44.花音、萩岡係長にたしなめられる
「それで? もしかして、また即決しちゃったの? その一軒家に」
萩岡係長が、焼き網からつまんだハラミをご飯にのせながら訊いた。
恒例の月曜ランチ、今日はミズモリケントの『待ってて』リリース前の景気付けを理由に、焼き肉ランチにした。店内には、肉とタレの匂いが立ち込めている。
「いえ、今回はさすがに。まだ誰も住む人が見つかっていないそうですし」
「そうだよね、シェアする相手が必要だもんね。心当たりは?」
「……三田村さん」
私の答えに、萩岡係長は沈黙した。
いつもの「ええー⁉」というリアクションが返ってくるかと思っていたので、意外だった。
「飯倉さん」
萩岡係長がお箸を置き、神妙な顔つきになった。
「その発想は、どうだろうか」
「深い意味はなくて、三田村さんもシェアハウスを出るし、今まで一緒に住んで問題はなかったし、ピアノもあるし、ってことなんですけど……」
私はなぜだか焦ってしまい、声が上ずった。
「うん。理屈はわかるよ。でもさ、最初に声をかけるべきなのは、夏目先生なんじゃないの」
「先生は忙しいので、大学近くのお部屋じゃないと。普段もほとんど会えないくらいですし」
「……」
係長の眉間にしわが寄ったのを、初めて見た。
「なんでしょうか」
「飯倉さんが、この機会に夏目先生の近くに引っ越そうって発想はないわけ?」
「……重くないですか?」
「それは、夏目先生にきいてみないとわからない」
確かにそうだ。
「僕の考えを言わせてもらうと、飯倉さんは男性との付き合い方があっさりしてる感じだから――まあ、それがKSJCに違和感なく溶け込んだ一番の理由なんだろうけど――今より重くなって丁度いいくらいだと思うけど」
そうだろうか。
「シェアハウスの話、夏目先生にも三田村君にも、しない方がいいと思うよ。その話だけ聞くと飯倉さんは、夏目先生より三田村君と一緒にいたいみたい」
「そんな」
心外だ。
夏目先生とはあんなことまでした。
私は先生のことが、ちゃんと好きなはずだ。今回に限っては「男の勘」は大ハズレだ。
私がむっとしたのを察知したのだろうか。萩岡係長は急に明るい声になり「なんてね! 偉そうなこと言ってごめんね。お詫びにデザートにアイス、ご馳走するね」と、抹茶アイスを頼んでくれた。その甘さと冷たさが焼き肉の後にはぴったりで、私達はあっという間に食べてしまった。
「そろそろ戻ろうか」
「そうですね」
「あの、ちょっと待って頂けますか」
席を立ったタイミングで、私たちは店員さんに呼び止められた。まだ若い女の子だ。
「あのう、もし人違いだったら失礼かなとは思ったんですけど‥‥‥」
「はい?」
「KSJCの……」
萩岡係長と私は、顔を見合わせた。
「そうですけど」
係長が答える。
平静を装ってはいるが、少し口元が緩んでいるのがわかる。ポジティブシンキングな萩岡係長はこの時点で、「ファンが声をかけてきた!」と思っているのに違いなかった。
「うわぁ! すごい! 私ファンなんです!」
彼女の声は思いのほか大きく、私たちは店内の注目を浴びた。
「いやあ、びっくりしちゃったね! ファンがあそこにいたとは!」
会社に戻る道中、萩岡係長はホクホク顔で何度も繰り返した。声をかけてくれた店員さんは女子大生で、ブラスバンド部所属だった。
「ベートーベン、みんなで練習を始めたんです。すごく楽しくて、大好きです。無料の楽譜をKSJCのサイトに掲載して下さって、ありがとうございました!」
店員さんは頭を下げた。
「えぇ~ほんと? 編曲したの、私なんですよ。良かったら、大学の皆さんが演奏している動画、アップしてもらえませんか?」
「私」だって。いつもは「僕」なのに。
「もちろんです! 皆さんのように上手くはないんですけれど。ミズモリさんの新曲も買いますね! 来週木曜ですよね?」
「うん、そうだよ。『待ってて』を買ってくれるなんて、ありがたいなあ。良かったら、今度お店に来た時にサインするね!」
そんな約束までして、私たちは店をあとにしたのだった。
ちなみに彼女が一番好きなメンバーは、瀬戸さんだった。
「フロント三人は皆さんカッコいいですけど、テナーサックスの人がダントツ!」
瀬戸さんを、そのうちこのお店に連れて来なくては。
(続く)
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