48.ホテル

 土曜日の午後。私は化粧ポーチと着替えを用意した。


 映画やドラマのカップルは、ほとんど荷物を持たずホテルに泊まるような気がするが、実際は何かと物入りだ。かといって大荷物なのも恥ずかしい。少し考えて、革製のトートバッグを持っていくことにした。三田村さんには、実家に泊まってくると嘘のメールを送った。


 地下鉄が遅延し、待ち合わせ場所には五分遅れて着いた。家を出る前から「どんな顔で夏目先生に会おう?」と考え続けて胸がバクバクしていたが、そこに夏目先生はおらず、代わりにメールの着信音が鳴った。 


『ごめん、結局呼び出された。先にチェックインしてて。あと二時間くらいで行けると思うから、夕食は一緒に』


 だが二時間たっても先生は現れず、またメールがきた。


『ごめん、まだ出られない。もう八時だね。一人にして申し訳ない。先に何か食べていて。必ず行くから』


 何かっていわれても。


 このホテルは都心にあるが、繁華街からは離れており、周囲に飲食店は皆無だ。かといってホテル内のレストランは高級店ばかりで、一人で入るには敷居が高すぎる。


 結局私は、バーに行ってみることにした。軽く食べられるものがあるだろう。初めての夜に緊張していても、お腹はちゃんと空く。


 ホテルの最上階、五十階にあるバー。全面ガラス張りで、眼下には東京の夜景が広がる。光が綺麗だ。ビル群の窓の青白い色、都市の中を血管のように伸びる道路を照らす街路灯のオレンジ色、そして高層ビルの上部で規則的に点滅を繰り返す赤――これらを眺めていると、自分が宙に浮かんでいるような感じがする。


 案内されたカウンターのスツールに落ち着くと、エビとアボカドのサンドイッチを頼んだ。合わせたのはキューバ・リブレ。コーラにラム酒とライムが入ったカクテルだ。トーストされたパンは香ばしく、炭酸とよく合った。


 二杯目は、バーテンダーがハイボールを少し濃い目に作ってくれた。オレンジの皮で香り付けしてあり、グラスの周りにふわりと香りが漂っている。良いウィスキーを使っているのだろう、爽やかで穏やかで、とてものど越しが良い。ゆっくり味わっているうちに、緊張がほどけてきた。



 部屋に戻ってシャワーを浴びてもまだ夏目先生は現れず、私は満腹になったのとほろ酔いなのとで、ベッドに入ってテレビを観ながら、いつの間にか眠ってしまった。



 三田村さんの夢を見た。夢の中の三田村さんは、


「会社を辞めるからKSJCは退部する。引越しもするし、もう会えない。お別れに」


 と言って、私の唇にキスをした。ぬくもりを感じた。


 行かないで。


「三田村さん!」 


 三田村さんを追いかけた私は、石に躓いて転んだ。




 はっとして目を覚ますと、すぐそばに夏目先生の顔があった。


 ああそうか、キスをしていたのは夏目先生だ。


「ごめんね、ずっと待たせて」


 夏目先生は私に覆いかぶさった。石鹸の香りがする。そうか、私が眠っている間にシャワーを浴びたのか。


 夏目先生が私に触れる。キスをしながらバスローブの中に手を滑らせ、色々な場所をそっと優しく、丁寧に。照明を落とした部屋に聞こえるのは、衣擦れの音と私たちの息遣い、そしてキスの音。


 何度も唇を重ね、しばらくの間、私はされるがままに身を任せていた。(そんなところまで触るんだ)と驚きつつも、すべて受け入れた。夏目先生のことが好きだし、ちゃんと経験しなくては。今夜こそ。


「……ごめん、手、ちょっと痛い」


 夏目先生がキスの合間に耳元で囁いた。


「手?」


「飯倉さんの指が」


 自分の両手を見ると、指が食い込むくらいに強く、夏目先生の背中を掴んでいた。驚いて放す。指先が少し痺れているのは、力を入れすぎていたせいだ。


「大丈夫?」


 夏目先生が体を離した。


「したくない?」


 目の中に不安が見えた。

 私は首を振った。「すごくしたい」というわけではないけど、「しなくては」とは思っている。気持ちは決めてきたんだし、この間だって、病院からの呼び出しさえなければ最後までいっていたはずだ。だからもう、私は夏目先生のものだ。


「変な汗かいてる」


 夏目先生の手が、額に触れる。


「すごく緊張してるみたいだ――」


 そこまで言うと夏目先生は、口に手を当てた。


「まさか」


 気付かれた。


「……初めて……です」


 夏目先生はしばらく黙って私を見つめていたが、やがて拍子抜けしたような笑顔を見せ、体を離した。


「何で黙ってたの?」


 スタンドの電気を付け、乱れたバスローブを整えてくれる。


「すみません。なんとなくタイミングを逃してしまって……それに、重いかなと……」


「そっか。気付いてあげられなくてごめん」


 二人の間に流れる沈黙。急に、そういうことをする雰囲気ではなくなってしまった感じだ。


 夏目先生は、処女は嫌だったんだろうか。


「帰った方がいいかも」


「え?」


「シェアハウスに」


 今から? ここまでして?


「さっき寝言で、三田村君の名前を」


「それは、夢を見たから」


「それだけじゃない気がする。ごめん、今日はできない。飯倉さんの初めての男になる自信がない」


「……」


「お互い、少し頭を冷やそう」


 怒らせてしまったのだろうか。三田村さんの名前を寝言で言ったくらいで? 私は混乱した。どうしたら良いのか、わからなかった。



(続く)

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