31.萩岡係長のアレンジ、完成
翌週、翌々週と、木・金の合同練習は休みだった。
瀬戸さんは南米に出張中だし、萩岡係長は、「アレンジに集中したいんだ、練習室を一人で使わせてもらえないかな、ごめんね」と、手を合わせた。
ぽっかり時間の空いた木曜日。私は夏目先生と、二週続けて「つばめ」に来ていた。白木のカウンターに並んで座ると、ああ、お付き合いしているんだなと実感する。
「係長、少し痩せたと思うんですよ」
「そうなの? 無理しないといいけど」
夏目先生が、私のお猪口に熱燗をお酌してくれる。肴は柿の白和え。
「それは大丈夫だと思います。『もうほぼ仕上がった』と言っていました。週末に見直して、メールでみんな宛に送るつもりだそうです。来週木曜日に、ミズモリさんも一緒に合わせてみたい、と」
「そっか。ちょっと残念。木曜日に練習がなければ、一緒に食事できるのに」
つばめは、会社のすぐ近くにありながら、看板を出しておらずごく限られた常連しか訪れない。付き合い始めたばかりの私たちにとっては都合の良いお店だ。KSJCのメンバーに会う可能性はあるが、それでも良いと思っていた。自分たちから「付き合っています」宣言をするのは恥ずかしいが、自然にバレるなら問題ない。
「三田村君には、付き合ってること伝えた?」
夏目先生は里芋の鶏そぼろあんかけを小皿に取り分けて、私の前に置いてくれた。
「ありがとうございます……まだです」
「言いづらい?」
「……はい……すみません。女同士ならまだしも、三田村さんですよ? 『いきなり何?』って冷たい視線を向けられそうで」
「じゃあ、言わなくていいよ」
夏目先生は笑って、お猪口を空にした。
『はぁ? だから三田村さんには黙っていることにした?』
電話の向こうの瑠璃は、苛立った様子だ。
『なにそれ、花音。伝えなさいよ』
「でも」
『でもじゃない。花音だって、もし夏目先生がシェアハウスで女性と二人で暮らしてて、その女性に花音と付き合ってること隠してたら、嫌でしょ』
「うん」
嫌だな、それは。
『ほら。夏目先生は優しいけど、そこに甘えすぎてはだめ。今週末にでも、ちゃんと言いなさよ』
自由奔放な恋愛を楽しんでいる瑠璃なのに、こういうところはきっちりしている。これも、瑠璃がモテる秘密の一つなのかもしれない。
「わかった」
ここまで言われては仕方がない。
だがその週末、三田村さんに話すことはできなかった。
萩岡係長から、ミズモリケントに依頼されていたアレンジの完成版が送られてきて、三田村さんとピアノで弾いてみた。すごく良かった。ブラスとドラム、それにミズモリケントの声が重なれば、素晴らしい楽曲に仕上がるだろう。私はワクワクしたし、三田村さんも同じだった。この日の三田村さんはいつもより饒舌で、笑顔も多かった。何となく、夏目先生のことを伝えるタイミングではない気がした。
月曜日、私は萩岡係長とのランチの時間が待ちきれなかった。お店に入って注文――コロッケとメンチカツ定食。副菜の切り干し大根、胡瓜の浅漬け、インゲンの胡麻和えは、テーブルの上に置かれた大鉢から取り放題――を済ませて落ち着くと、早速アレンジの感想を伝えた。
「素晴らしかったです!」
「そう? 短い曲なのに、三週間もかかっちゃったよ。疲れたー」
そう言いながらも、係長はウフフと笑った。
「ちょっと痩せちゃいましたもんね」
「わかる? こんなにプレッシャーを感じたの、生まれて初めてかも知れない。それで飯倉さんは、最近どう? 僕が編曲にいそしんでいる間に、夏目先生と何かあったでしょう」
鋭いな、男の勘。
「わかります?」
「わかるよぉ。楽しそうだし、顔の色艶がいいもん……って、ごめん、気持ち悪いね。セクハラだね、ごめんごめん」
「いえ、気にしないでください」
「ありがとう。でも気を付ける。自分でも気づかないうちに、おっさん化が進んでいるのかも知れない」
会社に戻る途中、萩岡係長は和菓子屋さんに私を誘った。
店内に入ると、正面にショーケースがあり、その中には「霜月」と書かれた小さな木札が立ててあり、淡い色合いの繊細な生菓子が並んでいる。
「飯倉さんは夏目先生の件でお祝い、僕はアレンジ完成の慰労。佐山君と片山さんには、今年もお世話になったお礼にしよう」
好きなのを選んでいいよ、と言ってくれたので、私は「亥の子餅」を選んだ。
「それ、美味しいよね。僕も好き。すみません、亥の子餅を四つ包んで下さい」
係長がお会計をしている間に店内を見ていると、美しい干菓子を詰め合わせた小箱が目に入った。色合いと形が独特で、和よりも洋の雰囲気を感じる。水彩画のような。
「これ、素敵ですね」
思わず、店員さんに声をかけてしまった。
「ありがとうございます。うちの若い職人が作っているんですよ。呼びましょうか」
「えっ、いえそんな、いいです」
だが店員さんはすでに奥に消えており、少しして、白い作業着の女性を伴って戻ってきた。
「あら」
驚いてから笑ったその人は、結衣さん――瀬戸さんと先月結婚したばかりの――だった。美大を出てアート関係の仕事に就くはずが、和菓子に魅せられて職人の道に進んだのだという。
「せっかくこうして会えたから、近いうちにお食事でもどうですか?」
「是非!」
瑠璃と母以外の女性と食事に出かけるのは、何年ぶりだろう。とても楽しみだ。少しだけ、世界が広がりそうな気がした。
(続く)
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