28.三田村さんとの土曜日
翌日、土曜日の朝。
ラウンジに降りると、庭に続くウッドデッキの端に三田村さんが腰かけているのが見えた。私もそばに行き、三田村さんの少し後ろに立った。
「初めてですね、ここにいるの」
「涼しくなって気持ちいいから。金木犀が咲いた」
中庭の大木がオレンジの小さな花を沢山つけ、辺りは甘い香りに満たされている。この香りをかぐと、ああ、秋が来たなと思う。乾燥した空気が清々しく、軽い。
「それ、観てたんですか」
三田村さんが手にしたタブレットには、「KSJC大好き」さんのアップした動画が表示されていた。
「少しだけね。自分の姿に驚いてすぐ止めた」
「三田村さんが一番、普段と違いますもんね」
「……」
実は私も、さっきまで部屋で観ていた。演奏中の三田村さんはときおり笑い、すごく楽しそうだった。ドラムを叩く私からは、ステージ上ではほとんど後ろ姿しか見えない。だからてっきり、いつものようにツンと澄ましているものとばかり思っていた。
「昨日の話、どう思った?」
「面白そう。やってみたいです」
「……飯倉さん、俺が思ってたのとちょっと違った」
「そうですか?」
「うん。意外と積極的。優柔不断なところもあるけど、決めたら早いよね。それに最近、すごく楽しそうだ。夏目先生が好きになったのも、わかる気がする」
夏目先生が?
私がきき返す間もなく、三田村さんは言葉をつないだ。
「で、今日はどうする? まだ七時だけど、朝食は?」
三田村さんと私は、ファミレスで簡単な朝食を取り、コーヒーを三杯お代わりした。二人ともミズモリケントが気になって、あれこれネットで調べては、情報を共有した。
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ミズモリケント
二十九歳、K大学経済学部卒。
広告代理店勤務を経て、二十七歳で歌手デビュー。
きっかけは、エス・ミュージック・プロダクション主催の作曲コンテストでの優勝。
これまで出したシングル三枚、アルバム一枚。いずれもセールスは振るわず。
―――――――――――――――
ミズモリケントについての会話は、シェアハウスに戻っておでんの準備をして鍋にかけ、チェスを始めてもまだ続いていた。
「広告代理店、辞めなきゃよかったのに」
「そんなあ。夢に賭けた人に対して、その言い方はないんじゃないですか」
「でも、このままじゃ大変だろ。せっかくK大まで出て大手企業に入ったのに。辞めるなんて、もったいない」
「三田村さん、会社、好きですか?」
「いきなり何」
「中高と音大付属だったのに、なぜ音大に行かなかったんですか?」
前から気になっていた。三田村さんは、ピアノもバリサックスもすごく上手い。音楽的な才能に恵まれていると思う。それなのになぜ、普通の会社員になったのだろう。
三田村さんはすぐには答えずに、チェスの駒を動かした。まずい、私はピンチになった。盤上の駒を凝視して、切り抜ける方法を考える。クツクツと、おでんの煮える小気味よい音が鍋から聞こえてくる。
私が駒を動かしたのを見てから、三田村さんは答えてくれた。
「音楽で食べていくのは甘くないと思ったし、楽しみとして付き合っていければ十分かなと思った。あとは、俺は組織とか秩序が好きなの。財務課で資金面から会社を見るっていうのは、すごく面白い」
「三田村さんは、今の生活、満足してますか?」
「してる。入社直後から希望の部署に配属されたし、音楽も続けられてるし。土曜にはこうして――」
「こうして?」
「いや、何でもない。飯倉さんは? 満足してる?」
「……してるんです。客観的に見たら、アラサーで彼氏はいなくて仕事は一般職で、この先どうするんだって感じだと思うんですけど。実際、実家にいた頃はうじうじ考えてましたし」
「うん」
「今は、毎日張り合いがあって楽しいです」
「そっか。良かったね。はい、チェックメイト」
「!」
色々と話しながらも、三田村さんは着々と盤上に罠を張り巡らし、私を陥れ、鮮やかに勝利した。チェスを始めて二カ月。いまだに私は三田村さんに勝てない。それどころか、全く歯が立たない。
三田村さんはクイーンとビショップ抜きで私の相手をしていて、今のところ私の目標は、三田村さんにすべての駒を並べさせることだ。
(続く)
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