42.朝帰り

「……ごめん、病院からだ」


 夏目先生は、急いでスマホに出た。その瞬間からいつもの様子――丁寧で落ち着いた夏目先生――に戻り、「わかりました。すぐ行きます」と淡々と伝えてスマホを切った。そして大きなため息を一つ。


「ごめん。担当している患者さんの容態が急変した。多分、今夜は帰ってこられない。明日も病院かも知れない。こっちから誘ったのに申し訳ない」

 

 せっかく来てくれたのにごめんね、と夏目先生は何度も謝った。


「気にしないで下さい。早く行ってあげて」


 私が言うと、夏目先生は急いで身支度をした。そして部屋を出る時に、カギをくれた。


「今日はもう遅いから、泊まっていって。一人にして悪いけど。何でも使っていいし、お腹が空いたら冷蔵庫の中のものを適当に食べて。あまり入ってないけど。朝、電話する。これは合鍵。持ってて。あと、ありがとう。ここに来てくれて。すごく嬉しかった」


 夏目先生は、ぎゅっと私を抱きしめた。



 翌朝七時、約束通り夏目先生は電話をくれた。


 患者さんは持ち直したが、また急変する可能性が高いので一日病院で様子をみる、とのことだった。


「わかりました。じゃあ私、帰りますね」


「ごめん。また連絡する」


「気にしないで。睡眠、大丈夫ですか?」


「うん、これから少し仮眠をとる」



 土曜の早朝。車両はもちろんがら空きで、ゆったりした空気が満ちている。昨日この電車に乗った時は、不安でいっぱいだった。今は――なんだか嬉しいような、誇らしいような気持ちだ。最後まではいかなかったけれど、一つ、壁を越えられた気がする。


 商店街のパン屋さんで、焼きたての食パンを買った。バターをたっぷり塗って食べて、それからひと眠りしよう。昨晩はあまり眠れなかった。


 そんなことを考えながらシェアハウスのカギを開けて玄関に入ると、三田村さんの靴があった。


 土日は実家に、ってメールに書いてあったけど……。まだここにいるのか。こっそり部屋に上がろう。だが私が階段を登ろうとしたとき、廊下の突き当りのダイニングのドアが開き、三田村さんと目が合った。


「朝帰り」


 ぼそっと言った三田村さんは、無表情だ。


「すみません」


「謝る必要はないけど」


「三田村さん、ご実家へは?」


「これから」


「そうですか。……あの、部屋に行きますね。帰省、お気をつけて」


 それだけ伝えると逃げるように階段を上がり、自室に入ってドアを閉めた。昨夜のことを三田村さんに見透かされてしまったようで、たまらなく恥ずかしかった。



 夜、電話をくれた夏目先生にその話をすると、先生は不思議そうにきき返した。


「三田村君にバレたのが恥ずかしい?」


「はい」


「バレるって……ああ、深い関係ってこと?」


「はい。最後までしてませんけど」


 夏目先生は笑った。


「三田村君は気にしないよ、そんなこと。お互い大人なんだし。以前、付き合ってるって伝えたんでしょ。だったら、もうとっくにしてると思われてるよ」


 予想外のコメントだった。

 そうか、大人が「付き合ってる」というのは、そこまでしているということか。じゃあ三田村さんは前からずっと、私は夏目先生とと思ってたのか。


「それより」


「はい?」


「昨日はがっついてごめん」


「いえ、そんな」


「今度はちゃんとしたところに泊まろう。仕事の調整をして、呼び出されない日を作るから」


「……無理してませんか?」


「え?」


「ええと、そんなに先延ばしにして大丈夫かなって」


 あれほど激しく求めていたから。


「大丈夫」


 電話の向こうで、夏目先生がふっと笑うのが聞こえた。



(続く)

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