっと、今まで待っていてくれたのだ。
「外して。ボタン」
夏目先生が、私の手を自分のシャツのボタンに導いた。だが体が密着していて、しかもキスをしながらで、よく見えない。
何とか手探りで外していく。夏目先生の手は私の背中をまさぐっていて、ああそうか、ブラのホックを外そうとしてるんだ。
静かな室内に響くのは、私達の荒い息遣いとキスの音。
私のブラウスはいつの間にかはだけてしまっていて、それは先生のシャツも同じで、二人ともぐしゃぐしゃだ。乱れている。このまま本当にしちゃうんだ――そう思った時、夏目先生のスマホが鳴った。
(続く)
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