43.引越準備

 日曜日。私は久しぶりに横峯不動産を訪れた。


 そろそろ新しい部屋を決めないとまずい。シェアハウスにいられるのは三月末まで。残り約一か月だ。


「ご無沙汰しております。お元気そうですね」


 山際さんが、感じの良い笑顔で出迎えてくれる。私にシェアハウスを紹介してくれた営業さんだ。


「はい、おかげさまで」


「シェアハウス、いかがでしたか」


 山際さんが椅子をすすめてくれ、私は座った。


「とても楽しく暮らせました。山際さんのおかげです。出なくてはならないのが寂しいです」


「そうですよね。あんなに魅力的な物件は滅多にないですから。三田村さんとも、トラブルはなかったんですね?」


「ええ。生活時間がずれていましたし、程よい距離感で全く問題は」


「そうですか。良かったです。次のお部屋、ご希望の条件などありますか?」


 山際さんは、カウンターにメモ帳を広げた。


「はい。八万円以下で、1Kか1LDKの賃貸がいいです」


 節約すればなんとかやっていける金額だ。


「沿線は?」


「今と同じがいいです。通勤に便利なので」


「なるほど」


 山際さんはパソコンで物件を検索し、条件に合いそうなものを印刷してくれた。該当は全部で七部屋。どれも似たような間取りで、正直、今のシェアハウスのような魅力はなかった。


「やっぱり賃貸でこの金額だと、厳しいんですね……」


「そうですねえ。今のお部屋がとても素敵ですからね。シェアハウスで探す気はないんですか?」


「ええ。今回は賃貸で」


「そうですか。実は一軒、シェアするのにいい物件が出たんですが」


「でもシェアは……」


 夏目先生がすごく嫌そうだった。その気持ちを無視するわけにはいかない。


「今の物件とは全く違うんですけど、飯倉さん、お好きだと思うんですよ。同じ路線ですよ。会社からは一駅遠くなりますけど」


 でもそこまで言われると、気になる。私の気持ちが揺らいだのを察知したのだろう、山際さんが明るく誘った。


「せっかくの機会なので、ご覧になるだけでも」


 三十分後、私は山際さんと一緒にある一軒家の前に立っていた。


 狭い敷地に隣家と密接して建つ、よく都内で見かけるタイプのいわゆる「狭小三階建て」だ。庭もないし、今のシェアハウスの魅力とは全く比較にならない。


「なんの変哲もないような」


「まあ、そうおっしゃらずに」


 山際さんがドア開けてくれ、私は中に入った。小さな玄関があり、引き戸を開けるとリビングだ。目に入ってきたのは。


「……ピアノ」


 がらんとした部屋の壁際に、アップライトのピアノが一台置いてあった。


「貸主の方、急な転勤で海外に引っ越されたんです。家具はご実家に送ったそうなんですが、ピアノだけは置き場所がなく、このままここに」


「いずれ戻られるんですか?」


「二年後の予定です」


 私はピアノの蓋に触れてみた。黒ではなく、濃い茶色。この色のアップライトは初めて見る。滑らかで艶のある素敵な色だ。


「弾いてみていいですか」


「どうぞ」


 蓋を開けてソの鍵盤を押してみた。ポロン、と澄んだ音が部屋に反響する。


「いいピアノですね」


「ええ。一九七〇年製の中古だそうですが、思いがけず状態が良く、気に入っていらっしゃるそうです。『できればピアノを弾ける方に入居して頂き、たまに演奏して状態を保って欲しい』と。飯倉さん、シェアハウス入居後に連絡くださったとき、『ピアノが弾けて嬉しい』とおっしゃってたじゃないですか。だからお知らせしたくて」


「でも、お家賃が」


 狭いとはいっても一軒家だ。それなりにするだろう。


「一軒丸ごとで、月額十二万円です。二年限定であること、そしてピアノが置きっぱなしなので格安です。さらに敷金・礼金は不要。シェアする場合は、使用する部屋数などに応じて賃貸人の間で負担割合を決めてもらいます。仮に二人で折半する場合だと、一人月額六万円になりますね。後でお見せしますが、トイレは二か所あります」


 すごく魅力的な条件だった。



(続く)

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