51.バーンスタイン(その2)
午後、三田村さんと私はMホールのロビーで落ち合った。
三田村さんは東京駅でご両親と待ち合わせ、チケットを受け取ってから会場に来たのだ。
「せっかくのチケットを無駄にしないために」という事情だから、デートという感じは微塵もない。土曜朝に商店街に買い出しに行く延長のような、そんな雰囲気だ。
オーケストラ団員が徐々に音合わせを始める頃、隣の席の三田村さんが話しかけてきた。
「『ウェスト・サイド・ストーリー』の映画かミュージカル、観たことある?」
「ないです」
「俺も。なのにオーケストラと歌だけって、どうなんだろ。楽しめるかな」
ここまで来てそんな。思わず笑ってしまった。
今日のコンサートは、前後半に分かれている。前半は『ウェスト・サイド・ストーリー』のミュージカルから有名曲を歌手とオーケストラの共演で。後半は『シンフォニック・ダンス』で、これはバーンスタインが『ウェスト・サイド・ストーリー』をオーケストラ用に編曲したものだ。
指揮者が壇上に上がる。盛大な拍手。そして、演奏が始まった。
一曲目が『ジェット・ソング』。そして二曲目の『サムシングス・カミング』が終わったところで、三田村さんが私に囁いた。
「いいね。かっこいい」
「そうですね」
二曲とも、ワクワクする曲だった。
ところが三曲目の『マリア』で雰囲気はがらっと変わり、トニー役の歌手が「マリア」を連呼するところで、私は思わず涙ぐんだ。ミュージカルというより、オペラのアリアのような美しさ。感動した。
『マリア』が終わってほっとしたら次は『トゥナイト』で、今度は本格的に涙が溢れた。涙腺が決壊している。まずい。
その後、『アメリカ』『クール』でいったん持ち直したが、『ワン・ハンド、ワン・ハート』でまた泣いた。
今日の私は感情を揺さぶられすぎだ。美しい歌のせいだけではない。夏目先生のことがあったからだ。曲の合間、さっきのように話しかけようとこちらを向いた三田村さんが、視線をそらしたのがわかった。
私は泣いたり泣き止んだりを繰り返しながら、コンサート前半を聴いた。三田村さんは、さすがにずっと知らないふりはできなかったのだろう。途中で「足りる?」とポケットティッシュを一つ、分けてくれた。
私が落ち着いたのは、後半になって「『ウエスト・サイド・ストーリー』からのシンフォニック・ダンス」が始まってからだった。時に激しく、時に穏やかなバーンスタインの調べに身を任せる。
この一年、色々なことがあった。
三月に初めてKSJCのライブを観て、ドラマーとしてスカウトされて。帰宅時間が遅くなって母親と険悪になり、実家を出た。三田村さんと同じシェアハウスに暮らすようになって、ライブをこなして。
三ヶ月ほどの間、毎週土曜日を三田村さんと一緒に過ごした。
夏目先生と付き合うようになってから、三田村さんは私を避けるようになった。
寂しかった。
でも夏目先生がいたし、ミズモリケントの件で忙しくなったこともあって、あまり気に留めずにすんでいた。
『シンフォニック・ダンス』が終盤に差しかかる。
そっと、横にいる三田村さんを見た――目が合った。私は慌ててステージの方を向いた。
そういえば、三田村さんの隣に座ったのはピアノを弾いた時だけだ。それ以外は、チェスをするときも食事をするときも、いつも私たちは向かい合って座っていた。
一緒に過ごした土曜日、楽しかったな。朝起きてコーヒーを飲んで、食材を買い出しに行って。夕食を準備する合間に、ビールを飲んでチェスをした。ああそうだ、三田村さんにすべての駒を並べさせるという目標は、達せられないままだ。ミズモリさんのラジオも一緒に聴いたことがあったな。
最後の静かな一曲が私に思い起こさせたのは、三田村さんと過ごした土曜日のことばかりだった。
毎週繰り返していた、あの穏やかな土曜日を取り戻したい。
曲が終わり、会場から拍手が沸いた。三田村さんも、拍手をしながらこちらを向いた。そして苦笑した。
「また。涙と鼻水。大丈夫?」
「……あっ、ほんとだ。大丈夫です。すみません」
焦ってティッシュで拭きながらも、今すべきことを必死で考えていた。
夏目先生。
そうだ、夏目先生に謝らなくては。先生は、私の本当の気持ちに気付いたんだ。だから抱くのを躊躇した。
「三田村さん。私、用事があったのを思い出しました。これから急いで行ってきます。素晴らしいコンサートでした。多分、一生忘れないと思います。ありがとうございました」
一気に伝えて頭を下げ、呆気にとられる三田村さんを残し、階段を駆け上がってホールの外に出た。
バーンスタインは、私に勇気をくれた。
(続く)
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◇バーンスタイン
https://www.youtube.com/watch?v=PB-tIu1Kb8E&feature=youtu.be&t=105
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