20.リベルタンゴ
巨大なセミに追いかけられる夢を見た。
びっくりして飛び起きると、開け放った窓からセミの大合唱が響いていた。そうか、庭の桜の木に沢山いるんだ――。
夏目先生と二人でお蕎麦を食べてから、約一週間。あの後も、夏目先生の私への接し方はこれまでと変わっておらず、個人的に食事に誘ってくるとかメールをくれるとか、そういうことは一切ない。
やっぱり萩岡係長の「男の勘」は外れていると思う。実はほんの少しだけ期待してしまったのだが、あの時、夏目先生は本当にお腹が空いていて、ついでに私も誘ってくれたのだろう。人生、そんなに都合よくはいかないのだ。
昨日はKSJC全体の合同練習だった。ライブを来週の金曜日に控え、当然、練習には熱が入った。すべての曲目を通しで二回演奏し、気になる箇所は繰り返し練習した。帰宅したのは午前零時を過ぎていた。
枕元の目覚まし時計を見ると、七時。もうひと眠りしようと、窓を閉めて冷房を入れたが、目が冴えてしまって寝付けない。仕方なく起きることにした。キッチンに降りるとコーヒーの匂いが漂っていて、ドアのむこうのラウンジから微かな物音。三田村さんだ。
相変わらず私たちの会話は弾まないが、気配がすれば、お互い近寄って挨拶くらいはする。冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り出してドアを開けると、ウッドデッキにつながる大きな窓の向こうに、濃い緑と夏の光が溢れていた。
三田村さんは書棚の前の床に座り、楽譜を眺めていた。周りには、無造作に散らばった楽譜が二十冊ほどと、飲みかけのコーヒーの入ったカップ。
「おはようございます」
「おはよう。セミ、うるさかったな」
三田村さんもか。
「楽譜、どこからそんなに?」
「このキャビネットにたくさん入ってるんだ」
「そうなんですか。扉付きだから、今まで気付きませんでした」
「俺は入居するとき、自由に使っていいって言われた。この家の持ち主だった夫婦が置いていったって」
バイエル、ブルグミュラーから始まって、バッハ、ソナチネ、ソナタ、ショパン。一通りの楽譜がそろっていた。
「連弾曲集もありますね」
以前『海の見える街』を一緒に弾いて楽しかったことを思い出し、私は三田村さんの隣に行ってキャビネットに手を伸ばした。取り出した楽譜の目次を見ると、好きな曲が載っていた。『リベルタンゴ』。
「いいよね、ピアソラ。弾いてみる?」
朝のラウンジに情熱的なピアソラのリベルタンゴが響く――はずだったが、そうはならなかった。三田村さんはほぼミスなしで弾ききったが、私がダメだった。途中何度も引っかかり、最後も息が合わずぐちゃぐちゃ。悔しい……。
「ちょっと一人で練習させてください。三田村さん、後でまた合わせてもらえますか?」
「本気?」
「もちろんです」
三田村さんはちょっと驚いた様子で、少し笑った。
「わかった。じゃあ、買い物してくる。お腹空いた。朝食まだだし。飯倉さんは? ついでに何か買ってこようか? 食材のストック、切らしてるでしょ」
冷蔵庫と戸棚を共有しているので、お互いの食料事情はバレてしまうのだ。
「いいんですか?」
「いいよ。何が欲しい?」
「……えーと……」
困った。すぐに答えられない。
「飯倉さん、優柔不断だよね」
三田村さんは、せっかちだ。
「……すみません」
「好き嫌いってある?」
「は?」
「苦手な食べ物は?」
「特には」
「じゃあ、適当に買ってくる。口に合わなくても文句言わないで」
そっけなく言うと、三田村さんは行ってしまった。
独りきりになったラウンジで、思い切りピアノを弾く。苦手なところを何度も繰り返し、整ってきたら少し前から。今度は別の場所を。そうやって、三田村さんが戻ってくるころには、私の『リベルタンゴ』は何とか形になっていた。
「おっ、進歩してる。でもまずは、食べよう」
三田村さんが笑顔を――といっても、口元がかすかに緩む程度だが――見せた。そして、手にしていたビニール袋から、経木の包みをラウンジのローテーブルに置いて広げてくれた。そこには、小さめのおにぎりが八個。
「わあ。きれいですね、美味しそう」
「たらこ、鮭、肉味噌、カルビ、葉唐辛子、野沢菜、キムチ、梅。上に目印が付いてる」
なるほど、三角形の上の部分は海苔を巻いておらず、白米の上に、ちょこんと小さく、たらこや鮭などの具材がのせてある。
「どこで買ってきたんですか?」
「商店街に入って二つ目の十字路を左折したところ。『おにぎり屋』っていう店があるんだ。名前のまんま、おにぎりだけ売ってる」
「へえ。あっ、おいくらでしたか?」
「いいよ、安いから」
「いいえ。お支払いします」
一緒に住んでいるからこそ、お金のことはきちんとしたい。
「……四百円」
なんと、こんなにおいしいおにぎりが一個百円で買えるとは。今度行ってみなくては。
おにぎりを食べ、お茶を飲み、お金を払って準備は万端だ。三田村さんと私は、再びピアノの前に座った。
呼吸を整えてから、情熱的な旋律をたどっていく。さっき引っかかってばかりだった右手の早い動き、ついでに言えば楽譜をめくるタイミングまでばっちりだ。よく頑張った、私。三田村さんが弾く低音部は、相変わらず安定している。ほんとうまいな。
曲は後半に差しかかり、三田村さんの右手と私の左手を交差させて弾く部分が続く。ここも、さっきは失敗ばかりだった。今回は――何とか弾けた。そして激しいクライマックスへ。
最後はすべての手で同じ旋律を弾き――ぴたりと揃った――そして和音――。やった、成功! 私は思わず三田村さんを見た。三田村さんの視線は楽譜に向けられていたが、とても楽しそうな、いい表情をしていた。
こうして、三田村さんと私の連弾レパートリーは二曲に増えた。
(続く)
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◇作中登場する曲で原曲のオフィシャルな動画のあるものや、関連楽曲で面白い動画のあるものは、下記URLに順次追加していきます。
リベルタンゴ Libertango / Astor Piazzolla
https://youtu.be/qhJBBn1V_do?list=RDqhJBBn1V_do
連弾の再生リスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PL0-g9V4B-03LQWD-dzzCifcZbbXeC6MVC
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