50.バーンスタイン(その1)
その日はなかなか寝付けず、何度も寝返りを打った。
夏目先生に拒絶されたようで、悲しかった。
何もせずに済んだのは、ほっとした。
こんなふうに感じるということは、私は夏目先生のことを、本当に好きではないんだろうか。
瑠璃は「寝てみないとわからないことはあるよ」と言っていた。じゃあ最後まですれば、はっきりするんだろうか。未経験だからわからない。
ぐるぐるぐるぐる、同じことを考えているうちに空が白み、小鳥のさえずる声が聞こえてきた。
キッチンに降りてコーヒーを淹れる。この匂いを嗅ぐと、ほっとする。ダイニングの窓から見渡すと、庭に日の出前の薄青い空気が満ちている。
お腹空いたな。
冷蔵庫を開けてみるが、私の買い置きは何もなかった。
「アイス食べる?」
振り向くと、ドアのところに三田村さんが立っていた。
久しぶりに一緒にアイスを食べた。三田村さんは抹茶、私は小豆。
「三田村さん、今日はいつもよりさらに早起きですね」
アイスを食べ終わってコーヒーのお代わりをゆっくり飲んでも、まだ六時を過ぎたばかりだ。
「まあね」
朝食室のテーブルを挟んで座っている三田村さんは、カップの取手を弄びながら、意味ありげな視線を私に向けた。
「実家に泊まってくるはずだった人が夜中に突然帰宅したのが気になって、早く目が覚めた」
「……すみません」
「キッチンで物音がしたから、話せるかなと思って」
「……」
「話したくなかったら、別にいいんだけど」
そうか。心配してくれているのか。確かに今、話し相手になってくれたら嬉しい。でも何をどう話したらいいんだろう。
「夏目先生と何かあった?」
三田村さんはうつむいてコーヒーカップの中を見ていて、その表情は見えなかった。
「よくわからなくなってしまいました」
「何が」
「本当に夏目先生のことが好きなのか」
三田村さんが顔を上げた。思いがけず、真剣なまなざしだった。
「どうして」
「……言えません」
寝言で三田村さんの名前さえ言わなければ、今頃は夏目先生と一緒にいたはずなのにな。
「三田村さん、今日の予定は?」
話題を変えたくて、何となくきいた。
「買い物ついでに外で朝食、帰ってきて掃除と洗濯」
いつも通りか。
「あとコンサート」
「コンサート?」
「Mフィルの定期演奏会。ウェスト・サイド・ストーリー特集」
「へえ。珍しいですね」
Mフィルは、本格的なクラシックの演目が多いはずだ。指揮者だったバーンスタインは作曲家としても有名だったが、彼のミュージカルナンバーのコンサートを企画するとは意外だ。
「去年、バーンスタインが生誕百周年だったから、その名残じゃない?」
「なるほど。三田村さん、バーンスタイン好きなんですね」
「いや、実はそれほどでも。両親が二人で行くはずが、急用で行けなくなって。昨日突然連絡が。それで俺が代わりに」
三田村さんが黙った。そして少し考えた後で、私にきいた。
「……一緒に行く? このままだと、チケット一枚捨てることになるから」
(続く)
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