19.花音、夏目先生とお蕎麦を食べる
練習の後、夏目先生と私は駅までの道を一緒に歩いた。
いつもは萩岡係長と瀬戸さんがいるのでにぎやかだが、今日は二人きり。気まずいな……と思ったのだが、夏目先生の気遣いのおかげで、意外と楽しい帰り道になった。
夏目先生は、あれこれ話を振ってくれる。私の返事がイマイチで会話はぶつ切れだが、夏目先生は適度なペースで自分のことを話したり、私に質問したりしてくれるので、気まずい沈黙は発生しない。三田村さんと話すときとは正反対だ。
道を行きかう人が増えてきた。もう少しで駅に着く。夏目先生は私とは別の路線で、さらに五分ほど歩いた場所にある駅を使っているから、ここでお別れだ。
「お疲れさまでした。じゃあ、また明日の練習で」
私が駅の改札に向かおうとした時。
「飯倉さん、お腹空いてない?」
夏目先生は、私を食事に誘ってくれた。
「渋い選択だったけど、美味しいですね」
「うん。蒸し暑いから、冷たい蕎麦はちょうど良かったね」
私たちは、すぐ近くにあったお蕎麦屋さんに入った。私は冷やしなめこおろしそば、夏目先生は天ざる。冷たいお蕎麦がツルツルと、喉に心地よい。
「三田村君と一緒に住んでるって話、何でそうなったの?」
「たまたまなんです」
私は、三田村さんとシェアハウスで同居することになったいきさつを話した。夏目先生は、まるで問診でもしているかのような落ち着いた物腰で、じっくりと話をきいてくれた。
へえ、そうなんだ。それで? それってどういうこと? 飯倉さんはどう思っているの?
話しやすい。それでつい、母親との口論のこと、今も冷戦状態が続いていることまで話してしまった。
「あっ、すみません。母とのことまで。余計でしたね」
いくらなんでも、しゃべり過ぎた。
「いや、そんなことは――思い切って家を出て、良かったと思うよ」
すごく嬉しい一言だった。夏目先生に話してみて良かったと思った。
デザートにわらび餅を食べながら、まだ会話は続く。
「シェアハウス、来年の三月には出なくちゃならないんだね?」
「そうなんです。とても素敵な洋館で、取り壊しはもったいないと思うんですけど。三月までに引っ越し資金を貯めないと」
節約生活を頑張っているところだ。
「三田村君とは? 家で一緒にご飯食べたりするの?」
「いいえ。生活ペースがずれていて、シェアハウス内ではほとんど会いません。KSJCで一緒に過ごす時間の方が長いかも」
ふと、この間の誕生日のことを思い出したが、伝えずにおいた。
「夏目先生は、どんなところに住んでいるんですか?」
「大学病院近くのワンルーム」
「お仕事、やっぱり忙しいですか?」
「ほどほどかな」
「お医者さんの『ほどほど』ってどんな感じですか?」
私がきくと夏目先生はちょっと考えて答えた。
「先月は、残業が百五十時間くらい」
激務だ。
今日は楽しかったな。
地元駅に着いて改札を出ると、人影はまばらだった。商店街の灯りは消え、いつも帰ってくる時間とは別の町みたいだ。もう遅いものね。急ごう。私は歩みを速めた。その気配を感じたのだろうか、すぐ前の交差点で信号待ちをしていた男性が、こちらを振り向いた。
「三田村さん」
「飯倉さん」
二人の声が重なった。
「……練習、どうだった?」
「夏目先生と二人で、全曲通しました」
「瀬戸さんと萩岡係長は?」
「瀬戸さんは出張、係長はドタキャンでした」
「……夏目先生と二人きりだったの?」
「はい」
「そう」
それきり会話は続かず、三田村さんと私は、家までの道を黙って歩いた。
(続く)
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